病室に向かう途中、美由紀さんたちと廊下ですれ違った。病室に変更があったらしく、咲良はスタッフステーションから離れた部屋に移されたとのことだった。美由紀さんたちは多くを語らず「それじゃあ、先に帰るわね」と言って、病院を後にした。
静寂に満ちた廊下を歩いて行き、室内を眺めた。外からの強い日差しが樹々によって木漏れ日へと変わり、咲良を優しく包み込んでいる。まるで祖母の家に泊まった時のように、咲良の表情は穏やかだ。呼吸は弱々しくも一定のリズムを刻んでいる。
あの日の夜、僕は咲良の苦悩を初めて知った。咲良は自分だけが助かったことに対して、罪の意識を感じているようだった。
ベッド脇の椅子に腰かけて、思い耽っていた時、看護師が入って来た。
「こんにちは。佐藤楓月さんですか?」
「ええ、そうです」
「石川咲良さんが病院に運ばれて来た時のことですが、『私は大丈夫だから探してきて欲しい」そして『お母様はクローゼットの服を捨てていた』と話していました。楓月さんに伝えて欲しいと。私には何のことか分かりませんが」
看護師は「それでは失礼します」と言って立ち去った。
咲良は母に会いに行ったのか……。穏やかな顔をしているのも納得がいく。
ふと窓の外を眺めた時、見覚えのある後ろ姿が見えた。あれは香流甘ではないか。木の葉に隠れて見ることができないが、あまり穏やかな雰囲気ではない。誰かと言い争っているように見える。急いで香流甘の元へ向かった。
「香流甘さん、どうかしたのですか」
もう一人いたはずだが、どこに行ったのか。
「邪魔者を追い払っていたんですよ」
「邪魔者って?」
「絵蓮さんです。咲良さんの面会に行くと言うので、私が引き止めたんです。私もそうだと思いますけど、絵蓮さんは咲良さんに会う資格なんてありませんから」
絵蓮がここに? 一体、何をしに来たのか。
「港町を歩いていたら絵蓮さんを見かけたので、脱会することを伝えようと追いかけたら、ここに辿り着いたってわけです。あの人、頭おかしいですよね」
香流甘は飄々と言ってのけた。二人の関係はあっさりしている。絵蓮も香流甘との縁が切れたことを何とも思っていないのではないか。絵蓮は多くの人たちを路頭に迷わせてきた。何人もの人が傷ついて、絵蓮の元から離れて行ったはずだ。離れたり、壊れる度に一々、感傷に浸っていては精神がもたない。絵蓮にとって、人間なんてものは自分のステータスを上げる為の道具にすぎないのだ。
「絵蓮さんが、私のことを『期待していたのに残念な子。素質があると思ったのに』って言うんですよ。上から目線で。なんか腹立つ。しかも素質があるって、失礼だと思いません? 人を騙す素質ですよ」
「たぶん頭が良いという意味ですよ」
「そうですかね。仮にそうだとしても、私は良いことに使いたいです」
自分の人生に悪影響をもたらす人が目の前に現れた時、そのまま受け入れてしまう人もいれば、香流甘のように反発して反面教師にする人もいる。後者でありたいものだ。過去の失敗なんて成長の糧にすれば良い。
「私、絵蓮さんから離れることができて良かったと思います。あの人、なんか怖いんですよね。心の内側が見えないから」
見えないのは見せないからだ。弱いから見せることができない。
「あと絵蓮さんが、ICレコーダーを警察に提出すると言っていました。荒木さんとの会話を録音したものです。あの人、荒木さんの息の根を止めるつもりですよ。居場所も警察に伝えると言ってましたし。もう荒木さん、いよいよ終わりですね」
あの中年女性と同じだ。散々、一緒に行動を取っておきながら、いざとなれば直ぐに手の平を返す。絵蓮は荒木を片付けて、自分だけ生き残るつもりだ。結局は教祖や荒木の言っていた通りということか。この世の中は狡猾な人間ばかりが利益を獲得し、生き残る。
「香流甘さんは、もう家に帰るつもりはないのですか」
「お母さんが成長したら考えますけど、今のところはないです」
香流甘はきっぱりと言った。
「楓月さん、今回は色々と迷惑をかけて、本当にすみませんでした。咲良さんにも伝えておいて下さい。私、これからアルバイトの面接があるので、お先に失礼します」
去って行く香流甘の足取りは軽やかだ。支配的な人間の元からは離れた方が良い。きっと香流甘なら、やって行けるだろう。