カーテンを開けて、大きく背伸びをした。窓から射し込む陽の光が身体の隅々にまで行き渡る。頭の中に張り巡らされていた、あのクモの巣のような靄はすっかり取り除かれている。洗面台の前に立って、鏡に映る自分の姿を見つめた。
―─本当に良いのか? 動いたら余計に状況が悪化するだけだぞ。お前には無理だ。お前なんかにできるはずがない。大人しくしておいた方が身の為だ。現実を見ろ。
以前の僕なら、きっとそう思っていたに違いない。
このようなつまらない事に捉われるのは時間の無駄だ。意を決して職場に電話を掛けた。相変わらずの事務的な対応に辟易させられる。だけど、あのような会社で働いている人だ。こんなものだろう。
港町の様子はいつもと変わらなかった。慌ただしく歩いている人の群れを余所に、その傍らをカモメたちが舞っている。風が吹けばそのまま身を任せ、風が止めば翼を羽ばたかせて好きな方向へ飛んでいく。どのような状況であっても、絶えず同じ方向に突き進んでいく人間とは異なる。
跳ね橋を渡り、坂道を仰ぎ見た。この先に職場がある。
坂道を上る途中、唐突に由香里のことが頭を掠めた。たしか由香里の勤め先はこの辺りだった。もし由香里が教会に携わる人間ならば、こちらにわざわざ居場所を教えることはない。実在する会社かどうか確かめておく必要がある。住所から判断すると、由香里の職場は大通りから横道に逸れた場所になる。はたして、そのような場所にプライダル会社なんてあっただろうか。そう思いながら進んで行くと、奥にショーウインドウが見えた。名刺に記載してあった文字列と会社名が一致している。どうやら由香里は嘘を付いていないようだ。
開放的な会社のようで、外から中を窺い知ることができた。社員たちは一様に生き生きと働いている。同じ笑顔でも、同僚たちの好戦的で勝ち誇ったようなそれとは違う。由香里がここで働いているのだったら、少しくらいなら信用しても良さそうだ。
◇
服を一枚一枚丁寧に脱がしていく。丸みを帯びた身体が露わになると、由香里は届いたばかりの新着のウエディングドレスを手に取って、ショーウインドウのマネキンに着せていった。見栄えが良くなるように、少しずつ形を整えていく。
ふと顔を上げると、鏡越しに見覚えのある男の背中が見えた。あの人は……。
由香里は会社の外に出た。先日、私が高台で声を掛けた楓月ではないか。由香里は近くにいる同僚に、「少し早いけど、お昼休憩に入るね」と伝えて、楓月の後を追った。この道を歩いていたということは、私に会いに来たということではないか。わざわざ横道に入って来ることはない。
先を行く楓月が、まるで平坦な道を歩いているかのように、スタスタと上り坂を上って行く。駆け足で追いかけ、声を掛けようと思った時、誰かが私の肩をトントンと叩いた。振り向くと、そこにはスーパーのレジ袋を手に持つ女性が立っていた。袋からネギが顔を覗かせている。隠れるようにして背後に、もう一人女性がいる。
「私に何かご用でしょうか」
道を尋ねようといった雰囲気ではない。目の前の女性は今にも飛び掛かってきそうな空気を纏っている。視界の端で雑居ビルに入って行く楓月を確認した。
「どうして、あの人を追いかけているのでしょう?」
目の前の女性がネギを靡かせて言った。この人たちは教会の関係者だろうか。獲物を横取りされるとでも思っているのか。私は人生を変える絵なんて興味がないのに。
「知り合いを見かけたので、声を掛けようと思っただけです。お二人は教会の関係者でしょうか」
もしそうならば絵蓮のことで聞きたいことがある。未だに絵蓮とは連絡がつかないのだ。
「いえ、私たちはそのような者ではありません」
目の前の女性が言い、そして振り返って背後の女性を見た。
「市香。知り合いだって言ってるよ」
穏やかな雰囲気を湛えた女性が背後からひょっこり顔を出した。よく見ると二人は同じ服装をしている。どこかの店員さんだろうか。
「なんだ。楓月くんを狙っているわけではないのか。ごめんなさい。怪しんで」
市香という人が言った。
「危ないですよ。声を掛けるのなんて。私が教会の人だとしたら、どうしていたのですか」
「それなら大丈夫です。この人は合気道の心得があるので」
「心音と申します」
私の肩を叩いた人だ。もしあの時、この人の手を振り払っていたら、私は投げ飛ばされていたのだろうか。だけど、いくら格闘技の経験があるとは言え、迂闊な行動は取らない方が良い。どこに仲間が潜んでいるとも分からないのだ。
「楓月くんだったら、直ぐには出て来ないと思いますよ」
楓月が入っていったビルを見て、市香が言った。
「あそこが楓月さんの勤め先ですか」
一度だけ仕事で訪れたことがある。嫌な思い出しかない。
「勤め先というか。勤めていたと言った方が正しいかな」
ビルから出てきた社員たちが、こちらに向かって歩いてきた。由香里は顔を見られないように身を翻して顔を伏せた。
「あいつ辞めるみたいですよ」
社員たちの会話が耳に飛び込んできた。二度と関わりたくはない連中だ。
「別に良いんじゃね? あの程度で辞める奴なんかさ。どうせ長く続かないだろ。あいつは見込みがないしな。俺らがそれに気づかせてやったんだから、感謝して欲しいくらいだ」
「やっぱりそうですよね。僕もそう思います」
「だろ? 幾ら仕事ができて顧客に喜ばれたとしても、あれじゃあなあ。あいつ俺らの言うこと全然聞かねえもんな。目障りなだけやわ。使えねえ」
集団の後ろを歩き、媚びを売っているのは後輩だろうか。あの会社らしい。見事に主従関係が形成されている。
それにしても腹立たしい顧客だった。あの会社の社員の結婚式に関わったことは、忘れたい過去の一つになっている。お酒を飲んだことも手伝ったのだろうが、とにかく横柄な態度には辟易させられたものだ。胸のサイズを聞いてきたかと思えば、胸が小さいと言っては嘲笑し、女はダメだ。役に立たない。などと目の前で平然と言ってのける無神経極まりない連中だった。
社員たちが通り過ぎて行く。顔を見られたところで、私のことなんて気づきもしないだろう。あれだけ相手のことを軽視している連中だ。一々、中傷した相手のことを覚えているはずがない。
「使えねえ。とか何様のつもりなんだろうね」
市香は憮然とした顔つきで去って行く男たちを睨み付けた。しかし言葉とは裏腹に、人を惹きつける切れ長の目は威圧感を与えない。心根は優しい人だというのが伝わってくる。
「人を物か何かと思っているんですよ。あの人たち」
「ぶん投げてやりたい。アスファルトに」
「楓月くん、大丈夫かな」
市香がビルを見つめ、心配そうに呟いた。
「あの人たち、『あいつ辞めるらしい』って言ってましたけど、楓月さん退職するのですか」
「多分ね。この前会った時、退職するか悩んでいるみたいだったから」
だから張り詰めた顔をしていたのか。
「絶対辞めた方が良いですよ。あんな会社」
そう言って、由香里はビルを見上げた。