窓の縁に肘を付いて、枝から枝へと飛び移っていく小鳥を目で追っていた時、玄関から鈴の音が聴こえた。
「こんにちは美由紀さん。頼まれたものを持って参りました」
二十代半ばほどの女性が、扉から顔を覗かせている。
「いつも助かるわ。さあ入って」
女性は店の中に入ると、こちらに背を向けて、そっと扉を閉めた。白色のシルクシャツにデニムパンツといったシンプルな服装をしている。こちらに向き直った時、艶やかな黒髪が波のように大きく揺れた。流麗な一連の動きに心を奪われそうになる。
「あと少しで切らすところだったのよ。さあ座って」
女性は手に持っていたコットンバッグをカウンター越しに美由紀さんに手渡すと、僕の隣に腰かけた。少し高めの椅子なのに悠々と座っている。一体、この人は誰なのだろう。美由紀さんに娘はいないはずだが。先程までの気怠い空気が一瞬にして変わり、潤いすら与えている。
「良さそうな豆ね。粒が揃ってる。これで美味しい珈琲を淹れることができそう」
美由紀さんがコットンバッグから袋を取り出して、中を覗き込んだ。ほろ苦くも甘みのある芳香がカウンター席に広がっていく。
「楓月くん、こちらの女性は……」
「市香と言います」
女性が美由紀さんを遮るように言って、いたずらっぽく笑った。
市香さんの冴え冴えとした瞳が僕を狼狽えさせる。堪らず視線を外して、背もたれに身体を預けた。
「人見知りなのよ。楓月くんって」
美由紀さんは僕の僅かな仕草も見逃してくれない。初対面の人と話すのは苦手だ。僕に危害を加えてこない無害な人だと分かるまでは、安心して話をすることができない。
「私は人見知りする人って、優しい人が多いと思うんですよね。馴れ馴れしい人って、どうも苦手で。こっちの気持ちを無視しているような気がするから」
「はい。どうぞ」
美由紀さんは慣れた手つきでフレーバーティーを作って、市香の前に置いた。
「ああ、いい香り」
桃の甘い香りが辺りを包み込む。
「私、この店で紅茶を飲んでいる時が一番幸せ」
涼し気な瞳が柔和な瞳へと変わった。市香さんの表情の移ろいが警戒心を溶かしていく。
「最近の市香は楽しそうね。仕事と趣味が充実してるって感じで」
「少し前とは生活スタイルが変わりましたから」
市香は記憶を辿るように虚空を見つめた。
「いつものように仕事をしていた時に、ふと我に返ったんですよね。『あれっ、私こんな所で何やってんだろ?』って。そして次の瞬間には自分のやりたいことを考えてしまって、数日後には『退職します』って上司に伝えたんです」
「あれには私も驚かされたわ。『私、仕事辞めてきました』って言いながら、店に入ってくるんだもの」
思い切ったことをするものだ。その原動力はどこから来るのか。
「美由紀さんに相談もしないで決めてしまいました」
「それは良いのよ。自分の人生なんだから」
「だけど今思うと、何だか不思議な感覚がするんですよね。それまでの私って、私であって私ではなかったような。何だかふわふわした記憶しかないし。どうして好きでもない仕事をあんなに一生懸命やっていたんだろ」
「そういうものよ。市香の妹たちも気ままに過ごしてるみたいだし、これでみんな自由になれたわね」
「そうですね。心音も多津美も人生を謳歌していると思います」
「市香さんって三姉妹なのですか」
「そう。三人もいるの。楓月くんは兄弟いるのですか?」
「姉が一人いましたけど、幼い頃に亡くなったので、今は一人です」
「そっか……。私たち小さい頃はケンカばかりしてたなぁ」
市香は遠い目をして懐かしんだ。
姉の一葉が亡くなってから、僕はずっと一人だ。姉だけではない。姉が亡くなった後に父も亡くしている。だから二人との思い出は断片的なものしかない。母に関しては、いつの頃からか口も聞かない仲になった。
「あっ、いけない。もうこんな時間。お店の準備しなきゃ」
市香が壁時計を見て言った。ダリの時計のように曲がりくねった針が四時を指している。
「美由紀さん、また来ます。楓月くんも、またね」
そう言って、小さな手提げバッグを片手に店を出て行った。
「お店の準備って、市香さんも店を経営しているのですか」
「退職してから直ぐにレストランをオープンしたのよ。海に面したところにね。イベントも定期的に行っていて楽しそうよ」
退職してまで、やりたかった事とは、それだったのか。僕だったら経営に失敗した時のことばかりを考えて、二の足を踏んでしまいそうだ。
「これから、また夕日の絵を描きに行くの?」
市香が飲んでいたティーカップを片付けながら、美由紀さんが言った。
「いえ、今日は止めておきます」
とても、そのような気分にはなれない。事故以来、一度も桟橋には足を運んでいない。
「それなら、ちょっとお願いしても良いかしら? 珈琲豆の他にも切らしたものがあるのよ。急用が入って買いに行けなくなってね」
「良いですよ」
時間なら持て余している。
「それじゃあ、フランスパンとローズジャムとメープルシロップをお願いね」
「ローズジャムなんて料理に使ってましたっけ?」
「ロシアンティーを作る時にね」
美由紀さんは棚から小瓶を取り出した。
「現地ではジャムを紅茶に溶かしたりはしないらしいけど。今度飲んでみる?」
「あまり紅茶って飲む習慣がなくて」
「試してみれば? 好きになるかもよ」
思えば珈琲ばかり飲んでいる。新たに行動を取ろうとしても必ず強い力が後ろから引っ張る。たかだか飲み物一つにしても、この有様だ。
「そうですね。今度チャレンジしてみます」
美由紀さんは壁時計をちらりと見た。
「ちょうどパンが焼き上がる頃ね。あと申し訳ないけど、七時頃に戻って来てもらっても良い? 今から友人が来るのだけど、何だか込み入った話みたいでね。今度、美味しい手料理をごちそうするから」