「夜はあまり来たくないところね」
無機質なビルが建ち並んでいる。昼間だけ会社として機能している町の一角だ。その為、夕方以降は町から人の姿が消える。
「この辺りに入って行ったはずだが」
宗一郎は車の速度を落としながら、周囲を見渡した。
「奥にいるのだとしたら、私たち車から降りて行かなきゃならないわよ」
「わしらなら大丈夫じゃないか。散歩しているとしか思われんよ」
「お父さん、あれ見て。さっきのバイクじゃない?」
一台のバイクが目の前に現れ、宗一郎たちの横を通り抜けていった。黒のバンの後ろを付いて行ったバイクだ。宗一郎は離れた位置で車を停めると、バックミラーを注視した。男もバイクを停めている。
「バイク男、動き出したぞ」
しばらく動きを止めていた男が駐車場に入って行った。不自然なことにバイクは道路に停めたままだ。
「釣りをしに行った。わけではなさそうね」
「そうだな。あの男、釣り道具一つも持ってないからな」
「夜景を見るような雰囲気でもないわね。でも犯人でもなさそう。もし犯人だったら、追跡なんてするはずがないし」
男は身を潜らせて、奥を覗き込むようにして進んで行った。
先ほどまで遠くにあったはずの船が間近に迫っている。強風で流されて来たのだろう。
「おいおい、暴力は止めろよ」
砂利を踏みつけながら現れたのは荒木だった。言葉とは裏腹にニタニタと笑い、眼差しは蔑視そのものだ。相変わらず不快な気分にさせてくれる。
「お前、俺が逮捕されるとでも思ったのか。そんなヘマ俺がするわけねえだろ」
「咲良さんを解放してくれ。咲良さんは関係がない」
「は? 何言ってんだ、お前。ここまで俺を虚仮にしておいてタダで帰すわけねえだろ。おい。トカゲ。その女をこっちへ連れて来い」
咲良が暗闇から姿を現した。疲弊しきっている。僕のせいで、こんな目に……。
「荒木さん、こいつどうします?」
僕の顔を踏みつけたまま、恰幅のある男が荒木の指示を仰いだ。
「絵の所在を吐かせろ」
「おい、絵はどこだ」
恰幅のある男が体重を頭に圧しつけてきた。頭が割れそうだ。
「楓月! 大丈夫か」
この声は……。帰ったのではなかったのか。
「誰だよ、お前。こいつの仲間か」
金髪の男が海斗に凄んで見せた。
「さあ、どうだろうな」
海斗は金髪を見ることなく、黒く染まった空を見上げて一言呟いた。そして二人組の男たちを見据えた。
「そんなことより、お前ら、早く逃げた方が良いんじゃないか。警察がここに向かって来ているぞ」
「おいおい、マジかよ。こんなことで捕まるなんて冗談じゃねぇぞ」
金髪たちが狼狽えている。
「わりぃ、荒木さん。そういう訳であとは宜しく」
「おい、逃げんのかよ!」
背を向けて逃げ出す二人に荒木が怒声を浴びせた。
金髪が振り返る。
「当然でしょ。あんなはした金で捕まりたくはないんでね。それにこいつを連れてきたのだから、もう十分でしょ」
そう言って、金髪は恰幅のある男の後を追いかけて行った。
「哀れなもんだな。あれ本当にお前の仲間か? 見捨てて逃げて行ったぞ」
海斗が荒木を見て言った。
海斗は、こちらに近づいて来れずにいる。荒木の足元には僕が倒れており、その直ぐ傍には咲良が人質になっている。
「あんな奴ら、仲間のわけがねえだろ。そんなもの俺には必要ねえしな。人間ってのは弱いからつるむんだろうが」
物は言いようだ。こいつは仲間を作りたくても作ることができないだけだ。
「で、あんたは逃げないのか?」
「どうして俺が逃げなきゃいけねえんだ? お楽しみはこれからだろ」
荒木が僕の髪を掴んで頭を持ち上げた。荒木の冷徹な目と漆黒の空が重なり合う。
「お前の、その目が気に入らねえんだよ。何なんだ、その見下した目はよ。お前は何もしてねえくせに偉そうにしやがって。ゴミ屑が! 海に突き落としてやろうか」
荒木は僕の身体を持ち上げると、そのまま柵に圧しつけた。海は闇に包まれている。この潮の流れでは、泳ぐのは不可能だ。瞬く間に海に飲み込まれてしまう。
「お前は何をするにしても他人任せだ。本部から逃げた時もそうだったよなあ。お前、一体、何なんだよ。親から遺産を受け継いで、今度はそれを独り占めしようってのか。苦労知らずのぼっちゃんよ。ふざけてんじゃねえぞ」
荒木の目が怒りで満ちている。きっと、この男も自分に降りかかってきた不幸の全てを他人のせいにして生きてきたのだ。その経験から何も学び取ることをして来なかった。こいつは社会に負けて、そして自分にも負けた人間だ。
「俺はな。子どもの頃から、お前みたいな奴をよく見てきたんだ。親が借金取りに追われててなあ。ズル賢い奴ってのは何もせずに利益だけを奪い取って行く。まともな奴はいつだって不幸だ。神や仏なんざ存在しねえ。居たところで単なる傍観者だ。下らねえ話だが、この世の中ってのは、上手く立ち廻った奴が最後に勝つことになっているんだ」
喉元に荒木の手が食い込んできた。息が……できない。荒木は理性を失っている。本当に海に突き落とすつもりだ。
「おっと動くんじゃねぇぞ」
止めに入ろうとした海斗を荒木が牽制した。荒木の手を解こうと懸命に足をバタつかせるが、荒木の腕力は強く、びくともしない。
「はっはっ、いいぞ。その目だ」
荒木の瞳孔が開いている。どうして、このような奴ばかりが世にのさばっているのか……。
「楓月さんを離して!」
意識が朦朧とする中、咲良の声が聞こえた。身体が地面に崩れ落ちる。荒木の手から解放されたのか……
「何だ? お前も俺に逆らおうっていうのか。お前なんかどうでも良いってのによ。こいつを誘き寄せる餌だぞ、お前はよ。邪魔するんじゃねえ」
荒木は咲良の首に手をかけて、そのまま身体を持ち上げた。咲良の身体は軽く、いとも容易く宙に浮いた。
「や、止めてくれ」
懸命に手を伸ばすが、宙を掴むばかりで咲良を掴むことができない。このままでは咲良が海に落ちてしまう。
「邪魔をするなああ!」
突然、暗闇から奇声にも似た叫び声が聞こえた。トカゲがもの凄い勢いで、こちらに向かって走って来たかと思うと、そのまま咲良に激突した。
咲良の身体が柵の向こう側へ落ちて行く……。
「さ、咲良……」
「楓月。どいてくれ」
海斗が柵を乗り越えて海へ飛び込んだ。無茶だ。この海の中を泳ぐなんて……。痛みに堪えながら柵を掴んで何とか立ち上がるが、すでに咲良と海斗の姿はどこにも見えなくなっていた。海が巨大な川のようにうねっている。
遠くでサイレンの音が聞こえた。徐々に音が近づいてくる。その音に即座に反応した荒木が一目散に駆け出して行き、その後を慌ててトカゲが追いかけた。
二人はどこまで流されて行ったのだろうか。足を引き摺りながら、懸命に柵に沿って歩いた。
あの船は……。前方に船が見える。暴行を受けていた時に見た船だ。こんなに近くまで湖岸に接近していたのか……。
船上の男が誰かを引き上げている。あれは海斗ではないか。
「女の子がもう一人いるはずです」
柵から身を乗り出して叫んだ。
「それなら、もう仲間が引き上げてるよ。ほら、あそこ」
船乗りが指し示した方角に、もう一艘の船があった。咲良が甲板にうつ伏せに倒れている。海斗とは異なり、咲良はピクリとも動かない。
パトカーと救急車が到着し、辺りが騒然となった。
「楓月くん、二人は大丈夫そうか」
宗一郎さんだ。後ろには美由紀さんもいる。探していてくれていたのか。
「海斗は大丈夫だと思います。だけど咲良さんは……」
海斗は柱に寄りかかって身体を休めている。しかし咲良は横になったままだ。
「あんなに優しい人なんだもの。神様が見捨てるわけがないわ」
そう言って、美由紀さんが船を眺めた。二人とも海へ落下してから、直ぐに船乗りたちに助け出されている。無事だと信じたい。