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涙のわけ③

「すみません、急に泣いたりして」

 咲良は息を深く吸い込んで呼吸を整えると、ハンカチで涙を拭った。

「私が楓月さんに会いに来たのは、景色を探すためなんです」

 予想もしなかった言葉を聞かされて思わず閉口した。時計の針の音が店内に響き渡る。

「景色ですか」

「はい、正確には楓月さんのお父さんが見た景色です。その景色を見た後、楓月さんのお父さんの人生が一変したそうなんです。だから私、その景色が見たいと思って……」

 景色のことなんて聞いたことがない。

「その景色を見た後、一枚の絵を描き残したとも聞きました。当時、楓月さんのお父さんと親交のあった私の母が言っていたので間違いないと思います」

 絵か……。確か絵蓮と名乗った女性も同じことを言っていた。

「仮に父が絵を描いていたとしても、大した絵ではないと思いますよ。母からは、酷くつまらない人間だったと聞いていますし」

「楓月さん、それは違います。楓月さんのお父さんが悪く思われているのは知っています。だけど本当はそのような人ではないんです。楓月さんのお父さんが悪いわけでは……」

咲良は涙ぐんで言葉を詰まらせた。困惑して美由紀さんを見るが、美由紀さんもどうしたら良いのか分からないといった表情を見せた。

「人生が変わるほどの景色だなんて、私も一度見てみたいわ。どこにあるのかしらね。楓月くん、誰か知っている人はいないの? お母さんなら知っているんじゃない?」

 美由紀さんが、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「嫌ですよ。あんな人と話をするなんて」

 美由紀さんは以前から、僕に母と会話を交わすことを促している。だけど口を開けば、毒気のある言葉を投げかけてくる人だ。想像しただけでも気が滅入る。帰宅しても母とは一言も会話を交わさない間柄だ。顔も合わせたくないというのが本音だ。

「細かな事情は分からないけど、大丈夫よ。楓月くんは人の為なら動いてくれるから」

 伏せがちだった咲良の目に生気が宿った。

「楓月さん、お願いします」

 咲良が潤いのある瞳で真っすぐこちらを見ている。これでは断るわけにはいかない。

「楓月くんの為にもなるんじゃない?」

 自分の子どもを亡くした後、父は気を沈めたはずだ。その人生を一変させるほどの景色なら僕も見たいと思う。しかし上手く聞き出せるだろうか。母は父の話題になると、途端に不機嫌になる。

「私もお父さんとの関係は決して良好とは言えないから、楓月くんの気持ちは痛いほど分かるわ。だけど決定的なことが起きていない限り、一応は親なのだから、できる限り疎遠にならないようにしておかないとね」

 美由紀さんの父親は日夜、仕事に明け暮れて働き、家庭を顧みない人だったと聞いている。神経を擦り減らして働いては、溜め込んだストレスを家族にぶつけることもあったようだ。家族は堪らなかったろう。

「面倒なことに巻き込んでしまって、すみません」

 咲良が申し訳なさそうに言った。まだ母とは一緒に住んでいる身だ。わざわざ会いに行く美由紀さんより気は楽かもしれない。

「今度、それとなしに聞いてみます」

 咲良に笑顔が戻り、店内に和やかな雰囲気が戻った。美由紀さんはすっかり咲良を信用している。咲良は何か深刻な悩みを抱えていそうだ。母と話すのは気が乗らないが、咲良の為だ。動くことにしよう。

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