本当にこの服装で良いのだろうか。周囲から浮いてしまわないかと心配になる。由香里は不安な気持ちに包まれながら、レンガ造りの古い街並みを抜けて海へ向かった。市香の店は海沿いにある。古民家の木材を再利用した新旧入り混じった建物が目印だ。
店に着き、隣の広場に目を遣った。半円形状のステージ上にグランドピアノがあり、ステージに向かい合うようにテーブル席が並べられている。ステージの向こう側は海だ。テーブル席の一つに由香里は座った。
店の前で落ち着かない様子で辺りをキョロキョロしている人が目に付いた。席が分からないらしい。
「楓月さん、ここです」
「由香里さん早いですね。迷わなかったのですか」
「ここには何度か来たことがあって……。つい最近も来たばかりだし」
あれは三年前のことだ。魅惑的な弦楽器の音色に導かれて、ふらふらと店にやって来たことがあった。しかし店の前で足が止まり、それ以上、前に進むことができなかった。あの声が聞こえたからだ。
―─お前には才能がない。
ある男が私に言い放った。
ステージ上から奏でられる音色は遥か遠くに聴こえ、その音色も頭の中に鳴り響く声で直ぐに掻き消された。私はここから先に行く資格がない。そう思って引き返した。
あの頃のことを思うと、今こうしてステージを正面から見据えるなんて、何だか不思議な気分がする。とうに閉ざされた道だと思っていた。あとは私の心を締め付けているものを取り除くことができれば……。
各テーブルに料理が運ばれた頃、照明が落とされた。いよいよ演奏会が始まる。
女性が二人、ステージ中央に向かって歩を進めて行った。市香と咲良だ。二人は中央に立つと、聴衆に向かって一礼した。会場からパラパラと拍手が湧き起こる。バイオリンを手に持つのは市香だ。咲良はグランドピアノへと向かった。
夕暮れ時に行われる演奏会。幻想的な雰囲気が辺りを包み込み、ステージの背後からは波の音が聞こえてくる。申し分のない最高の舞台だ。
咲良の柔らかいタッチで演奏が始まった。演目は誰もが知っている有名なPOPSだ。
思い思いに楽しむ聴衆たち。目を閉じて市香の奏でるバイオリンの音色に酔いしれる人もいれば、目に映る光景に心を奪われている人もいる。画一的ではない多様な楽しみ方が心地良く感じる。
咲良と市香が聴衆の心を掴んだ頃、新たに二人がステージに上がった。市香の妹である心音、そして同じ店で働く店員だ。心音はチェロを担当し、もう一人はヴィオラを担当する。
何曲か演奏が披露された後、演目がクラシックへと移った。
咲良が鳴らしたコードの粒上を市香のバイオリンが伝うように駆け上がって行き、チェロとヴィオラは市香が奏でる音の動きに呼応して動き、複雑に絡み合っては離れていった。
様々な調和に聴衆が酔いしれている。何て素晴らしい演奏なのだろう。
◇
楓月はふと気になって隣を見た。
─―あれっ、由香里さんがいない。いよいよクライマックスを迎えるというのに、どこに行ってしまったのか。
再度、ステージに目を向けると、ステージの傍らに由香里がいるのが見えた。手には何も持っていない。楽器を演奏するわけではなさそうだ。
曲が終わると同時に、由香里がステージ中央に向かって歩き出した。由香里はマイクの前に立つと、息を深く吸い込み、そして口をそっと開いた。艶やかで丸みを帯びたハイトーンが辺りを包み込んでいく。由香里の透き通った歌声は直接心に触れてくるかのようだ。身体の中に染み込んでくる。
聴衆の全ての意識がステージ中央に立つ由香里に向けられ、咲良たちが奏でる旋律と由香里の歌声が更なる高みへと聴衆たちを連れて行った。
演奏が終わっても、誰一人として動くことができない。この場にいる聴衆の誰もが感動に打ちのめされ、瞬き一つせずにステージを見つめている。涙を流す者さえいるほどだ。
由香里が聴衆に向かってお辞儀をすると、聴衆から割れんばかりの拍手が沸き起こった。会場を温かな空気が包み込んでいく。ステージから咲良たちが去った後も、しばらく拍手は鳴り止むことはなかった。
◇
「それでは乾杯しましょう。演奏会の成功と楓月くんの新しい門出に」
「乾杯!」
僕は笑顔を無理に作ってみせた。祝福されても素直に喜ぶことができない。祝福に値するのは、ステージに立った五人と演奏会の開催に協力した人たちくらいなものだ。僕は外側から眺めていただけの単なる飾りにすぎない。
「凄かったね。由香里さんの歌声。練習の時も上手いと思ったけど、あれにはびっくり」
市香は著名人と共演することもあると聞く。その市香が賛嘆しているのだから本物なのだろう。
「自分でも驚いているくらいです。とにかく本番前は緊張していたので。声が出なかったらどうしようかと……」
「そう? とても緊張しているようには見えなかったよ」
「ステージに上がるまでは胸が押し潰されそうだったんです。だけどステージに立った時、目の前に小さな子どもがいるのが見えて。その子が本当に楽しそうに目を輝かせていたんです。そのような時が私にもあったなって……。気づいたら緊張なんて吹き飛んでいました」
「由香里さんは自分の世界に入り込むのが上手なのだと思います。さすが女優さんですね」
咲良が言った。いつか受け取った名刺に女優と書いてあった。
「いや、あれは違うんです……」
由香里はバツが悪そうに言った。
「私、本当になりたいのは歌手の方なんです」
「なれるよ、絶対。だって、あんなに上手いんだもん」
市香が言った。
「私もなれると思います」
咲良も市香に同調した。澄ました顔で話を聞いている心音だって、きっと感銘を受けたに違いない。
「咲良さんのピアノ演奏も素敵でした。もちろん皆さんもです」
由香里は、行く行くはプライダルの仕事を卒業して歌手になるのだろう。活躍しているところが目に浮かぶようだ。
みんなの喜びを余所に一抹の虚しさを覚えた。仮に僕が他の家庭で生まれていたのなら、今より良い人生を歩んでいたのではないか。育った環境の違いが、ここまで人生を左右するなんて……。本当に理不尽な世の中だ。僕は同じステージに立つことすらできない。