由香里と絵蓮が部屋を出て、数分経った頃、突然、液晶モニターに映像が映し出された。教壇に女性が立ち、それを若い女性たちが見上げている。
「まだ皆さんは魂のステージが低い状態にあります。今日は魂のステージを上げる方法について話したいと思います」
教会の教義を述べるようだ。どのような団体なのか、少し興味がある。
「まずは自己紹介から入らせて頂きます。私はベリーを務めさせてもらっている熊崎と言います。ベリーとは幹部のことです」
ベリーは聴衆を見据えて、ひと呼吸置いた。
「今日のテーマは欲望です。欲望には食欲、性欲、金銭欲、所有欲など様々なものがあります。一般的に欲を持つことは悪いことだと言われていますが、それは大きな間違いです。欲はあって当然のものです。それなのに世間の人たちは「欲しがってはいけない」「我慢すべきだ」と、これらの考えに囚われています。大脳新皮質の前頭前野という部位を働かせて、自らの欲望を抑え込んでいるのです。しかし欲が無ければ人は生きて行くことはできません。だから皆様には、心の奥底に眠らせたままにしている欲望をもっと開放して欲しいと思っています。欲望の声に耳を傾けて下さい。欲望に忠実になることで人生の成功確率は飛躍的に高まることでしょう」
『考えることは煩悩』
『我を肯定する』
正面を向いたまま、スクリーンに映し出された言葉をベリーが口にした。
「これがどういう意味か皆さん、お分かりですか? 煩悩というのは、一般的には『心を搔き乱す思考』のことを指します。多くの人は何が正しいのか、何が間違っているのか、常日頃から思考を働かせていると思います。皆さん、この際、考えることを一切止めませんか? と言いますのも、思考を働かせた瞬間に強烈なブレーキが掛けられ、そこで歩みが止められてしまうからです。子どもの頃を思い出して下さい。私たちは欲望の塊だったはずです。あれが欲しい。これが欲しい。常に周囲の大人たちにねだっていたのではありませんか。それなのに私たちは成長する過程に於いて、『これが常識だから』『周りの人たちも我慢している』と教育され、その結果、『欲を出してはいけない』と思い込んでしまった。自分ではない第三者の人間が、そのおかしな思想を私たちに刷り込んだのです」
会場がざわつく。
「いいですか? 皆さん。その刷り込まれた思想というのは、法律ではないのですよ。私たちを飼いならす為に、権力者たちが都合の良いように作り上げたルールに過ぎません。私たちは、気づかない内に権力者に足枷を嵌められてしまったのです。怖いと思いませんか? 『我』を捨てることが正しい思想なのだと思い込まされていたなんて……。制約を課せられた私たちは身動きの取れない奴隷と同じです。皆さん、目を覚まして下さい」
ベリーは力強い眼差しで聴衆を見つめた。
「私どもが、その洗脳を解く為のお手伝いを致します」
パラパラと拍手が聞こえた。拍手の数が次第に増していく。
ベリーが教壇から降り、代わりに傍らで待機していた男が教壇に上った。六十代半ばくらいの髭を生やした男だ。スクリーンには白衣を着た外国人研究者たちと日本人男性の写真が映し出されている。若い頃の写真だろうか。
男は聴衆が静かになるまで待って、それから声を発した。
「私は先日、妻に先立たれました」
その一言で聴衆の関心が男に向けられた。
「死因は癌です。そのことに妻が気づいた時には既に手遅れだったそうです。『そうです』と言ったのには訳があります。当時、私はアメリカに渡り、ある研究に没頭していました。私がアメリカでの生活を満喫していた頃、妻は余命宣告を受けて苦しんでいたのです。妻は私に心配をかけまいとして、癌であることを一切伝えて来ることはありませんでした」
聴衆は誰一人として口を開かず、次の言葉を待った。
「しかし私は薄々気づいていたのです。アメリカに旅立つ前、既に妻の身体は弱くなっていたことを……。元気だった頃の妻と比べると明らかに覇気が無く、体調は悪かった。それは誰の目にも明らかでした。それでも私は妻を日本に置いて、渡米する道を選んだのです」
静寂が会場を支配する。
「妻は私を引き止めようとはしなかった。この時、私は思ったのです。妻は欲望を抑えることを善しとしなかったのだと。私に我慢させる道を選ばせなかった。きっと心優しい皆さんは我慢して生きていることでしょう。だから苦しみもがくことになるのです」
スクリーンの画像が切り変わり、妻らしき女性が映し出された。男は間を空けて、僅かにトーンを落として聴衆に語り掛けた。
「妻は平和を愛する女性でした。苦しんでいる人がいれば、例え自分が犠牲になったとしても、必ず手を差し伸べていた。だから私も先立った妻に倣って、皆さんが幸せを掴む為のサポートをしたいと思い立ったのです。そうでもしないと死んだ妻に申し訳が立たない。私は妻の死によって思い知らされたのです。せめてもの罪滅ぼしの為に、私は一人でも多くの人を救いたいと思っています。それが私の、いや私と妻の、たった一つの願いなのです」
男は肩を落とし、涙ぐんだ。会場からも嗚咽が漏れているのが聞こえる。
スクリーンに言葉が映し出された。