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教会本部へ①

「困ったわ。これでは顔向けできない」

 美由紀は一人呟いた。

 数日前に「香流甘の行方が分からなくなった」と宗一郎から一報を受けた時、美由紀は顔が急速に青ざめていくのを感じた。待っていれば、いずれ自己啓発の怪しさに気づいて、自然と教会から離れてくれるとばかり思っていた。考えが甘かった。

 友人に香流甘のことを頼まれた手前、「どこに行ったか分からなくなりました」では示しがつかない。もう悠長なことを言っている場合ではなくなった。あの教会は思っていたよりも危険な団体なのかもしれない。教会に集まって直ぐに離散するといったサークル活動レベルなら、まだ安心して見ていられる。しかし外部との断絶を図り、そこで教会の教えを説いているのならば、さすがに警戒しなければならなくなる。閉ざされた空間の中で、特定の思想を刷り込むのは比較的、容易にできることだ。まして新興宗教の類いに救いを見出す人というのは依存心が高い傾向にある。簡単に操られてしまうだろう。

 美由紀は宗一郎に電話を掛けた。

「香流甘さんのことだけど、おそらく本部にいると思うのよ。だけど調べても場所が分からなくて」

 実家を出た後、香流甘は港町で誰かと共同生活をしていた。その香流甘が忽然と姿を消したのだ。香流甘はまだ二十歳と若い。今の香流甘は一人暮らしをするほどの生活力はないはずだ。

「本部? そんなものがあるのか」

「信者たちのブログを見ていたら『本部』の文字が度々出てくるのよ。何でも本部に行くことは名誉らしくてね。宿泊もできるようだから、香流甘さんが行くとしたら、そこではないかと思って」

「駅で姿を見かけなくなったということは、もうこの辺りを生活の拠点にはしていないということだろうな。仕事仲間にも伝えて探してみるよ」

「そんなに遠くには離れてはいないと思うわ」

 まだ全国展開をするほどの規模ではない。まだ支部の数も少なく、それらは近場に点在している。それを鑑みれば、拠点となる本部も近場にあるはずだ。

 香流甘の他に心配の種がもう一つある。あれだけ気をつけていたというのに、香流甘の母親に教会の情報が漏れてしまったのだ。友人の誰かが話したのかもしれない。後先考えない彼女のことだ。問題を起こさなければ良いが……。



 目を閉じれば、いつでも、あの日の光景が脳裏に浮かんでくる。感動で心を振るわせている聴衆たち。一生忘れはしない。

 由香里は顔を上げて、遠くに視点を合わせた。関門海峡が見える。海というよりは巨大な川と表現した方が相応しい。群青色をした水流が一つの塊となって悠然と移動している。

 由香里は身体の向きを変えて丘を見上げた。辺りには、絵蓮も信者らしき人影も見当たらない。居るのは公園で騒いでいる人たちくらいだ。

 かつて絵蓮は「教会のトップに認められたら、本部に行くことができる」と目を輝かせていた。絵蓮が行くとしたら、この場所しか考えられない。予め本部の場所を聞いておいて良かった。

 丘の頂上付近は樹々で覆われており、敷地内の全容を窺い知ることはできない。建物の一部だけが顔を覗かせている。剥き出しのコンクリート造りだ。工場のような無機質さに、幾ばくかの恐怖を覚える。教会のような荘厳さは微塵も感じられない。本当にこれが本部なのだろうか。幸福感に包まれた信者たちが微笑ましく暮らしているといった、一種の楽園をイメージしていたのだが。

 足元の舗装路は丘の頂上まで続いている。この道を歩いていけば本部に辿り着く。しかし一歩が踏み出せなかった。どうしたものかと逡巡していた時、後方から声が聞こえた。先ほど公園で騒いでいた人たちが、こちらに向かって何やら叫んでいる。昼間から絡まれるなんて冗談じゃない。

 頂上に着き、玄関から中を覗いた。受付はおろか、ロビーにも人の姿がない。しかし閉鎖はしていないようだ。殺風景だが、隅々にまで掃除が行き届いている。

 インターフォンを押して、しばらく待っていると、奥から一人の青年が現れた。一瞬、緊張が走ったが、その男の姿を見て緊張は直ぐに解けた。武術の心得はないが、この男になら勝てそうな気がする。目の前の男は痩せこけており、軽く押しただけで倒れてしまいそうだ。この頼りない男が警備員なのだろうか。教会は世間体を気にしているのかもしれない。威圧感のある人物が対応すれば、近隣の住民から反発を招きかねない。

「あの、こちらに吉岡絵蓮という人が来ていると思うのですが、知りませんか?」

「あなたは?」

 男は爬虫類のような目をしている。声に抑揚がなく、まるで生気が感じられない。

「絵蓮の姉の吉岡由香里と言います」

 男は何も反応を示さないまま、奥へと消えて行った。帰れという意思表示なのか、それとも、ここで待っていろという意味なのか、男の表情から読み取ることができなかった。しかし、このまま帰るわけにはいかない。待つことにしよう。

 しばらくすると扉が開いた。先ほどの男が蝋人形のように奥で立っている。肌が粟立つのを感じたが、勇気を出して足を踏み入れた。内部は外観に反して豪華絢爛だった。廊下には様々な美術品が飾られており、小物一つ取っても数十万から数百万はしそうだ。

 待合室に案内された由香里はソファに腰を沈めた。

あれだけの高級品を集めたということは、それだけ多くの被害者がいることを意味する。一体、絵蓮はここで何をしているのだろう。

 この場所には私が欲しているものは何一つとして存在しない。だけど絵蓮にはありそうだ。絵蓮は金持ちばかりと付き合ってきた。男の耳元で愛の言葉を囁いても、その男が失脚でもすれば、忽ち態度を豹変させて物のように捨てた。絵蓮にとって周囲の人間なんてものは、自分を良く見せる為の装飾品でしかないのだ。同じ親に育てられたというのに、私たちの感性は大きく異なる。

 何としてでも、この場所から絵蓮を連れ戻さなければ。

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