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鷹が見ている世界

 お前にできるわけがないんだ。

 いつもの声が身体の内側から聞こえてくる。だけど、これは僕の声じゃない。

 僕が見ていた世界は他人が描いた偽物の世界だった。そのことに気づきもしなかったなんて……。


 頬を柔らかな羽毛が撫でた。小鳥が肩の上で気持ちよさそうに鳴いている。

 ここは……

 波がそっと足元に触れて引いて行った。どうやら砂浜の上のようだ。

 穏やかな空気が漂っている。長らく外部からの侵入を拒み続けてきた島とは思えない。遠くから眺めた時は畏怖さえ覚えるものだったというのに……。恐れる必要なんて何もなかった。

 上体を動かすと、肩に止まっていた小鳥が驚いて飛び去って行った。小鳥が向かった先には切り立った崖があり、周囲は果てしなく続く青い空と海だけが広がっている。

 仰向けになって空を仰ぎ、しばらく心地の良い音に酔いしれた。

 今の僕には、つまらないものに執着する欲はない。だけど、まだ何かが僕を後ろから引っ張り続けている。

 もっと奥深くに行ってみよう。一歩一歩、足を踏みしめながら慎重に歩を進めて行った。歩いていると、岸壁に何やら建造物らしき物体が見えた。あれは灯台ではないか。木の葉に隠れて、ひっそりと佇んでいる。

 どれだけの長い間、風雨に晒され続けてきたのか。今にも朽ちてしまいそうだ。今もまだ光を放つのだろうか。

 壁に寄り掛かって、ぼんやりと空を眺めた。空に龍が描かれている。龍はその姿を刻々と変えながら悠然と進んでいき、やがて空に溶けていった。変わらないでいられるものなど存在しない。

 今思えば、母が僕に様々な制限を掛けたのは仕方のないことだったのかもしれない。母もまた被害者なのだ。そうせざるを得なかった人生を母は歩んで来ている。

 もう母を責めるのは止めにしよう。このあたりで負の連鎖を断ち切らなければならない。

 空を眺めていた時、鼻先を突風が掠めた。降雨時の独特な匂いがする。風が吹いた方角に目を遣ると、灰色の雲が上空に立ち込めているのが見えた。あの雲はこちらに向かってやって来ている。しばらく休憩しよう。

 ポツポツと雨が肌を打ち、次第に土砂降りへと変わっていった。濃霧が辺りを包み込んでいく。

 意識が薄れゆく中、地面を激しく叩く雨音だけが聞こえた。

「ちょっと、待って」

 潮風の音に声が掻き消され、僕の声が届かない。女性が巨石群の隙間を縫うように歩いて行く。後を追うと、祭壇らしきものが見えた。この場所で何かの儀式が行われていたのだろうか。覆われた苔が長い年月を思わせる。

 周囲を見渡すと、至る所に、自然に手が加えられた形跡があることに気づいた。随分と痛々しい姿だ。この島は踏み荒らされた過去を持っている。

 巨石を見上げて思いを馳せていると、遠くから水の音色が聞こえてきた。誘われるまま進んで行く。

 巨石群を抜けた先にあったのは淡く光る泉だった。先ほどの女性が慈愛に満ちた表情で泉の中央に立っている。この人は僕が来るのを、この島で待ち続けていたのではないか。懐かしい感覚がする。

 女性と目と目が合い、女性が僕に微笑みかけた時、どこからともなく風が吹いた。女性を中心に水の波紋が広がっていく。身体の中を通り抜けていった風は、落ち葉を舞い上がらせ、落ち葉と共に上空の彼方へと消えていった。

 目を開けると、視界に飛び込んできたのは、立ち込める霧を引き裂くように飛翔する一匹の鷹だった。あれだけ降り注いでいた雨が嘘のようにぴたりと止んでいる。

 もう少し先に進んでみよう。きっと、この先に僕が追い求めているものがある。歩いていると切り立った崖が見えた。傍らにある大きな岩には見覚えがある。あれはキャンバスに描かれていた岩ではないか。あの岩に降り立った鷹が眼光鋭く夕日の方角を見据えていた。

 岩に近づいて、鷹の影像に寄り添った。

―─これが父の見た景色か……

 今にも沈み落ちてしまいそうな夕日が虚空に浮かんでいる。

 桟橋で夕日を描き続けても憂鬱な気分が晴れることはなかった。その理由がやっと分かった。この夕日は池に映る満月と同じだ。

 鷹が見ていたのは沈みゆく夕日ではなかった。あの鷹は揺るぎない心で、もっと遠くを見据えていたのだ。

 夕日に照らされた海面が眩く光り、オレンジ色の橋を浮かび上がらせている。この橋を渡って行けば良いのか。今ならどこまでも歩いて行けそうな気がする。



「楓月! 楓月!」

 誰かが僕の身体を揺さぶっている。目を開けると、そこにいたのは海斗だった。海斗が嗚咽を漏らしている。

「まさか島に漂着するなんてさ。信じられないよ」

 手を動かすと砂の感触がした。ここは砂浜なのか……。

「これなら、みんなで来る必要はなかったな。生きていたとしてもどこかに漂流しているとばかり思っていたからさ。全員で探すつもりで来たんだ。見ろよ。この数。凄いだろ」

 海上を多くの漁船が埋め尽くしている。これだけ多くの人たちが僕の為に集まってくれたのか。

「親父がさ、数は多い方が良いと言うからさ。楓月、立てるか?」

 僕は首を横に振った。もう一歩も動けそうにない。

「ほら、肩を貸すよ。今回はお互いに酷い目に遭ったな」

海斗はそう言うが、酷い目に遇ったからこそ、様々なことに気づくことができたのだ。過去の体験の全てが今の僕に繋がっている。切り傷から流れ出たのは甘い蜜だ。

「そろそろ行くぞ、楓月」

 船団が一斉に動き出した。壮観な眺めだ。

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