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作戦会議①

 眠い目を擦りながら起き上がって、洗面台の鏡の前で立ち止まった。鏡を見なくても大体、想像がつく。そこには口角を下げて笑顔を失った男がいるのだ。このままでは母のようになってしまいそうだ。

 気持ちを入れ替えよう。今日は作戦会議の日だ。澱みきった暗い感情を洗い流すように顔を洗って家を出た。目印となる三清楼は丘の上にある。まだ真夏ではないとはいえ、あの場所まで行くのは少々骨の折れる作業だ。

 美由紀さんの実家は予想を遥かに超えており、広大な敷地面積を有していた。この屋敷で合っているはずだ。表札に杉浦と書いてある。チャイムを鳴らすと家政婦らしき人が現れ、中へ案内された。家政婦にしては随分と若い。

 屋敷の中は静謐な空間が広がっており、ひんやりとした空気が流れている。皮膚に纏わりつく湿気が取り払われていった。

「ここは美由紀さんの実家ですよね」

 背中越しに家政婦に恐る恐る尋ねた。おかしな人と思われたかもしれない。

「そうです。正確には美由紀様の父の宗一郎様の御屋敷になります。以前は二人で住まわれていました」

 家政婦は飄々と答えた。このような広大な屋敷に住んでいるなんて、一体どういう人なのだろうか。家政婦は薄暗い廊下を音も立てずに歩いていく。日が差し込み、一際明るく見える廊下の突き当りに近づくに連れ、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 家政婦が立ち止まる。

「楓月様がお見えになりました」

 そう言い終えると、家政婦は廊下を引き返して行った。

「楓月くん、好きな所に座って」

 美由紀さんは、いつもの鮮やかな花柄模様ではなく、牡丹や薔薇を散りばめた落ち着きのある服を着ている。

 部屋の中央に高級木材を使ったと思えるテーブルが一つあり、そこに三人が囲むように座っている。咲良と美由紀さん。もう一人は老人だ。この人が家政婦の言っていた宗一郎さんだろうか。老人は穏やかな笑みを零しながら、こちらを見つめている。

「外は暑かったろ。まあお茶でも飲んでくれ」

「ありがとうございます」

 冷たいお茶が喉を潤す。

「和菓子をお持ち致しました」

 桜色と白色のグラデーションを施した瑞々しい和菓子が一つ一つ丁寧にテーブルに並べられていく。

「中は涼しいですね」

「日本家屋というものは、冷房を付けなくても涼しくなるように工夫して作られておる。日本人の知恵の賜物だな」

 宗一郎さんに一通り、部屋の内装の説明を受けてから、改めて部屋を見回した。富士山が彫られた欄間は桐の木材が使われている。目の前にあるテーブルは花梨の木材で作られたもので、庭の樹々や花々を鏡のように映し出している。茶色に変色した庭先の踏み石は鞍馬石。その先に赤松、百日紅、台松が植えてある。庭を広くみせるために山を借景にしてあるとのことだ。

 雑談を交わしながら涼んでいると、先ほどの家政婦が大きなホワイトボードを運んできた。畳部屋には少々不釣り合いに見える。小さな車輪がキュルキュルと音を鳴らし、部屋の奥へと運ばれて行った。

「社長をしていた時だが、たまに自宅で会議を開いていたんだ。堅苦しい雰囲気の中では良いアイデアなんて出てこないからな。さて、ぼちぼち作戦会議を始めるとしようか。何かワクワクするな」

 宗一郎さんが少年のように目を輝かせている。

「それでは、今から作戦会議を始めます。本日、進行役を務めさせて頂きます、水沼心音と申します。よろしくお願い致します」

 家政婦は丁寧にお辞儀をした。

「心音は市香のお姉さんよ。三姉妹の長女ね。市香は三女」

 美由紀さんが短く説明を加えた。この人が市香さんのお姉さんか。

「わしが社長をしていた時の秘書でもあるんだ。とにかく有能でな。交通の手配や契約など様々なことで活躍してくれた。今は家政婦として働いてもらっておる」

「いえいえ、私なんてそんな」

 心音は謙遜して言った。

「今日は秘書に戻ったつもりになってやってくれ」

 心音はホワイトボードの端に立って、姿勢を正した。

「本日の作戦会議の議題は、『楓月さんの父が見た景色について』です。景色のことに限らず、最近、身近で起きたことを話してもらっても結構です。何かヒントが隠されているかもしれません」

 一人一人が思いついたことを発言していく。手慣れた手つきで心音がそれらを簡潔にまとめてホワイトボードに書いていった。美由紀さん親子は教会に通い詰める香流甘のことを話し、咲良は景色のこと、そして僕は母との遣り取りのことを話した。

「咲良様が言うには、『景色が楓月様の父の人生を一変させ、その景色を見た後に絵を一枚描き残している』と。そして楓月様は『景色や絵のことは母からは何も聞かされていない。母に聞いても何も答えてくれなかった』」

「はい。母からは何も情報を引き出すことができませんでした。僕が父について知っていることは、夕日が好きだったということくらいです。咲良さんから教えてもらうまで、僕は父が見た景色のことなんて知りもしませんでした」

「夕日ですか」

 心音は『夕日』とホワイトボードに目立つように書いた。

「私の母も『楓月さんのお父さんは夕日が好きだった』と言っていました」

 咲良が、夕日の文字を見ながら言った。

「何故、咲良様の母が知っているのですか」

 心音が咲良に尋ねた。

「私の母と楓月さんのお父さんは大学時代の友人なんです。卒業してからも二人は交流があったので、だから母は景色の話を知っていたのだと思います」

「先ほど咲良様は、『景色を見た後に一枚の絵を描き残した』とおっしゃいましたが、その絵はどこにあるのでしょう。その絵に景色が描かれているのなら場所が特定できるかもしれません」

「母が絵なら教会にあるかもしれないと言ったので、一度、教会に足を運んだことがあるんです。だけど、そこには絵はありませんでした。教会の人たちに聞いても、誰も知らなくて……」

「じゃあ、そのバッグに付けている白ふくろうの小物は、その時に手に入れたってこと?」

 美由紀さんが聞いた。

「はい。色々と教会の人に質問して申し訳ないと思ったので、一つだけ購入したんです」

 そういうことだったのか。咲良が信者のはずがない。

「教会に絵がないことを母に伝えたら、『それなら真田くんが絵を持っているのではないか』と言ったので、絵は真田さんが所有しているのかもしれません。真田さんは私の母と楓月さんのお父さんの共通の友人です」

 真田というのは確か、集合写真に写っていた人だ。

「真田さん以外だと、僕の祖母の可能性もありそうです」

父を嫌っている母が受け取るとは思えない。譲り受けるとすれば祖母だろう。

「楓月様、祖母と連絡は取れますか」

「はい」

 祖母と母は不仲で交流が途絶えているが、僕と祖母は年賀状を出し合っている仲だ。

「咲良さんは、真田さんとは連絡が取れそうですか」

「母に聞いたら、分かるのではないかと」

「その二人が鍵となりそうですね」

 心音がホワイトボードに新しく出た情報を書き加えていった。『絵の所有者は真田か祖母の可能性あり』と書いてある。

「あの……、一つ気になることがあるのですが」

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