「カヅくんは寝たようだね」
縁側に祖母と咲良が腰かけ、その傍らでアキムネが気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てている。
「気にしとるんか。あのこと。誰も悪いとは思っとらんよ。一葉が亡くなったのは悲しいことやけど、仕方がなかったんや。なんせ一葉は遠くにまで流されていたんやからな。近くにいた咲良さんを先に助けたのは当然のことや」
「一葉ちゃんが沖に流された時、私が直ぐに助けを呼べば一葉ちゃんは助かっていたと思います。そうすれば誰も傷つくことはなかった。きっと今も楓月さんたちは今も楽しく暮らしているはずなんです」
「いや、それは違う。あれは単なる事故や。気にせんでええ。その後の人生のことは、本人たちの問題でもある。カヅ君のお母さんは未だに自分の中で消化することができずにいるんやろうな。人を憎むことでしか解決できんみたいやけど、憎むということは、その場に留まることでもあるんや。それがあの子には分かっとらん」
声に反応したアキムネが目を覚まし、そっと咲良に寄り添った。
「あの木はな、私と爺さんの二人で育てたんや。爺ちゃんがハルの木って名付けちょった。ハルは私の名前や」
祖母が庭先の木を眺めた。
「生きていたら大変なことって沢山あるやろ。だけどな、木が見守ってくれていると思ったら、心配事なんて不思議とどこか遠くへ吹き飛ぶもんや。そんな木やったな。もう枯れてしまったけど」
咲良はアキムネを撫でながら、庭先の木に目を遣った。
「木が枯れた時は、とても悲しかったけど、今では枯れて良かったと思っとるんよ。きっと神様が過去にしがみつかないように、木を枯らしてくれたんやと思う。だから咲良さんも、過去のことは忘れたらええ。不幸なことも決して悪いことばかりやないよ。受け止め方次第でどうにでもなるもんや」
どうしたら祖母のように強くなれるのか。
「あの木は直ぐには枯れんかった。台風で幹が割れた時は、もうダメかと思ったけど、丈夫なもんでな。次の年も葉を真っ赤に染めてるんやから。お爺さんも泣いとったよ。あんなに木が頑張っとるのに、わしらがしょげていても仕方がないって」
受け止め方次第か……。だけど影はどこまでも付き纏ってくる。どうやって振り払えば良いのか。
寝息が聞こえる。二人とも眠りについたようだ。ハルの木か……。僕の名前の由来となった楓の木だ。
雲の隙間から姿を現わした月が辺りを淡く照らしている。幻想的な光景の中、祖母と咲良の会話を思い出した。
当時のことはあまり覚えていない。覚えているのは一葉が亡くなって、父や母がふさぎ込んだことくらいだ。一葉が亡くなって以降、二人の関係は壊れ、やがて父は体調を崩して亡くなった。あの日、母に止められなければ、僕も海水浴に行く予定だった。危ないからと母が止めたのだ。もし仮に僕が海水浴に行っていたとしたら、今、悩み苦しんでいるのは咲良ではなく、僕だったのかもしれない。人生はどう転ぶか分からないものだ。
樹々の騒めきや虫の音色が緩やかな風と共に耳元に運ばれてくる。僕もそろそろ眠りにつくことにしよう。
起床して、昼食後に帰宅することを祖母に告げた。祖母は寂しそうな表情を垣間見せたが、直ぐに元の優しい笑顔に戻した。僕らの歩みを止めないように、祖母は明るく振る舞ってくれる。
真田の奥さんから連絡があったらしく、咲良が「真田さんは屋久島に出かけている」と言った。小動物や昆虫の生態を観察するのが趣味らしい。三週間もすれば帰ってくるとのことだ。
「あんたはよう父親に似とるねぇ」
昼食を摂っている時に祖母が言った。何度も母に聞かされた言葉だ。だけど祖母の言葉は母のそれとは違っており、祖母の言葉には悪意がない。祖母からは相手を労わる温かい心が伝わってくる。
「美佐枝のことは気にするでないよ。いくら外から言っても本人が変わろうとしない限り、人というのは決して変わらないものやからな」
祖母に別れを告げて家を出た。祖母の姿が小さくなるに連れて、また祖母を一人にしてしまうといった後ろめたい気持ちが湧き起こり、何度も足を止めそうになった。その度に後ろを振り返っては大きく手を振る。落ち着いたら、また祖母に会いに来よう。たとえ祖母と母との関係が歪だったとしても、それは二人の問題だ。僕がそれに倣う必要はない。
地元に着いて「それでは、また」と言って咲良と別れた。
明日は僕にとって人生の転換期になる。もうあの行列に加わるつもりはない。