「荒木が捕まっていないのは納得できないけど、なんだか分かる気がする。世の中って、そういうものだからさ」
痛い目に遭うのは、決まって善人だ。下手をすれば、荒木は警察に追われてすらいないのかもしれない。監禁や暴行も海に突き落としたのも、全て他の人間が行ったことだ。
「なんだよ。こんな所で、そんな事を考えていたのか」
呆れ気味に海斗が言った。
「仕事で色々あってさ。『どんなに間違っていようが、黙って従うことが立派な社会人だ。無駄とか非効率とか我儘言ってないで、言われた通りに動くこと。身体や心を壊して家族を犠牲にしてでも上の者に尽くすのが礼儀だ。指導は高圧的であるべき。人は負荷を掛けなければ成長しない。根性、根性……』こんな馬鹿げた思想を全員が共有して、同じ内容を口走っている。これって、一体、何なんだろうかと思ってさ」
努力の方向性が違っているっていうのに、みんな一体、何を言っているんだろう。『頑張っていたら必ず報われる』そんな馬鹿な話はない。
「俺らいつもそんな話してたな」
「海斗、あれ覚えてる? 体育の授業のこと。散歩中の外国人たちが不思議そうな顔をして、僕らを見てたでしょ。行進してる僕らをさ」
「ああ覚えてるよ。こいつら何やってんだって顔してたな」
外国人たちは、僕らを馬鹿にした目で見ていたわけではなかった。本当に理解できないといった顔をしていた。
「あの時、我に返ったんだ。本当に何してんだって……。授業が終わってから、その時の違和感をみんなに話してみたけど、分かってくれる人は誰もいなかった。こいつ何言ってんだって白い目を向けられただけでさ。あの時のことが忘れられなくて、今もずっと胸に残ってる。目の前でおかしなことが起きているのに誰も気づかない。こんな馬鹿なことがあるのかって」
どうして、みんな考えることを止めたのだろう。
『それは仕向けた者がいるからですよ。そうなるようにね。上に立つ者が考えることを止めさせて、下にいる者が言われるがままに考えることを止めた。人間だというのにね。その思想と行動は上に立つ持つ者にとって都合の良いものばかりですよ』
またこの声だ。
今まで様々なことを吹き込まれてきた。「余計なことを考えるな」「余計なことをするな」「個性を発揮するな」「集団に倣え」「上の者の言うことは絶対だ」「怒ってはいけない」「黙って従うべきだ」
もう、うんざりだ。
立ち上がって遠方を見据えた。遠くに見える海や夕日は幼い頃から何も変わってはいない。変わったのは僕らの方だ。
「どうしたんだよ。急に」
「海斗。やっぱり、僕らは間違ってなかったんだ」
僕らが小さい頃から散々聞かされてきた常識や悪意の言葉の数々は、何の根拠もない出鱈目なものだった。それらの虚言に意味などあるはずがない。だったら彼らの言葉なんて否定してしまえば良い。信じるに値しないのだから。
「難しいことは分かんねえけど、何となく胡散臭いってことだけは分かってたよ」
あの人たちに認められるということは、『お前も同種の人間だ』と言われているようなものだ。評価を受けなくて本当に良かった。
「だいぶ暗くなってきたな。そろそろ帰ろうぜ。少しは気が紛れたろ」
海斗が立ち上がって、僕の隣に並んだ。時間を確認しようと携帯を見た時、雨宮さんから着信があったことに気づいた。
「海斗。見つかったかもしれない」
「見つかったって、何がだ?」
「景色の場所だよ」
逸る気持ちを抑えることができない。直ぐに雨宮さんに電話を掛けた。
「楓月です。場所が分かったのですか」
「それが日記を全て読んだのですが……」
全身の力が抜けていくのを感じた。雨宮さんの声の様子から、この先に続く言葉は期待できそうにない。
「そうですよね。そんな都合よく見つかるわけがないですよね」
期待が大きかっただけに、溜息しか出ない。
「楓月さん、そんなにがっかりしないで下さい。はっきりと記述した箇所が見つからなかっただけですよ。ヒントになりそうな記述なら見つけましたから。お父様は随分と荒れた生活を送っていたそうですね」
一葉を亡くした時期だ。自堕落な生活を送っていたと母から聞かされている。
「しかし、どこかの景色を見て、人生が一変した。その時の表情があまりにも晴れやかだったので、私の祖父が『どこに行っていたのか』と尋ねたところ、楓月さんのお父様は笑って誤魔化したんだそうです。船を使った形跡があったので、沖に出て行ったのは間違いないらしく、私の祖父は『人に言えない場所だったのではないか』と推測しています」
「楓月さん、申し訳ありません。これくらいしか分からなくて……」
「それだけ分かれば十分です。お手数かけてすみませんでした」
「いえ、楓月さんに出会えたからこそ、私も祖父の日記を全て読む気になれたのですから、感謝したいのは寧ろこちらの方です。祖父母や両親に愛情を注がれて育てられたんだなって。日記を読んで改めて感じました」
雨宮さんは感慨深そうに話した。愛情か……。僕には分からない感覚だ。
「景色、見つかったら良いですね。でも気を付けて下さい。ニュースで見ましたよ。おかしな人たちに付き纏われているって」
「もう大丈夫です。殆どの人は逮捕されましたから」
雨宮さんに心配をかけさせるわけにはいかない。余計なことを言うのは止めておこう。雨宮さんにお礼を述べて、電話を切った。
「どこだって?」
「人に言えない場所だってさ」
「何だよ、それ。目星は付いてるのか? ここまで来たら俺も手伝うよ。あいつが追いかけて来るかもしれないけど、船に乗っていたら大丈夫だろ。逃げれば良いだけだからな」
海へ行くなら、海斗の力が必要になる。僕は船舶免許を持っていない。
「じゃあ海斗、頼んでも良い?」
「もちろん。だけど行って何をするつもりなんだ? 景色を見るだけか?」
「絵を捨てようかと思ってさ」
「冗談だろ? まあ楓月の好きにしたら良いけどさ」
僕らが沖に出ようとすれば、どこかで監視している信者が必ず荒木に報告する。目の前で絵を捨ててやれば、さすがに諦めが付くだろう。