警察に咲良が連れ去られたことを伝えると、直ぐに手配をしてくれた。上空を流れる雲が月を覆い隠し、辺りが一段と暗くなっている。
もう教会は終わりだ。さすがに拉致や監禁は行き過ぎている。自己啓発と言えば聞こえは良いが、中身は醜悪そのものだった。あのような思想を植え付けられたら人は先には進めない。このまま消えて無くなった方が世の為だ。
シェアハウスへ向かう途中、どことなく皆と距離を感じた。車内が重苦しい空気に包まれている。これ以上、首を突っ込みたくはないという意思の現れだ。教会の本来の目的は僕の拉致だったはずだ。里美と咲良は巻き込まれたにすぎない。僕と関わらなければ、里美が被害を受けることはなかった。これ以上、皆を巻き込むわけにはいかない。
「車を止めて下さい。やっぱり咲良さんを探しに行きます」
警察からは「勝手な行動は慎むように」と釘を刺されている。だけど、もう限界だ。僕だけが傷つかないでいるなんて、そんな都合の良い話はない。僕はどうなっても構わない。咲良を探しに行こう。
「すまない、楓月」
修二が申し訳なさそうに言った。ここまで危険を省みずに行動を取ってくれたのだ。修二たちがいなかったら、僕らは、もっと酷い目に遭っていた。感謝してもしきれない。
車から降りて、タクシーを呼び止めた。
「港町へお願いします」
香流甘が港町と言っていた。今はそれに賭けるしかない。
タクシーから降りると、直ぐに暗闇に身を潜めた。夜の町は静まり返っている。少しでも目立つ行動を取れば、あっという間に見つかってしまうだろう。荒木を見つけ次第、直ぐに通報しなければ。
身を潜めながら歩いていると、一人の女性が目に付いた。あいつは絵蓮ではないか。このような夜更けに何をしているのか。やはり、こいつも咲良の拉致に関与していたのか。
絵蓮が向かう先に男が一人立っている。この場所からは遠いこともあって、男の顔を見ることができない。絵蓮は腰に手を当てて、その男と向き合っている。絵蓮の態度から相手が格下なのは明らかだ。少なくとも絵蓮はそう思っている。相手は荒木ではない。トカゲでもなさそうだ。
気づかれないように注意を払いながら、弧を描くように近づいて行った。見える角度が少しずつ変わっていく。
そんな馬鹿な……
街灯に映し出された男の姿を見て、思わず声を出しそうになった。どうして海斗が絵蓮と会っているのか。二人が裏で繋がっていたなんて……。つい先日、海斗とは会ったばかりだ。あれは偶然ではなかったということか。思えば、あの時の海斗は妙によそよそしい態度をしていた。
絵蓮と海斗が歩き出し、古びた雑居ビルの前で足を止めた。この位置からでは何を話しているのか分からない。二人に気づかれないように雑居ビルに近づき、足音を立てないように、そっと非常階段を昇った。踊り場で足を止めて耳を澄ます。大丈夫だ。気づかれてはいない。恐る恐る壁から顔を出して、二人を見下ろした。
街灯に照らされた二人の姿が闇夜に浮かび上がっている。この位置ならば安心だ。見上げない限り、僕の姿を視界に捉えることはない。しかも幸いなことに絵蓮は背を向けて立っている。
困惑の表情を浮かべている海斗とは対照的に絵蓮は落ち着き払っている。主従関係は明らかだ。絵蓮の海斗に対する態度は、かつての職場の先輩たちを彷彿させる。権力を持つに値しない人間が権力を持ってしまえば、必ず高圧的な態度を取るものだ。
「呆れるわ。せっかくあいつの行き先を教えてあげたっていうのに、何も聞き出せていないなんて。そんなことだから何をやっても成功しないのではないですか」
やはり海斗があの場所にいたのは偶然ではなかったのか。どこかで僕を監視していた信者が絵蓮に報告でもしたのだろう。あまりにもしつこい。吐き気がする。
「勝負所で行動に移せない。そのような人は絶対に成功しませんよ」
絵蓮が追い打ちをかけた。自分のことを棚に上げて随分と偉そうな態度を取っている。絵蓮だって何一つ成し遂げてはいないではないか。せいぜい教会内部で何かの役職を手に入れた程度だろう。そんなものが成功と言えるのか。
海斗がどのような対応を取るのか気になった。僕の知っている以前の海斗なら、絵蓮のような奴を相手に服従を決め込むことは絶対にしないはずだ。
「俺はあんた達みたいに卑怯なことをしてまで、金なんて欲しいとは思わないんだ」
「卑怯? どこが卑怯だって言うの? 海斗さん、あなた全然、分かってないわね。これは卑怯ではなく戦略と言うの。この前も話したと思うけど、あの絵を上手く利用すれば、多額のお金を手に入れることができるのですよ。しかも長期に亘ってね。搾取される側から、搾取する側に回れるってこと。あなたも、あなたの友人の楓月さんもバックマージンとして収入を得られます。誰も損なんてしません。こんな美味しい話、他にありますか」
「金を得たら幸せになれるのか」
「当たり前でしょ。お金は汚い物だから得ようとしてはいけない。そんな馬鹿げた考え、捨てたらどうですか?」
絵蓮は更に続けた。
「きっと今のあなたに言っても分からないでしょうね。底辺で蠢いて、服従することに慣れきってしまった、あなたのような人には」
海斗は下を向いて黙り込んだ。
絵蓮は自分のことを優れた人間だと思い込んでいる。しかし、それは単なる価値観の違いでしかない。優れた人間の振りをしなければならないなんて、満たされていない証拠ではないのか。
「これだけの好条件が揃っても動こうとしないなんて……。海斗さん、あなた完全に終わってますね」
下を向いていた海斗が顔を上げた。
「黙って聞いてりゃいい気になりやがって」
海斗が絵蓮を睨み付けた。
「何、勝手に決め付けてんだよ。まだ俺は終わってなんかいねえ」
「じゃあ、やるって言うの?」
「やるわけねぇだろ。タコ」
「は?」
「やらねえって言ってんだよ。俺も楓月も他人を騙してまで金を稼ぐような汚い真似はしない。絶対にな。お前らみたいな薄汚れた奴らとは違うんだよ」
「ばっかじゃない?」
絵蓮は声を上げて笑った。
「正しいことをすれば必ず成功するとでも? あなたは世の中を知らないから、そんな甘ったれたことが言えるのよ」
「正しいこと? その前に、お前、正しいことなんてしたことあるのかよ」
「あんたに私の何が分かるのよ」
冷静だった絵蓮が語気を強めた。
「分かるよ。正しいことをしていたら、お前みたいに人格が捻じれ曲がる訳がないからな」
今度は絵蓮が黙り込んだ。何も言い返せずにいる。
沈黙が流れた後、絵蓮が先に口を開いた。
「私とは価値観が決定的に異なるようね」
「そのようだな。じゃあ俺、帰るわ。お前の顔を見ているだけでムカムカしてくるからな」
「それはこっちもよ。じゃあ交渉決裂ということで」
海斗は絵蓮を一瞥して帰って行った。先ほどまでの立場が逆転している。