残された絵蓮は一人、溜息をついた。
「あなたもそうなの?」
絵蓮が誰もいない空間に向かって呟いた。まだ他に誰かいるのか。
「そこにいるのは分かってますよ、楓月さん。いつまでもそんな所にいないで降りて来たらどうですか」
気づいていたのか。慣れない尾行なんてするものじゃない。
「私の他には誰もいないから、心配しなくても大丈夫です」
周囲に誰がいようがいまいが、どちらにせよこの場所にいたら逃げることはできない。階段を降りて絵蓮と向き合った。絵蓮は海斗にしていたように腰に手を当てて、こちらを見下すようにして立っている。虚勢を張って生きることしかできない哀れな人間だ。
「絵蓮さん、今更、何をするつもりですか。もう、あの教会は終わったはずですよ」
「確かに教会は、もうダメでしょうね」
嘲るように絵蓮が言った。教会が終焉を迎えるというのに、少しも動じていない。
「信者は必ず何かに縋る。あの人たちは何かに依存していないと生きていけないのよ。だから何も問題はない。あなたもセミナーの動画を見たでしょ。人間ってあんなにも簡単に騙される生き物なのよ」
絵蓮は教祖とは対照的だ。教祖は人を騙し続けることに対して辟易しているように見えた。しかし、この絵蓮は……。
「また設立するつもりですか」
「いいえ。そんな馬鹿なことはしないわ。今の時代、会社なんて不要だからね。わざわざ設立する必要がありますか?」
「そこまでして、お金が欲しい理由は何ですか」
絵蓮を揶揄いたいという気持ちは微塵もない。絵蓮だけが特別なわけではないからだ。多くの人が胸に抱いている欲望でもある。
「お金ね」
絵蓮は呆れとも言えない冷めた眼差しをした。
「お金だけじゃないわ。欲しいのは地位も名声も全てよ」
やはり絵蓮は自分に自信がないのだ。着飾ることで安心を得たいと思っている。
「あーあ。あなたの親友を使えば、絵を手に入れられると思ったんだけどな。やっぱり甘かったか。そんな気はしてたけどね。私は、もうこの件からは降りるわ。あの絵に拘る必要なんてないし」
「嘘つけよ」
そんなに簡単に諦めるはずがない。こいつの言うことは信用できない。必ず裏がある。
「本当よ。希少価値の高い絵というのは魅力的ではあるけど、別にあの絵でなくても構わない。信者なんて本当に何も考えていないから、基本的には何でも良いのよ。絵に纏わる由来なんてのも、どうにでもなるからね。そんなことより荒木には気を付けた方が良いんじゃない? 荒木のような脳筋野郎に執着されたら終わりよ。あいつは、どこまでも追いかけて来る」
脳が『荒木』の言葉に反応した。そうだった。こんなところで立ち話をしている場合ではなかった。
「咲良さんをどこに連れて行ったんだ?」
「はっ? 咲良? 何のこと?」
「荒木に連れ去られたんだよ」
こちらの様子を探るように、絵蓮が僕を凝視した。
「まさかね。そこまでするなんて……」
まだ警察から連絡が来ていない。どこかで咲良は震えて助けを待っている。
「どこに居るんだ」
「さあ知らないわ」
「正直に言えよ」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。感情が高ぶっている。
「私が知るわけないでしょ。あいつの動向なんて一々把握してないわ。それに、私はあいつとは縁を切ったのよ」
絵蓮が捲し立てるように言った。しかし絵蓮は直ぐに冷静さを取り戻した。
「楓月さん、あなた本当に気を付けた方が良いわよ」
絵蓮が遠くを見据えている。
「私はこれ以上、関わりたくないから、先に失礼させてもらうわ。それでは」
足早に絵蓮が立ち去った。足音が辺りに響き渡る。次第に音は小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。
―─関わりたくない? 荒木でもいるのか。
絵蓮が見ていた方角に視線を移した。しかし誰の姿もない。一体、絵蓮は何を見たというのか。もし荒木ならば、そこに咲良もいるはずだ。確認しなければならない。
周囲に気を配りながら、慎重に足を運んで行った。前方から恰幅のある男が近づいて来る。とてもスピリチュアルに傾倒するようには見えない。この人は信者ではないだろうが、念の為だ。隠れておこう。ビルの隙間に身を潜めて、男が通り過ぎるのを待った。
「お前か。佐藤楓月ってのは」
突然、背後から声をかけられ、驚きのあまり身体が硬直した。ホスト風の金髪の男が真後ろに立っている。いつ背後に回ったのか。
「そんなところで何してんだ? こそこそと動き回って気色の悪い奴だな」
その男が馴れ馴れしく肩に手を回してきた。逃げなければ大変なことになる。そう思って手を振り解こうとした時、今度は前方から恰幅のある男が現れた。先ほどの男だ。柔道でもやっているのか、両耳が潰れている。
「絵蓮の奴、逃げましたね」
恰幅のある男が金髪に向かって喋った。僕は二人に挟まれる形となっている。
「あの様子じゃあ、俺らと遣り合うつもりはないってことだろうな。まあ、あんな奴には何もできやしないが」
この二人は荒木の仲間なのか……。
「しかし絵蓮を見張っていたら、こいつが現れるなんて。やっぱり神様はどこかで見てくれてるんすね。日頃から頑張ってる甲斐があったんじゃないんですか。」
男たちは、ぎゃっはっはと不快な声を上げて笑った。
「これは荒木の命令なのか?」
どうせ金で雇われた奴らだ。荒木の為に捕まるリスクを犯すわけがない。何もしてこないはずだ。
「お前に教える必要があるのかよ。馬鹿じゃねぇの」
金髪が嘲笑った。金髪は僕の肩に回している腕を解き、「付いて来い」と顎で示した。金髪が先頭を切って歩いて行く。
「逃げようとするなよ。下手なことさえしなけりゃ、痛い思いをせずに済むからよ」
そう言って恰幅のある男が僕の腕を掴んだ。これで咲良の元へ行けるのなら、むしろ好都合だ。逃げるわけがない。
「咲良さんは無事なのか?」
恰幅のある男に聞いた。
「咲良? ああ、あのバカ女のことか。あいつなら、そこらへんに捨てたよ。ははっ」
「ふざけんなよ」
「生意気な野郎だな。お前、自分の立場ってのが分かってねえのか」
恰幅のある男に腕を捻り上げられ、腕に激痛が走った。この程度の痛みくらい耐えなければならない。咲良はもっと辛い思いをしているのだ。痛みで顔を歪ませる僕を見て、二人は「腹が痛え」と声を上げて笑った。
「お前に恨みはねぇけど、一応仕事だからよ。結構な額、貰ってんだよ」
金髪がニタついた顔をして言った。
二人は人目に付かないように暗闇を選んで歩いていった。誰にも知らせることができない状況に、次第に恐怖感が込み上げてくる。このまま海に放り込まれでもしたら、誰にも気づかれることなく、僕の命は潰えてしまうだろう。
「乗れ」
金髪が後部座席を開けて言った。
里美の拉致を目撃した人が、「自分から乗り込んで行った」と話したそうだが、確かにそう見えたはずだ。この状況で抗うことなんて出来るはずがない。まして先に咲良が車に乗っていたとしたら尚更だ。