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涙のわけ②

「―というわけなんです」

 昨夜の出来事を美由紀さんに伝えた。

「だから、ここで会うことにしたのね」

「すみません断りもなく。一人で会うのが、なんだか怖くて」

「一度、どこかで会っているんじゃない? 忘れているだけで」

「それはないと思うのですが……」

 女性と知り合う機会は少ない。会っているなら覚えているはずだ。

「怪しんでおいた方が良さそうね。今の時代、名前なんて調べたら直ぐに分かるから」

 そう言って、美由紀さんは窓の外を眺めた。風に吹かれた細雨が糸のように左右に揺れている。早朝から降り注ぐ雨のせいで、少し肌寒い。昨夜の女性は本当にやって来るのだろうか。

「何かの勧誘だったら嫌ね。セミナーがあるからと言って誘き寄せて入会を促したり、変なものを売りつけてきたりとね。昔からよくあるのよ。この前の話もそうだったし」

 美由紀さんは物憂げに言った。

「この前って?」

「楓月くんに買い物を頼んだ日のことよ。あの後、知り合いが店に相談に来てね。その内容が宗教絡みだったわけ。どうもスピリチュアル系の怪しい団体が絡んでるみたいで。娘が家を飛び出したっきり戻って来ないんだって」

「スピリチュアル系?」

「宗教というと語弊があるけど、自己啓発を謳って勧誘していることが多いわね。以前とは違って、今は宗教の形態が変わってきているから判別しづらいのよ。自己啓発と宗教が入り混じった怪しい団体。新興宗教と言っても差し支えはないと思うわ。健全な団体もあるだろうけどね」

 遠隔ヒーリングとか、霊視鑑定の類いのことだろうか。やるならば個人で楽しんでおけば良いものを……。組織立ってやるから問題が生じるのだ。

「楓月くん、昨夜の女の子はどんな感じの人だったの?」

「ごく普通でしたよ。優しそうな」

「そう、普通。普通なのよ。だから怖いのよ。外見からでは怪しい人かどうかは分からない。だから安心して話を聞いてしまう。気づいた時には既に手遅れ。取り込まれてる」

「深刻な顔をしていたので、話を聞いてあげないと可哀想だと思っただけですよ」

「演技だったらどうするの。人が良すぎると騙されるわよ」

そこまで手の込んだことをするだろうか。それにあれが演技だったとは思えない。あの日、女性は僕に何かを伝えようとしていた。騙そうとする目ではなかった。

 しばらく雑談していると、ガラス越しに傘の雨粒を払い落としているシルエットが見えた。女性が玄関の扉を開けて入ってくる。昨夜の女性だ。少し緊張しているように見えたが、僕を見つけると表情を緩めた。

「こんにちは、楓月さん」

 柔らかな雰囲気を湛えている。とても人を騙すようには見えない。女性に会釈した後、美由紀さんに「昨夜の人です」と目で合図した。

「いらっしゃい。こちらへどうぞ」

 さっきまでの警戒心はどこに吹き飛んだのか。女性を微塵も疑っていないように見える。接客力の高さがそうさせるのか。

「お隣、失礼します。この店、素敵ですね」

「そう? ありがとう。絵に興味があるの?」

「はい。どうして分かったのですか?」

 女性は不思議そうな顔をした。

「店に入ってきた時の反応でね、何となく。絵が好きな人って絵を見ると表情が変わるのよ。目元を緩めたり、真剣な眼差しになったり。人によってまちまちだけど」

 そう言って美由紀さんはタオルを手渡した。

「それで身体でも拭いて。風邪を引くといけないから」

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて」

 女性はタオルを受け取ると、雨で濡れたベージュ色のフレアスカートとショルダーバッグを丁寧に拭いていった。バッグに取り付けられた白色の小物が左右に揺れる。

「雨の中、大変だったわね」

「少し濡れてしまいましたけど、平気です。あっ名前、まだ言っていませんでした。申し遅れました。私、咲良と言います。石川咲良です」

 姿勢を正して、咲良が深々と頭を下げた。育ちの良さが伝わってくる。

「あの……僕とどこかで会ったことがありましたっけ? どうして僕の名前を知っているのですか?」

 昨夜から、ずっと気になっていた。咲良は正面に向けていた身体をこちらに向けると、僕の目の奥を覗き込むように見つめてきた。咲良の表情が悲し気なものに変わっている。

「楓月さんは私のことを覚えていないのですね。一日経ったら思い出してくれると思ったのに」

「ほら楓月くん、やっぱり、どこかで会っているのよ。思い出して」

 改めて咲良を見るが、やはり思い出すことができない。ここは一旦、話題を変えよう。

「他に気になることがあるのですが……。昨夜、『いつも楓月さんを見ています』とも言っていましたけど、どこで僕を見ているのですか」

 別れる間際に咲良が「いつも見ています」と言ったのだ。むしろ、そちらの方が怖い。

「高台からです。楓月さんが絵を描いているところを高台から見ているんです」

「楓月くんの絵が好きなの?」

「えっと、そうではなくて……」

 咲良に迷いが見て取れた。しかし、その迷いは直ぐに掻き消されたようだ。

「はい。順を追って説明します」

 咲良は背筋を伸ばして、口元を引き締めた。

「実は、楓月さんと私は姉弟のようなものなんです」

「えっ?」 

 驚きのあまり声を失った。姉弟と言っても、僕には亡くなった姉しかいないはずだが。

「まさか隠し子ですか……」

 父の子だろうか? いや、どちらかと言えば母の方が可能性としては高い。母の店に来ている常連客との子どもではないか。

「楓月くん、落ち着いて。咲良さんは『姉弟のようなもの』と言ったのよ」

「楓月さんと私は幼馴染みなんです」

 テーブルの木目をぼんやりと眺めながら、意識を幼い頃に飛ばした。近所の人たちと遊んでいる情景が朧気ながら思い起こされる。そこに何人かの女の子がいるが、そのどれかだろうか。

「すみません。はっきりとは……」

「そうですよね。小さかった頃の話だし、仕方がないです」

 そう言って咲良は肩を落とした。父に様々な場所に連れて行かれたことだけは覚えている。どこかで咲良と会ったのだろう。

「覚えていなかった時のために持って来たものがあるので、それを見て下さい」

 咲良はショルダーバッグの中から写真を一枚取り出して、カウンター席に置いた。

「集合写真です」

 今にも朽ちて倒れそうな木造アパートの前で、若い学生たちが肩を組んでいる。宣教師みたいな外国人は英語教師だろうか。様々な思想や志を持つ人たちが集まって、将来に夢を膨らませている。といったところだろう。

父は直ぐに分かった。その隣にいるのが母だ。このような表情をする母を見るのは初めてだ。母が笑っている。二人にも仲が良かった頃があったのか……。

「随分、古い建物ね。今もまだあるのかしら」


「そのアパートには、私の母も大学生の頃に住んでいたのですが、学校を卒業してから数年後に取り壊されたと聞きました。そこには学生たちが自治権を持って自由に生活していたので、それを嫌う人たちと衝突したようなんです。結局、管理したがる教師たちと、管理されたがる生徒たちの圧力に押されて、抵抗も虚しく取り壊されてしまいました。古くて危険だからという理由で」


 それは表向きの理由だ。


 学生たちの足元にいる子どもたちが気になった。子どもが三人、寄り添っている。ベレー帽を被った男に頭を撫でられて、嬉しそうに微笑んでいる中央の女の子が咲良だろう。優しそうな目元がそっくりだ。その右隣にいるのが僕で咲良の左隣にいる女の子が今は亡き姉、一葉だ。確かに僕らは幼い頃に会っている。


 今まで自分の幼い頃に思いを馳せることはなかった。母と接するうちに碌な過去ではないと知り、心の奥底に閉じ込めていたからだ。


「このベレー帽を被った人は誰ですか? 咲良さんのお父さんですか」


「いいえ。その人は真田さんと言って、私の母の友人に当たる人です。楓月さんのお父さんとも仲が良かったと聞いています。ちなみに私の母はこの人です」


 そう言って聡明そうな白衣の女性を指さした。研究職を目指しているのだろうか。どことなく冷めたものを感じさせる。


「僕の父はこの人です。そして母はこれですね」


 母を指さした時、咲良の目が曇った。優れない顔をしている。


「どうかしたのですか?」


「楓月さんのお母さんのことですけど……。私のことを何か話していませんでしたか?」


「いいえ、特に何も。あの人は自分の過去を話さないので」


 咲良と母との間に何かあったのだろうか。


「私、楓月さんに会う前に一度、手紙を送ったのですが、中々、連絡が来なかったのでこちらから会いに行ったんです。だけど、いざ家に来てみたら足が竦んでしまって、どうしても玄関のベルを鳴らすことができませんでした。どうして良いのか分からず、少し離れた位置で途方に暮れていたら、楓月さんが玄関から現れて……」


「そのまま楓月くんの後を追ったら、桟橋に辿り着いたってわけね」


 美由紀さんが合いの手を入れ、咲良が頷いた。その日は桟橋までバスで行ったのだろう。後ろから咲良が付いて来ていたなんて、気づきもしなかった。


「母が僕より先に手紙を見つけたのなら、捨てたか、その辺りにでも放り投げたのだと思います。過去にも何度かあったんです」


「やはり、そうですよね」


 そう言って、咲良が俯いた。


「しかし、よく楓月くんの自宅を覚えてたわね」


「小さい頃に楓月さんから受け取った年賀状が頼りになりました。楓月さんが家から出て来た時に声を掛ければ良かったのですが」


「勇気が出なかったのね。仕方がないと思うわ。だけど楓月くんなら大丈夫。人を傷つけるような人じゃないから。傷つけられはするけどね」


「でも、どうして急に僕に会おうと思ったのですか」


 咲良は俯いたまま黙り込んでいる。沈黙が店内を満たしていく。


「何言ってんの。楓月くんを懐かしんで会いに来たに決まってるじゃない。久しぶりに会いたくなって……。咲良さん、どうしたの?」


 咲良の頬を涙が伝い落ちていった。


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