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教会本部へ

「困ったわ。これでは顔向けできない」

美由紀は一人呟いた。

数日前に「香流甘の行方が分からなくなった」と宗一郎から一報を受けた時、美由紀は顔が急速に青ざめていくのを感じた。待っていれば、いずれ自己啓発の怪しさに気づいて、自然と教会から離れてくれるとばかり思っていた。考えが甘かった。

友人に香流甘のことを頼まれた手前、「どこに行ったか分からなくなりました」では示しがつかない。もう悠長なことを言っている場合ではなくなった。あの教会は思っていたよりも危険な団体なのかもしれない。教会に集まって直ぐに離散するといったサークル活動レベルなら、まだ安心して見ていられる。しかし外部との断絶を図り、そこで教会の教えを説いているのならば、さすがに警戒しなければならなくなる。閉ざされた空間の中で、特定の思想を刷り込むのは比較的、容易にできることだ。まして新興宗教の類いに救いを見出す人というのは依存心が高い傾向にある。簡単に操られてしまうだろう。

美由紀は宗一郎に電話を掛けた。

「香流甘さんのことだけど、おそらく本部にいると思うのよ。だけど調べても場所が分からなくて」

 実家を出た後、香流甘は港町で誰かと共同生活をしていた。その香流甘が忽然と姿を消したのだ。香流甘はまだ二十歳と若い。今の香流甘は一人暮らしをするほどの生活力はないはずだ。

「本部? そんなものがあるのか」

「信者たちのブログを見ていたら『本部』の文字が度々出てくるのよ。何でも本部に行くことは名誉らしくてね。宿泊もできるようだから、香流甘さんが行くとしたら、そこではないかと思って」

「駅で姿を見かけなくなったということは、もうこの辺りを生活の拠点にはしていないということだろうな。仕事仲間にも伝えて探してみるよ」

「そんなに遠くには離れてはいないと思うわ」

 まだ全国展開をするほどの規模ではない。まだ支部の数も少なく、それらは近場に点在している。それを鑑みれば、拠点となる本部も近場にあるはずだ。

香流甘の他に心配の種がもう一つある。あれだけ気をつけていたというのに、香流甘の母親に教会の情報が漏れてしまったのだ。友人の誰かが話したのかもしれない。後先考えない彼女のことだ。問題を起こさなければ良いが……。



目を閉じれば、いつでも、あの日の光景が脳裏に浮かんでくる。感動で心を振るわせている聴衆たち。一生忘れはしない。

由香里は顔を上げて、遠くに視点を合わせた。関門海峡が見える。海というよりは巨大な川と表現した方が相応しい。群青色をした水流が一つの塊となって悠然と移動している。

由香里は身体の向きを変えて丘を見上げた。辺りには、絵蓮も信者らしき人影も見当たらない。居るのは公園で騒いでいる人たちくらいだ。

かつて絵蓮は「教会のトップに認められたら、本部に行くことができる」と目を輝かせていた。絵蓮が行くとしたら、この場所しか考えられない。予め本部の場所を聞いておいて良かった。

丘の頂上付近は樹々で覆われており、敷地内の全容を窺い知ることはできない。建物の一部だけが顔を覗かせている。剥き出しのコンクリート造りだ。工場のような無機質さに、幾ばくかの恐怖を覚える。教会のような荘厳さは微塵も感じられない。本当にこれが本部なのだろうか。幸福感に包まれた信者たちが微笑ましく暮らしているといった、一種の楽園をイメージしていたのだが。

足元の舗装路は丘の頂上まで続いている。この道を歩いていけば本部に辿り着く。しかし一歩が踏み出せなかった。どうしたものかと逡巡していた時、後方から声が聞こえた。先ほど公園で騒いでいた人たちが、こちらに向かって何やら叫んでいる。昼間から絡まれるなんて冗談じゃない。

頂上に着き、玄関から中を覗いた。受付はおろか、ロビーにも人の姿がない。しかし閉鎖はしていないようだ。殺風景だが、隅々にまで掃除が行き届いている。

インターフォンを押して、しばらく待っていると、奥から一人の青年が現れた。一瞬、緊張が走ったが、その男の姿を見て緊張は直ぐに解けた。武術の心得はないが、この男になら勝てそうな気がする。目の前の男は痩せこけており、軽く押しただけで倒れてしまいそうだ。この頼りない男が警備員なのだろうか。教会は世間体を気にしているのかもしれない。威圧感のある人物が対応すれば、近隣の住民から反発を招きかねない。

「あの、こちらに吉岡絵蓮という人が来ていると思うのですが、知りませんか?」

「あなたは?」

男は爬虫類のような目をしている。声に抑揚がなく、まるで生気が感じられない。

「絵蓮の姉の吉岡由香里と言います」

男は何も反応を示さないまま、奥へと消えて行った。帰れという意思表示なのか、それとも、ここで待っていろという意味なのか、男の表情から読み取ることができなかった。しかし、このまま帰るわけにはいかない。待つことにしよう。

しばらくすると扉が開いた。先ほどの男が蝋人形のように奥で立っている。肌が粟立つのを感じたが、勇気を出して足を踏み入れた。内部は外観に反して豪華絢爛だった。廊下には様々な美術品が飾られており、小物一つ取っても数十万から数百万はしそうだ。

 待合室に案内された由香里はソファに腰を沈めた。

あれだけの高級品を集めたということは、それだけ多くの被害者がいることを意味する。一体、絵蓮はここで何をしているのだろう。

この場所には私が欲しているものは何一つとして存在しない。だけど絵蓮にはありそうだ。絵蓮は金持ちばかりと付き合ってきた。男の耳元で愛の言葉を囁いても、その男が失脚でもすれば、忽ち態度を豹変させて物のように捨てた。絵蓮にとって周囲の人間なんてものは、自分を良く見せる為の装飾品でしかないのだ。同じ親に育てられたというのに、私たちの感性は大きく異なる。

何としてでも、この場所から絵蓮を連れ戻さなければ。

コンコンとノックがした後、ゆっくりと扉が開いた。

「迷惑なんだけど」

絵蓮はそう言って、私の真向かいに座った。何をしに来たのかと言わんばかりの態度だ。

「まさか、お姉ちゃんも危ない団体と思ってるわけ?」

絵蓮が訝しげな眼差しを向けてきた。

「危ないかどうかは分からないけど」

一旦言葉を止めて、一呼吸おいた。慎重に言葉を選んだ方が良さそうだ。

「その可能性もあると思ってる。宗教みたいなものだから」

絵蓮は親と一緒に住んでいた時、裏の顔を潜めて過ごしていた。子どもの頃は親の寵愛を受ける為であり、それ以降は親との対立を避ける為だ。絵蓮は善人を装って生きてきた。絵蓮は急に変わったわけではない。その姿を隠していただけだ。

母は絵蓮に辛く当たった。『お前は何もできない。どうしようもない人間だ』耳を塞ぎたくなる言葉の羅列だった。絵蓮の苦しみに気づいてやれなかったことをずっと後悔している。

「やっぱり分かっていないようね。宗教だなんて、とんでもない。ここでは辛い修行なんて誰もしていないのだけど。みんな、ここに居たいからいるだけよ」

「ここで何をしているの?」

「特に何も。ただ遊んでいるだけ」

そう言って、絵蓮が立ち上がった。

「見て確認した方が早いんじゃない? お姉ちゃん、面白いものを見せてあげる」

絵蓮と一緒に廊下に出た。何人もの女性信者と擦れ違う。確かに絵蓮の言う通り、宗教といった雰囲気は微塵も感じられない。だけど何かがおかしい。彼女たちは自己啓発に嵌まった人間特有の目をしている。快楽物質で脳内が満たされて悩み一つないといった目だ。

「ねぇ、絵蓮。どうして店を閉めたの?」

「わざわざ見て来たわけ? そうやって干渉したがるのは、親と一緒だね。もう私には必要がないから閉めたのよ」

 絵蓮は呆れと侮蔑を含んだ目をして答えた。

「雑貨を扱うカフェ店を経営するのが夢だったんじゃないの?」

「それは昔の話。今時そんなのやったって儲からないでしょ」

 あのビルの一室を事故を起こす為だけに借りたとは思えない。だったら部屋には何も運び入れる必要はなかったはずだ。それに今もそのままにしてある。

「じゃあアルバイトも辞めたの?」

「アルバイト?」

「結婚相談所のよ。サクラやってるでしょ」

「ああ、あれね」

絵蓮は鼻で笑った。

「相変わらず、お姉ちゃんって鋭いね。あの仕事は結構面倒なのよ。相手が望んでいる女性像を演じないといけないからね。例えば、苦労人が好きだと言う人がいたら、過去に苦労をしてきた人に成りきらなきゃいけないし、看護師と会いたいという人がいれば、看護師に成りきらなきゃいけない。だけど仕事の内容とか聞かれても分からないじゃない? やったことないからさ。そんな時は最近、就職したことにするのよ。何か突っ込んだことを聞かれても、まだ良く分からなくて。とか適当なことを言って誤魔化せば良いだけだし」

「でも相手にはサクラだと、そのうち気づかれるでしょ」

「いや、全然。たとえば相手が、もっと近場の人を紹介して欲しい。と要望を出してくるとするじゃない? すると次から、近場の人の紹介が急に増えるわけだけど、ここで普通おかしいと気づくでしょ。紹介する相手が近場にいないから、今まで遠隔地の人ばかりを紹介してたのにさ。それがビックリすることに気づかないのよ。男も女も簡単に騙される」

「止めた方がいいよ、そんなことするの」

「もう辞めたわ。あれも稼げないからね。だけど人があんなにも騙されやすい生き物だと分かったのは収穫だった」

絵蓮の表情から笑みが消えた。更に絵蓮が続ける。

「結構相談所には、男と会って知り得た情報を伝えるの。その情報を他の人たちと共有すれば、より一層、簡単に男たちから搾取することが可能になるからね。お姉ちゃんのように勘の鋭い人は稀だけど存在するのは確かよ。その人たちから搾取するのは難しい。そのような人は、こちらからばっさり切ってしまうのが一番。関わるのは頭の悪い連中だけで十分だからね」

絵蓮の瞳孔が開いている。

「私、気づいたの。このスキルは天性のものだって。だったら、それを活かさなきゃ損でしょ」

「活かすって、どうやって?」

「私がここにいることで察してくれない? 通常、本部に来るのは数年掛かると言われてるのよ。早い人でも一年は掛かるらしいけど、私はたったの三か月」

絵蓮は悪びれもせずに答えた。自分のことを特別視しているのだろう。この手のタイプに碌な人間がいないことは、身に染みて分かっている。

「ここで勧誘してるってことね」

「正解。まず気軽に足を運んでもらう為に飲み会に参加してもらう。いきなりセミナーに呼んでも怪しまれるだけだからね。人によっては個別に会うこともするわ。この時点で既に選別が行われているの。理性的な人は警戒して最初から近づいて来ない。来たとしても途中で気づいて退席する。退席しなくても、こちらの言うことなんて耳も貸さない。それは態度で分かるわ。そこで、その人たちとは縁を切って終わりにする。騙しやすい人だけを残すことができたら、そこからいよいよ仕掛けていくってわけ。その人たちの前でさりげなく金目の物を見せびらかしたりしてね。そうすることで、入会したら自分も稼ぐことができるのだと、向こうが勝手に思い込んでくれる。絶対に『金持ちになれますよ』とは言わない。のちにトラブルに発展しかねないからね。捏造した経歴や学歴を提示するのも使えるわ。この時点で既に理性的な人はいないから、疑いもせずに入会して金を産み落としてくれる」

自信に満ち溢れた表情で言い放つ絵蓮を見て、胸が張り裂けそうな思いがした。

「そのようなことをして、絵蓮は本当に満足なの?」

「相手が騙されていることに対して、一々責任を感じる必要はないと思うのよ。私はただ相手が求めているものを提供しているだけ。これはサービスの一環よ」

「でも、それって結局は騙していることと同じでしょ」

「人間、誰しも相手を騙しているわ。本音を言わずに相手と接するなんて、誰もがやっていることでしょ。相手に自分をよく見せる為に嘘をつく。それは騙しているってことだよね。私はそういった社会のルールに則っているだけにすぎないのよ。下らないけどね」

「だったら、その下らない社会のルールを破れば良いんじゃないの?」

「お姉ちゃん。人間ってそんなに簡単には変われないわ」

 そう言って、絵蓮が深く溜息をついた。

「私、あの人たちみたいには絶対になりたくないのよ」

絵蓮がぽつりと呟いた。誰のことを言っているのか直ぐに分かった。絵蓮は父と母を見下げることが度々あった。

「確かに裕福な家庭ではなかったわね」

「それもあるけど、それ以前の問題。最低でしょ。あの人たちって。褒めるところが一つもない。頭が悪いくせに偉そうにしてたしさ」

「お母さんはともかく、お父さんは私たちに優しく接してくれたし、真面目に働いてくれてたじゃない。絵蓮に対しては何もしなかったはずだけど」

「真面目に働けば良いってものじゃないでしょ。あの人には稼ぐ能力が全くなかった。毎日ダラダラと無駄に長時間働いてさ。最後は会社にゴミのように棄てられてた。あの人がやったことは全て無駄だったのよ」

絵蓮の言葉に愕然とさせられた。父には何の落ち度もなかった。人の良さが仇となっただけだ。いつも自分のことを後回しにして、周りの人たちのことを何よりも優先する人だった。他人を押しのけて利益を奪い取ることをしない。心優しい人だ。その父を、ここまで悪く言うなんて……。

絵蓮が権力に擦り寄るようになったのは、これが理由だったのか。

「お姉ちゃんは良いよね。何でも簡単に手に入れることができて」

 絵蓮の毒気を孕んだ言葉が胸を衝いた。目が冷めきっている。

両親が離婚してから、私たちは母と三人で暮らした。失業した父を母が支えることはない。パート暮らしのシングルマザーでは、姉と妹のどちらか片方のみに教育費を注ぎ込まなければならなかった。犠牲になったのは絵蓮だ。当時の絵蓮はこれといって秀でたものがなかった。

「だけどね、絵蓮。私は母の言いなりにならなければいけなかったのよ。いつも顔色を窺っていたし。私には自由なんてものはなかった」

行動の全てを母に監視され、自分の意思で取った行動は全て否定された。母に何も言われないようにする為には、母が好む人物を演じるしかなかったのだ。

「だけど大学には行かせてもらったでしょ。それだけでも十分恵まれているのよ」

進学する時、絵蓮と母が衝突したことがあった。その時の母の言葉は酷いものだった。『あんたが大学に行ってどうするの。お金が無駄になるだけでしょ』絵蓮も母に否定されて育ったのだ。しかし期待された私と、期待されなかった絵蓮とでは心の傷の深さは異なる。絵蓮にとって、私を含めて家族全てが敵なのかもしれない。

目を伏せていると、廊下から歓声が上がった。

「お姉ちゃん、始まったよ。これを見せたかったの」

 信者たちが羨望の眼差しを廊下の奥に向けている。その視線の先には、派手で禍々しい蛾のような服を着た女性がいる。両サイドに側近らしき女性を携えており、廊下の中央をこちらに向かって歩いてくる。吐き気がするほどの自己顕示欲だ。信者たちは廊下の端に寄って、その女性の進行を妨げないように配慮している。この三人が教会内部で身分が高い人たちなのは一目瞭然だ。

「あの中央の人はベリー」

「ベリー?」

何を言ってるのか分からない。名前だろうか。

「ベリーってのは、幹部という意味。支部長より上に位置する人。因みに支部長は両サイドの人たち。私たちはナッツって呼んでる。あの人たちと個別で会うには、お金を払う必要があるのよ。会う為の権利としてね」

お金を支払う人なんているのかと勘繰りたくなる。しかし騒ぎ立てている信者を見る限りでは十分に有り得る話だ。彼女たちなら支払うだろう。

ナッツを両サイドに携えたベリーがこちらに向かってくる。

「リーフは歩行の邪魔にならないようにしなきゃいけないの。リーフとは信者のことね」

私は信者ではないのだけど……。仕方なく絵蓮や信者たちに倣って道を譲った。

「トランクへようこそ」

 私から見て左サイドを歩くナッツから、また、おかしな用語が飛び出した。彼女は口角を上げて、気持ち悪いほどの笑みを私に向けている。

「本部へようこそ。という意味よ。因みに支部はブランチね。木をイメージしているの。トランクは幹、ブランチは枝のことを指してる」

 絵蓮が耳元で囁いて教えてくれた。横文字を無意味に使って、悦に浸りたがる人たちにはうんざりさせられる。英語なんて話せないくせに。

トランクの廊下を、ブランチの長であるナッツを両サイドに携えたベリーが、リーフを掻き分けて歩いて来ると言ったところか。もはや訳が分からない。

由香里は通り過ぎていく三人と、それを崇める信者たちを冷めきった目で見つめた。



海沿いの国道を北に向けて進んでいく。外の景色を眺めて微睡んでいる咲良をよそに、ハンドルを持つ手に力が入る。久しぶりの運転だ。

向かう先は候補地の一つ、角島だ。手あたり次第に島を巡るより、狙いを定めた方が見つかる可能性が高い。まずは土地勘のある場所から見て回ることにした。真田が旅先から帰って来るまでには、まだ時間がある。

海岸線を北上するに連れて、辺り一帯を鮮明に染めていた赤がくすみ始め、陰を落とした。夕焼けは、その時々で様々な姿を見せてくれる。楓月は前のめりになっていた身体を後方のシートに預けて、肩の力を抜いた。後はこのまま一本道を進むだけで角島に辿り着く。

「日が落ちそうですね。少し急ぎましょう」

楓月はアクセルを踏み込んだ。夕日を見なければ意味がない。



香流甘は一人静かに海を眺めた。深緑色をした水面が膜のように揺れている。

このまま身を沈めたら、どれだけ楽になれるだろうか。

栗色の髪が風に吹かれ、細雨のように首に纏わりついた。香流甘はそれを振り解こうと、頭を左右に振った。

私だって自由に生きても良いはずだ。もう我慢はしたくない。



角島に着いても、それらしい景色は見当たらなかった。

「もっと奥に行ってみましょう」

 咲良の母が『絵には大きな岩と鷹が描かれていた』と言っていた。絵は景色を描き写したものとは限らないが、そこに行けば何か見つかるかもしれない。灯台に着くと、僕らは壁に背を預けて海を眺めた。夕日が細波の先端を輝かせている。

「この景色ですかね」

誰に向けるわけでもなく、一人呟いた。綺麗な景色を見れば、少しは感銘を受けるのかと思っていた。しかし、この景色は僕の心を動かしてはくれない。

心なしか咲良も優れない表情をしている。

角島には様々な思い出が詰まっている。まだ人生に行き詰まりを感じていない晴れやかだった頃の思い出だ。その頃の僕が語りかけてくる。

―随分とつまらない人生を送っているんだな、今のお前は。と……

日が陰り、空や海、そして大地、全ての色が失われていった。島に静けさが訪れる。暗闇の中に潜む何かに対して、恐れる自分が現れる時間だ。

一人、二人と恋人たちや親子連れの姿が消えていき、島に残っているのはサラリーマンと傍らにいる女性のみとなった。女性はとても若い。二人は僕らから離れた場所にいる。

「僕らも帰りましょうか」

ここに長居しても、もう何も見つかりそうにない。僕らは駐車場に向かった。サラリーマンたちも帰るようだ。二人を追い抜くのは気まずいと思い、僕らは前を歩く二人から少し距離を置いて歩いた。

辺りはすっかり暗くなっている。足元が暗くて見えないからか、前方の二人は草の上を避けて外灯のある舗装路を歩いている。僕らもそれに倣った。外灯に照らされた舗装路が煌びやかに光り、後方に流れて行く。この光景は、あの日見たものと同じだ。事故に遭った帰り道、舗装路の光を眺めながら歩いた、あの時の光景だ。

前方の二人が街灯の下を通った時、外灯の光が男の姿を照らした。あの男は……。事故直後、野次馬に混ざって、こちらの様子を伺っていた男ではないか。あの男に似ている。男は後方にいる僕らに少しも関心を示さないまま、駐車場へ入って行った。思い過ごしだろうか。スーツを着ている人なんてどこにでもいる。

「あっ」

助手席に座った若い女性を見て、思わず声を漏らしてしまった。クリーム色のバッグを胸に抱いている。市香と追跡した時に見たバッグだ。外灯に照らされて、時折、光る小物は、おそらく白ふくろうのチャームだろう。

「咲良さん、助手席を見て下さい。あの人が香流甘さんです」

 何が起きたのかと驚いている咲良に小声で伝えた。

「香流甘さんって、美由紀さんたちが探している女の子のことですか」

咲良は香流甘のことを知らない。見たのは今日が初めてだ。男は僕らの存在に気づいていないのか、こちらのことなど気にする素振りも見せない。

車のエンジン音が聞こえ、男がハンドルに手を掛けた。ゆっくりと車が動き出す。どうやら小倉方面へ向かうようだ。

「咲良さん、追いかけましょう」

急いで後を追った。海沿いを走る国道は一本道が続く。これならば進行方向が同じでも、怪しまれることはない。

関門海峡に差し掛かった頃、車が左折して坂道を上って行った。この先にあるのは公園だ。夜景でも見に来たのだろうか。

僕らが遅れて公園に着いた時、男と香流甘は海に面した公園から離れていくところだった。夜景を見に来たわけではないようだ。二人は公園の裏手にある丘へ向かっている。

「何だか気味が悪いところですね」

 咲良が丘を見上げて言った。丘の上に建物が見える。

「僕、ちょっと見てきます。咲良さん、ここで待っていて下さい」

咲良が心配そうにこちらを見つめた。

「確認して来るだけです。直ぐ戻ってきます」

丘の周辺は外灯の数が少ない。月明かりを頼りに慎重に歩いて行った。

香流甘の母も僕の母と同じだ。子どもを自分の所有物だと思っている。香流甘が親元を離れたがる気持ちはよく分かる。だけど本当に香流甘は教会で活動したいと思っているのだろうか。香流甘が僕と似た境遇で育ったのなら、そう簡単に人なんて信じないはずだが……。

香流甘たちは既に建物の中に入ったのか、丘の上には誰の姿もなかった。恐る恐る建物に近づき、中を覗き込んだ。まるで消灯時間を過ぎた病棟のようだ。

―ガシャン!

 突然、背後から大きな金属音が鳴り響いた。

振り返ると、鉄扉が閉められており、その前方に先ほどのスーツ姿の男が立っていた。背後にいるのは香流甘だ。どういうわけか怯えた顔でこちらを見ている。

「付いてこい。お前に聞きたいことがある」

香流甘からすれば、僕の方が怪しい人間ということになるのか……。

鉄扉は高く、頑丈な造りをしている。この状況で逃げるのは難しい。男に言われるまま建物の内部へ足を踏み入れた。咲良を残して来たのは正解だった。僕が戻ってこなければ、何かしら行動を取ってくれるはずだ。


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