縁側に腰かけて、咲良とボール遊びをするアキムネを眺めた。アキムネは咲良の下に駆け寄り、ボールを投げてくれと尻尾を振って催促している。何度繰り返しても飽きないみたいで、咲良が投げたボールをキャッチしては、咲良の下に何度も駆け寄ってきた。楽しければ、ずっと続けていられるのは人も犬も変わらない。
アキムネからボールを受け取った咲良が、ボールをこちらに投げてよこした。そして「手伝ってきます」と言って、祖母がいる場所へと向かった。アキムネは遊んで欲しそうに、こちらをずっと見つめている。しかし、あれを永遠にやらされては堪らない。アキムネの頭を撫でてボールを片付けた。
包丁でまな板を叩く音に混ざって、二人の談笑する声が聞こえてきた。何もすることがないのでアキムネと一緒に台所へ行き、後ろから二人を眺めた。まるで本当の家族のようだ。二人の邪魔をしてはいけない気がして、その場に立ち尽くした。アキムネは構って欲しくて仕方がないらしく、料理をする二人の間をせせこましく動き回っている。
僕の存在に気づいた祖母が振り向いて言った。
「カヅくん、アキムネを散歩に連れてってくれんかね」
散歩の声に反応したのか、アキムネは僕の前に来て「よろしくお願いします」といった顔をして、ちょこんと座った。大人しいが、尻尾だけは盛んに動かしている。
「それじゃあ行ってきます。アキムネ行こう」
リードを持たずにする犬の散歩は初めてだ。アキムネが急に走ってどこかへ行ってしまわないかと冷や冷やさせられる。左右に揺れるアキムネのお尻を眺めながら畦道を歩いて行く。長閑な田園風景だ。
何か聴こえるのか、アキムネが耳をそば立てている。アキムネの様子を伺っていると、突然、アキムネが駆けて行った。急いで後を追いかけていく。しかし犬の脚力には到底敵わない。見る見るうちに差が広がって行った。突き当りの坂道に辿り着いた頃には、アキムネの姿はどこにも見えなくなっていた。
夕暮れ時で樹々の葉影もあり、辺りはすっかり暗くなっている。特に坂の下側は来た時とは様子が一変しており、数メートル先までしか見通すことができない。身体の向きを変えて、坂道を上って行こうとした時、アキムネが民家の裏側から飛び出してくるのが見えた。何か咥えている。アキムネはそのままの勢いで祖母の家に向かって行った。
家に戻ると、咲良が炊事場から出てくるところだった。
「どこから持ってきたんやろね。咲良さん、申し訳ないけど、これもついでに持って行ってくれんかね。たぶん隣のものや」
そう言って祖母は咲良に手渡した。子どもが遊びで使うような小さな長方形の箱だ。アキムネは得意満面な顔をしている。
「今日は四人いるはずや。これくらい持ってけば十分やろ」
咲良と一緒に作った料理のお裾分けだ。咲良は祖母から受け取ると、「行ってきます」と言って隣家へ向かった。
灰色の雲が山全体を覆い尽くしている。もうじき雨が降りそうだ。
咲良が出かけている間、祖母と一緒に料理を食卓に並べた。料理は山菜や魚、高野豆腐、野菜類で占められている。母が作る料理とは似ても似つかない。料理の心得がなくても、手間暇が掛かっていることが分かる。僕らが来る前から仕込んでいたのだろう。
咲良が戻って来た。
「お婆ちゃんの言う通り、隣の人の物でした」
「アキムネは悪さばかりしよるけ」
祖母は縁側で横になっているアキムネを見て言った。
ゆったりとした時間の中で過ごす食事が、これほどまでに美味しいものだとは思わなかった。テレビを見ずに誰かと向き合って、そして静かに食事をする。昔は、これが当たり前だった。この数十年の間に失われたものは多い。きっと豊かさが失われたのだ。
夜になって、雨が降り出した。雨粒が土に当たって、弾けるように飛散する。アスファルトを叩く無機質な雨音とは異なり、自然の奏でる音は心の奥底にまで染み渡ってくる。僕らが住む街に降り注ぐ雨は恵みの雨にはならない。透明な雨は地表に叩きつけられた瞬間に黒へと染まり、ドロドロとした液体に変化する。それでも街が綺麗になったという実感はなく、汚れきった街をまざまざと再認識させられるだけだ。とても心が洗われた気にはなれない。
しばらく庭先に降りしきる雨音を、時間を忘れて聴き入った。
祖母が居間に和菓子と緑茶を運んできた。咲良がお土産として買ったバナナ風味の羊羹が食卓に並べられていく。
「婆ちゃん、襖絵って、どこにあるの?」
「二階の部屋にあるよ。いつでも見に行ったらええ」
祖母は一風変わった羊羹を、ゆっくり味わいながら答えた。襖絵とは図書館で確認した長谷川等伯の絵のことだ。
雨が勢いを増していく。時折、遠くで雷鳴が轟いた。
「婆ちゃん。何年か前の大雨の時だけど、どうしてたの? 電車止まってたって聞いたけど」
北部九州を襲った豪雨は広範囲に被害をもたらした。その頃から婆ちゃんは一人暮らしをしている。
「電車はもうそんなに乗んねぇから大丈夫やったけど、畑はめちゃめちゃにされたな」
「じゃあ食べるものなかったんじゃ……」
「ねぇよ。だけど皆が助けてくれたから、何も困らんかった」
「隣の人たち、すごく親切でしたよ。あの人たちなら色々してくれると思います」
「いつも何か困ったことがないか聞きに来てくれるんよ。アキムネが物を持って来たくらいでは怒んねぇ」
祖母は目尻を下げて笑った。連絡してくれたら良かったのにと言い掛けたが、本心ではないことに気づいて口を閉ざした。祖母と母は疎遠であり、僕と祖母とは年に一度だけ年賀状を送り合っているだけの仲だ。祖母は頼りたくても頼ることなどできなかったはずだ。