「お前、他にやりたいことがあるのか」
「いえ、別に」
楓月は素っ気なく答え、目の前にいる人物を眺めた。何を理由に聞いてきているのか、大体見当がつく。こいつは馬鹿にする為の材料を探しているのだ。こちらから、わざわざネタを提供してやる必要はない。
この男は指導と称して、同僚たちを個別に呼び出しては、いかにお前がダメな人間なのかと執拗に説いている。もちろん根拠なんてものはない。相手の精神が壊れても一向に気にする様子はなく、それが後に問題に発展しても、しらを切り通すような人間の屑だ。「そのような意味で言ったのではない」「そのような事実はない」「言いがかりだ」「誰も見ていなければ、聞いてもいない。あいつの妄想だ」「あいつは嘘つきだ。信用できない」「むしろ被害者はこちらの方だ」「他の人たちも、私の方が正しいと言っている」「名誉棄損で訴えてやる」こいつからは反吐の出る言葉しか出てこない。罪悪感を持たない人間は確実に存在する。
被害者たちの大半は追い詰められた時、弱音を吐き「私が悪いんです」と謝罪をする。その姿を見て、こいつは「あいつらは自分が悪いのだと、自分を責めてくれるからホント助かるわ」と言って同僚たちと嘲笑するのだ。どういう訳か同僚たちは被害者を守りもしない。たとえ被害を受けた人が友人であっても簡単に掌を返して、加害者側に付くことを選択する。
残念なことに、この人たちは自分たちの言動が間違っているとは露ほどにも感じていない。この人たちにとって、他人の命なんてものはゴミ同然なのだ。誰かが疲弊して倒れたとしても、商品を補充するように替わりを入れたら良いと思っている。
目の前の男は時折、視線を動かして周囲の動向を伺った。わざわざ目に付く場所で説教をするのには理由がある。自分の権力を誇示するためだ。この男がターゲットにするのは、個性を持つ者や自分の地位を脅かしかねない能力のある人間と決まっている。服従心の強い人畜無害な人間に牙を剥くことはない。
再度、目の前の男を眺めた。真剣そのものといった表情をしているが、目だけは笑っている。僕を晒し者にすることで、『俺はこいつより上だ』『俺は優れた人間なのだ』と優越感に浸り、『お前らも、こいつのような目に遭いたくなければ、俺に逆らうなよ』と周囲の同僚たちに忠告しているのだ。
無個性かつ無能で有り続けていたら、被害に遭わずに済む。それは分かるが、僕はその道を選ばない。
有能な人物を演じているだけの偽物を、どうして同僚たちは見抜くことができないのだろうか。誰もこの状況の異様さに気づいていない。取り巻き連中も悦に浸りきった顔でこちらを眺めている。この人たちは何かに取り憑かれでもしているのか。「余計なことをしない方が良い」「何も考えず、ただ言われた通りに行動を取れば良い」このようなことを恥ずかしげもなく口走っている。協調性があるのかと言えば、そうではない。彼らは上司の目の行き届かない場所では、他人の足を引っ張っている。失脚させることで相対的に自分の評価を上げているのだ。
上司によっては、それらの悪質な手口に気づくことがある。しかし分かった上で高評価を下すことが多い。それは例えどのような卑怯な手を使おうと生き残った者が優秀だとする考え方を持っているからだ。実力はさほど重要視されない。上手く立ち廻る要領の良さこそが全てなのだ。
目の前の男は、まだ無駄話を続けている。この男の吐く言葉には何の意味も価値もない。右から左へと言葉が通り過ぎていく。
同僚たちは、入社後に聞かされた意味不明な思想を、中身を吟味することなく易々と受け入れていた。「鹿を見て馬と言え」と命じられても、この人たちは実行してしまうのだ。まるで簡易的なプログラムを打ち込まれたロボットのように、いとも容易く他人の言葉が自分の言葉へと置き換わっていく。決して指導者を超えることのない粗悪なコピーロボットたち……。
そう捉えると自然と笑みが零れてくる。
「何が、おかしいんだよ」
「いえ、別に」
この人たちは怒りの対象にはならない。今までの僕は、このような下らない人たちの言動に一々腹を立て、そして傷ついていたのか……。
「もういい。さっさとこの紙に必要事項を書いて出て行け」
何をそんなに怒っているのか。周囲の取り巻き連中に主従関係を見せつけることができたのだから、目的は十分に果たしたはずだ。それとも僕が疲弊しないと満足できないとでもいうのだろうか。
同僚たちが見下した目で、こちらを見ている。僕のことを逃げ出した負け犬とでも思っているのだろう。どちらかと言えば負け犬はお前らの方なのだが。平均化された面白みのない人間になったら、それこそ終わりだ。
出口に差し掛かった時、もう二度と来ることはないと思って振り返った。異様な光景が広がっている。この空洞の中を思考することを止めた従属的な生き物たちが、ひしめき合っている。僕はこんな所で何をしようとしていたのか。もっと早く辞めるべきだった。
会社を出ると、市香と由香里の二人が談笑しているのが見えた。はて、この二人はいつ知り合ったのか。
「あれっ。楓月くん、早かったね。大丈夫だった?」
僕に気づいた市香が声を掛けてきた。
大丈夫です。と言いかけた時、胸の奥でチクリと痛みが走った。アスベストの針のように棘のある言葉が身体の奥底に引っ掛かっている。
「さっき楓月くんの会社から出てきた人たちを見かけたけど、最低な人たちだったよ。よくあんなところで働いてたね」
確かにあの会社には碌な人間がいない。能力や個性のある人、人格者たちは見切りをつけて離れて行くのだから当然だ。
「わたし成功してもいない人から指導されるのって、意味が分からないんですよね。それって逆の見方をしたら、失敗する方法を学んでいるだけじゃないかって思うし。そんな人たちの言うことを聞いていたら、上手く行くのも行かなくなりますよ」
きっぱりと由香里が言い、市香と愉しそうに話し始めた。まるで二人は旧知の仲のようだ。同じ価値観を共有しているからだろう。
「ところで二人はどうしてここにいるのですか」
「楓月さんを見かけて追いかけていたら、市香さんたちに止められたんですよ」
「そう。何か怪しい人がいると思ったからね。肩をトントンと。叩いたのは心音だけど」
「心音さんは?」
心音は作戦会議の時、秘書をしてくれた人だ。
「とっくに食材を持って店に戻ったよ。私たち買出しに来てたの」
この場に二人が居てくれて助かった。今になって疲れがどっと押し寄せてくるのを感じる。
「楓月くん、今度、演奏会があるから店に来ない? それが終わったら楓月くんの退職祝いをしましょう」
キョトンとしていると市香は続けて言った。
「だってそうでしょ。これから新しい人生が始まるのだから」
「そう。終わったのではなく、始まったんですよ。楓月さん」
どうして二人はこんなにも前向きでいられるのか。
「その演奏会ですけど、私も行っても良いですか? 音楽好きなんです」
由香里が目を輝かせて言った。
「もちろん。由香里さんも招待します。それじゃ、そろそろ私も店に戻らないと。心音に怒られてしまう」
「私もこれで失礼します。まだお昼の休憩時間なんです」
そう言って二人は坂道を下りて行った。二人とも僕が退職すると思っていたみたいだ。もし辞めなかったら、どう思われたのだろう。軽蔑されていたのかもしれない。