翌朝、目を覚ますと、あれだけ降り続いていた雨はすっかり止んでいた。暖かな光が雨に濡れた樹々を照らし、瑞々しく輝かせている。庭先から咲良とアキムネの声が聞こえた。まだ六時を回ったばかりだというのに、田舎の朝は早い。
「おはようございます。今からアキムネと散歩に行くのですが、楓月さんもどうですか」
もう少し横になっていたいと思ったが、このような場所でダラダラと過ごすのは勿体ない気がして、咲良の誘いに乗ることにした。咲良がアキムネを抱きかかえて、泥濘を避けながら慎重に歩いていく。もはや、これでは散歩とは言えない。
畦道を抜けて坂道の舗装路まで来て、ようやく咲良はアキムネを地面に降ろした。
「上に行きましょう」
咲良を坂の上に誘った。昨日、アキムネが飛び出してきた民家が右手に見える。裏庭で何か台のような物に乗って遊んでいる人たちがいるが、あれは同じバスに乗って来た人たちではないか。
「たまに帰って来ているそうです」
昨日、お裾分けに行った時に会ったのだろう。
坂道を上りきった先に開けた土地があった。所々に生活感が残されており、かつて、この地に誰かが住んでいたことを伺わせる。この場所で人知れず様々な物語が綴られていたのか。それを想像すると感慨深いものがある。
遠くに街並みが見える。山間部にある僅かな平地に集落が形成されており、その集落を靄が包み込んでいる。僕らは何も語らず、アキムネと一緒に目の前の光景に魅入った。慌ただしかった日々が、まるで嘘のようだ。
祖母の家へ戻って、僕は縁側に、そして咲良は庭先にある大木の枝に腰かけた。木は枯れているように見えるが、所々芽が出ている。枝は太く安定しており、簡単には折れそうにない。アキムネが咲良の靴を奪い取ろうとしている。
「何かドキドキしませんか」
咲良がアキムネを足で牽制しながら言った。直ぐに襖絵のことを言っているのだと分かった。長谷川等伯の襖絵は日が落ちかけてから見るのが一番だ。もうじき日が暮れる。
「あっ、取られた」
咲良が足をバタバタと動かした。アキムネが咲良の靴を咥えて庭の端へ走っていく。ご満悦の表情だ。
日が落ち始めたというのに、鼓動は一定の間隔を静かに打ち続けたままだった。咲良のように気持ちが高揚することはない。平坦な感情のまま推移している。
夕食を摂り、縁側で涼んだ後、僕らは二階へ向かった。
障子を開けて中へ入り、そして音を立てないようにそっと障子を閉めた。部屋は暗く、微かな光が障子を通って中へ入り込んでくるだけだ。僕らは部屋の中央に座って、等伯の襖絵と向き合った。焦点が少しずつ合っていく。図書館で見た時の絵と瓜二つのものが目の前にある。手を木に絡めた手長猿が、もう片方の手で池に映る満月を掴み取ろうとしている構図だ。下地に薄墨が塗られてある為、襖絵は仄かに暗い。その中で唯一つ、ぼんやりと満月だけが浮かび上がっている。水面に映る満月を掴もうとしている愚かな手長猿。幼い頃に見た襖絵は一風変わった絵という印象でしかなかったが、今は心に重く圧し掛かる。
「咲良さん。そろそろ灯りを点けても良いですか」
「ちょっと待ってください」
咲良がそっと涙を拭っているのが見えた。
咲良は周囲の人たちに認められたいと切望している。だけど僕にはその気持ちが分からない。きっと幼い頃から母に摘み取られてきたからだ。誰かに認められたいという気持ちがどうしても湧き起こってこない。
咲良は認められたその先に一体、何を見出しているのだろう。
一階に降りていくと、居間で祖母が寛いでいた。
「カヅくん、久々に見た襖絵はどうやったか」
「どうして父さんが、あの襖絵のことが好きだったのか、何となくだけど分かった気がする」
父は僕と同じ悩みを抱えていたのだと思う。
「父さんが描いた絵って、どこにあるんだろ」
「誰かが持っとるよ。心配せんでええ。遺作でもあるんやから」
婆ちゃんが微笑みながら言った。
居間で横たわっていると、祖母が「暇やろ。ちょっと待っとれ」と言って、部屋を出て行った。奥の方でカタカタと音を鳴らしている。
「これでも見るか」
そう言って祖母は目の前にアルバムを置き、ページを開いた。
「慎一郎に美佐枝。この頃は仲良かったな」
祖母は沈痛な面持ちで言った。大切な息子に先立たれたことは、この上なく悲しい出来事だったに違いない。しかも同じ日に孫の一葉も亡くしている。
ページを捲っていくと、一枚の写真に目が止まった。
母が赤ちゃんを大切そうに抱えている。誕生日が書いてある。この赤ちゃんは僕だ。
僕は望まれずに生まれてきた子どもではなかったのか……。