首を左右に振って、頭の中に浮かぶ雑念を振り払った。今更、過去を悔やんでも仕方がない。それに、あの当時、私が父の元から離れたのは間違いではなかったはずだ。父は変わろうとする意志がなかった。外部から変えようとしても徒労に終わっていたに違いない。あれで良かったのだ。お互いの為にも。
「社長を辞めて後悔はしてないの? まだ働くことはできたはずだけど。欲しいものは何でも手に入ったはずよ。勿体ないとは思わなかったの?」
「思わないな。今では社長なんて向いてなかったんじゃないかとさえ思っているくらいだ。失うものの方が圧倒的に多かった。仕事なんて他人を犠牲にしてまでやるものじゃない」
父からその言葉を聞かされるとは思いもしなかった。本音だろうか。
「本当に要らないの? 喉から手が出るほど欲しかった地位や名誉、そしてお金」
「いや、まったく。確かにお金は社長をしていた時よりはないな。だけど今の方がずっと豊かだ」
そう言って右手で胸をトントンと叩いた。
「大事なのはここだった。気づくのが遅すぎたな。皆には済まないと思ってる」
何を平然と言ってのけているのかと呆れもするが、この父があってこそ、今の私があるのだ。平穏な家庭で育ったならば、今のように心理カウンセラーとして働いて、自分の内側の声に耳を傾けることはしなかったはずだ。何もない平凡な生活を送っているに違いない。それが悪いとは思わないが、今の私の方が断然良い。
今、目の前にいるのは大好きだったあの頃のお父さんだ。幼い頃、父はいつも私に微笑みかけてくれた。
意識を店内に向けた。扉を開けて店に入ってきた時と同じように、店内は和やかな空気で満たされている。騒めきが心地良い。心を委ねていると、少しずつ奥底に眠る黒い靄のようなものが溶け出していくのを感じた。
キャンドルの灯りが一つ、二つ消えていき、店内に『別れのワルツ』が流れ始めた。そろそろ閉店の時間だ。
「あっさり変わるのね」
「環境が変わったからかもな」
あのまま同じ場所に居続けていたら、父は変わることはなかった。だけど、それは私も同じだ。行き詰まったら環境を変えてみるのも一つの手なのかもしれない。
「店の方は上手く行ってるのか」
「一人でやっていける分にはね。副業で稼いでいるようなものだけど」
「ああ、カウンセリングか。他人の人生に入り込むなんて大変じゃないか」
「大変なのは私じゃなく、本人たちだけどね。ただカウンセリングとは関係のない相談を持ち掛けられることがあるから、そっちは大変。この前なんて、娘が失踪したという相談を受けたのよ」
「失踪か。そりゃ、また物騒な話だな」
「単なる家出なら何も問題はないのかもしれないけど、困ったことに自己啓発系の団体が絡んでいそうなのよ。スピリチュアルなね」
「ああ、願っていたら、どうにかなるという、おかしなやつか。わしが仕事をしていた時も度々社内で問題になってたな。引っかかるのは大抵若い子だった」
「楽をして幸せになりたいのかしらね」
「絵画や本などを購入すれば幸せになれると唆されている人もいたな。『お金は使えば使うほど自分に跳ね返ってくる。だから皆さん、お金を沢山使いましょう』と言ってな。信じられるか? 馬鹿々々しい」
「お金ねぇ。何でそこまでして欲しがるのかしら」
「どうしてだろうな。そんなものを追い求めてもな」
「お父さんが、それを言うなんてね」
「退職してから、世の中には興味を惹くものが幾つもあることに気づいたんだ。どうして今まで見ることができなかったんだろうな。常にそこに存在していたはずなのに」
「お金こそが全てだと思い込んでいたからじゃない。おかしな バイアスが掛かっていたのよ。良かったわね、憑き物が取れて」
「憑き物か。そうかもしれないな」
「お金は大事だけど、たかが、お金よ。そこまで執着するほどの物じゃないわ」
そう言って、美由紀はバッグに手を伸ばした。
「ねぇ、さっきの宗教絡みの話なんだけど、お父さん、駅で掃除してるって言ってたよね。この子見たことない?」
バッグから写真を取り出し、父に手渡した。自然な笑みを浮かべた可愛らしい女性が写っている。
「知らないな。駅に来る人は多いから、さすがに全員の顔までは覚えてないよ。この子は意思が強そうだな。とても自己啓発に傾倒するようには見えないが」
「友人の頼みだし、新興宗教が絡んでいるのだとしたら、放置するのは危険だと思ってね」
「そうだな。行動を取るなら早い方が良い。特徴は栗色の髪だな。仕事の合間にでも探しておくとするよ」
父は写真を胸ポケットに入れた。闇雲に探しては時間の無駄になる。人が集まる場所を重点的に探した方が良い。
「名前はなんて言うんだ」
「香流甘よ。カルアミルクのカルアから取ったって」
「そんな名前を付けたから家を出たんじゃないか」
「それはないでしょ。たぶん親が原因よ。友達が目撃したと言ってたから、まだこの辺りにいると思うわ」
「分かった。仕事仲間にも協力してもらうよ。見つけ次第、連絡する」