コンコンとノックがした後、ゆっくりと扉が開いた。
「迷惑なんだけど」
絵蓮はそう言って、私の真向かいに座った。何をしに来たのかと言わんばかりの態度だ。
「まさか、お姉ちゃんも危ない団体と思ってるわけ?」
絵蓮が訝しげな眼差しを向けてきた。
「危ないかどうかは分からないけど」
一旦言葉を止めて、一呼吸おいた。慎重に言葉を選んだ方が良さそうだ。
「その可能性もあると思ってる。宗教みたいなものだから」
絵蓮は親と一緒に住んでいた時、裏の顔を潜めて過ごしていた。子どもの頃は親の寵愛を受ける為であり、それ以降は親との対立を避ける為だ。絵蓮は善人を装って生きてきた。絵蓮は急に変わったわけではない。その姿を隠していただけだ。
母は絵蓮に辛く当たった。『お前は何もできない。どうしようもない人間だ』耳を塞ぎたくなる言葉の羅列だった。絵蓮の苦しみに気づいてやれなかったことをずっと後悔している。
「やっぱり分かっていないようね。宗教だなんて、とんでもない。ここでは辛い修行なんて誰もしていないのだけど。みんな、ここに居たいからいるだけよ」
「ここで何をしているの?」
「特に何も。ただ遊んでいるだけ」
そう言って、絵蓮が立ち上がった。
「見て確認した方が早いんじゃない? お姉ちゃん、面白いものを見せてあげる」
絵蓮と一緒に廊下に出た。何人もの女性信者と擦れ違う。確かに絵蓮の言う通り、宗教といった雰囲気は微塵も感じられない。だけど何かがおかしい。彼女たちは自己啓発に嵌まった人間特有の目をしている。快楽物質で脳内が満たされて悩み一つないといった目だ。
「ねぇ、絵蓮。どうして店を閉めたの?」
「わざわざ見て来たわけ? そうやって干渉したがるのは、親と一緒だね。もう私には必要がないから閉めたのよ」
絵蓮は呆れと侮蔑を含んだ目をして答えた。
「雑貨を扱うカフェ店を経営するのが夢だったんじゃないの?」
「それは昔の話。今時そんなのやったって儲からないでしょ」
あのビルの一室を事故を起こす為だけに借りたとは思えない。だったら部屋には何も運び入れる必要はなかったはずだ。それに今もそのままにしてある。
「じゃあアルバイトも辞めたの?」
「アルバイト?」
「結婚相談所のよ。サクラやってるでしょ」
「ああ、あれね」
絵蓮は鼻で笑った。
「相変わらず、お姉ちゃんって鋭いね。あの仕事は結構面倒なのよ。相手が望んでいる女性像を演じないといけないからね。例えば、苦労人が好きだと言う人がいたら、過去に苦労をしてきた人に成りきらなきゃいけないし、看護師と会いたいという人がいれば、看護師に成りきらなきゃいけない。だけど仕事の内容とか聞かれても分からないじゃない? やったことないからさ。そんな時は最近、就職したことにするのよ。何か突っ込んだことを聞かれても、まだ良く分からなくて。とか適当なことを言って誤魔化せば良いだけだし」
「でも相手にはサクラだと、そのうち気づかれるでしょ」
「いや、全然。たとえば相手が、もっと近場の人を紹介して欲しい。と要望を出してくるとするじゃない? すると次から、近場の人の紹介が急に増えるわけだけど、ここで普通おかしいと気づくでしょ。紹介する相手が近場にいないから、今まで遠隔地の人ばかりを紹介してたのにさ。それがビックリすることに気づかないのよ。男も女も簡単に騙される」
「止めた方がいいよ、そんなことするの」
「もう辞めたわ。あれも稼げないからね。だけど人があんなにも騙されやすい生き物だと分かったのは収穫だった」
絵蓮の表情から笑みが消えた。更に絵蓮が続ける。
「結構相談所には、男と会って知り得た情報を伝えるの。その情報を他の人たちと共有すれば、より一層、簡単に男たちから搾取することが可能になるからね。お姉ちゃんのように勘の鋭い人は稀だけど存在するのは確かよ。その人たちから搾取するのは難しい。そのような人は、こちらからばっさり切ってしまうのが一番。関わるのは頭の悪い連中だけで十分だからね」
絵蓮の瞳孔が開いている。
「私、気づいたの。このスキルは天性のものだって。だったら、それを活かさなきゃ損でしょ」
「活かすって、どうやって?」
「私がここにいることで察してくれない? 通常、本部に来るのは数年掛かると言われてるのよ。早い人でも一年は掛かるらしいけど、私はたったの三か月」
絵蓮は悪びれもせずに答えた。自分のことを特別視しているのだろう。この手のタイプに碌な人間がいないことは、身に染みて分かっている。
「ここで勧誘してるってことね」
「正解。まず気軽に足を運んでもらう為に飲み会に参加してもらう。いきなりセミナーに呼んでも怪しまれるだけだからね。人によっては個別に会うこともするわ。この時点で既に選別が行われているの。理性的な人は警戒して最初から近づいて来ない。来たとしても途中で気づいて退席する。退席しなくても、こちらの言うことなんて耳も貸さない。それは態度で分かるわ。そこで、その人たちとは縁を切って終わりにする。騙しやすい人だけを残すことができたら、そこからいよいよ仕掛けていくってわけ。その人たちの前でさりげなく金目の物を見せびらかしたりしてね。そうすることで、入会したら自分も稼ぐことができるのだと、向こうが勝手に思い込んでくれる。絶対に『金持ちになれますよ』とは言わない。のちにトラブルに発展しかねないからね。捏造した経歴や学歴を提示するのも使えるわ。この時点で既に理性的な人はいないから、疑いもせずに入会して金を産み落としてくれる」
自信に満ち溢れた表情で言い放つ絵蓮を見て、胸が張り裂けそうな思いがした。
「そのようなことをして、絵蓮は本当に満足なの?」
「相手が騙されていることに対して、一々責任を感じる必要はないと思うのよ。私はただ相手が求めているものを提供しているだけ。これはサービスの一環よ」
「でも、それって結局は騙していることと同じでしょ」
「人間、誰しも相手を騙しているわ。本音を言わずに相手と接するなんて、誰もがやっていることでしょ。相手に自分をよく見せる為に嘘をつく。それは騙しているってことだよね。私はそういった社会のルールに則っているだけにすぎないのよ。下らないけどね」
「だったら、その下らない社会のルールを破れば良いんじゃないの?」
「お姉ちゃん。人間ってそんなに簡単には変われないわ」
そう言って、絵蓮が深く溜息をついた。