晴れやかな朝だ。いつもなら、また変わり映えのない一日が始まるのかと憂鬱な気分にさせられるが、今日は違った。不安な気持ちはあるが、それ以上に好奇心の方が勝っている。このような気持ちになったのは、いつ以来になるだろうか。
それにしても咲良は随分と活発だ。何がそこまで咲良を駆り立てているのだろう。
咲良と合流して列車に乗り込んだ。南に向けて列車が静かに動き出していく。祖母には昼頃に着くと伝えてある。
車窓から見える景色が少しずつ変わっていく。人工物が一つ一つと消えていき、やがて山や畑などの自然物だけになった。
「日田彦山線って、いつから動き始めたのでしょう」
何のことを言っているのか分からず、咲良を見た。僕の様子を見て、咲良が付け加えた。
「何年か前の大雨の後、しばらく電車が止まっていたと思うのですが」
九州豪雨のことを言っているようだ。直ぐに復旧したとばかり思っていたが。
「その頃、楓月さんのお婆ちゃんはどのように生活していたのかと思って」
声色から本当に心配していることが伝わってくる。今まで祖母の暮らしぶりを想像したことはなかった。せいぜい元気かどうかくらいなものだ。祖母と一緒に暮らしていた祖父は、とうの昔に亡くなっており、母と祖母は折り合いが悪く疎遠になっている。僕を含め、家族で祖母を気遣った人はいない。
列車が祖母の住む町へと近づいて行く。
駅舎は古びた木造建築ではなく、二階建ての鉄筋コンクリート造りだった。降車客の大半は迎えに来ていた車に乗り込むと、そのままどこかへと走り去って行った。僕らはバス停に向かう途中、駅前にある観光案内看板を眺めた。学校や病院、施設など生活に必要なものは一通り揃っている。これならば祖母は安全に生活することができているのではないだろうか。
バスに乗り込んだのは、僕と咲良の二人、そして一組の若いカップルだけだった。座席一つ分ほどもある大きなリュックサックを背負っている。画材道具でも、あれほどの荷物にはならない。きっと山登りでもしに来たのだろう。
四人を乗せたバスが山中に入って行く。九十九折りの坂道を上って十五分ほど進んだ先でバスは停車した。ここから先は徒歩だ。このような辺鄙な場所に祖母は一人で生活しているのか……。山奥というほどの奥地ではないが、少々不便に感じる。外灯は数える程しかなく、周囲は背丈の高い草木に囲まれている。日が暮れて薄暗くなれば、歩くことも躊躇わせる場所だ。祖母の年齢を考えるとバス停まで来るのも一苦労だろう。
「婆ちゃんの家はこの先です」
祖母の話では、坂の途中で右側に家が見えるとのことだった。二軒並んでいるうちの一番奥の家が祖母の家だ。同じバス停に降りた若いカップルは重い荷物を足元に置いて、バス停の前で立ち止まっている。雰囲気からして二人は教会とは無関係だろう。
坂道を上りながら右側を眺めた。敷地内の畑にいる人が祖母ではないか。祖母の家に向かって歩いて行くと、祖母が畑の作業で屈んでいた腰を伸ばして、こちらを見つめた。僕らに気づいたようだ。
「婆ちゃん、お久しぶりです。楓月です」
祖母の顔が見る間に綻んでいく。幼い頃に会って以来だ。
「大きゅうなったな。よう来てくれた。はよ中に入って。疲れたやろ。遠くまでありがとな」
祖母は間断なく喋りながら、僕らを玄関へ導いた。土間は広く、式台がない代わりに沓脱ぎ石が土間に置かれてある。宗一郎の屋敷の空気とは様相が異なり、ひんやりとした空気には土と草の匂いが含まれている。祖母が奥に向かって、すたすたと歩いて行った。思ったより元気そうだ。
居間に着いた咲良が徐にバッグから箱を取り出した。
「お世話になります。良かったらどうぞ」
「ありがとうねぇ。気を使わなくてもええのに。何泊でもしていってええよ」
居間で身体を休めていると、視線が気になって、ふと顔を上げた。咲良がこちらを見ていると思ったが、咲良の視線は僕の後方に向けられている。振り向くと、そこには縁側から顔を覗かせている柴犬の姿があった。
「あの子はアキムネっていうんだよ」
「人の名前みたいですね」
咲良が微笑んで言った。
「前はシロって呼んでたんだけど、変だろ? 茶色なのに爺ちゃんが『犬はシロでええ』と言って聞かなんだ。だから爺ちゃんが死んだ時に名前を変えてやった」
「どうしてアキムネなんですか」
祖母は「爺ちゃんの名前だよ」と言って笑った。
祖父は厳格な人だったと聞いている。亡くなってから飼っていた犬の名前になるなんて、思いもしなかっただろう。
「触ってもいいですか」
言うより先に、咲良はアキムネに近づいて頭を撫でた。
「この子は賢いんだ。散歩はしなくてもええしな。勝手に行って勝手に帰って来よる」
祖母はアキムネの背中をさすって、そのまま縁側から庭へ降りて畑に向かった。祖母には聞きたいことが山ほどある。だけど、まだ来たばかりだ。後にしよう。
縁側に腰かけて、咲良とボール遊びをするアキムネを眺めた。アキムネは咲良の下に駆け寄り、ボールを投げてくれと尻尾を振って催促している。何度繰り返しても飽きないみたいで、咲良が投げたボールをキャッチしては、咲良の下に何度も駆け寄ってきた。楽しければ、ずっと続けていられるのは人も犬も変わらない。
アキムネからボールを受け取った咲良が、ボールをこちらに投げてよこした。そして「手伝ってきます」と言って、祖母がいる場所へと向かった。アキムネは遊んで欲しそうに、こちらをずっと見つめている。しかし、あれを永遠にやらされては堪らない。アキムネの頭を撫でてボールを片付けた。
包丁でまな板を叩く音に混ざって、二人の談笑する声が聞こえてきた。何もすることがないのでアキムネと一緒に台所へ行き、後ろから二人を眺めた。まるで本当の家族のようだ。二人の邪魔をしてはいけない気がして、その場に立ち尽くした。アキムネは構って欲しくて仕方がないらしく、料理をする二人の間をせせこましく動き回っている。
僕の存在に気づいた祖母が振り向いて言った。
「カヅくん、アキムネを散歩に連れてってくれんかね」
散歩の声に反応したのか、アキムネは僕の前に来て「よろしくお願いします」といった顔をして、ちょこんと座った。大人しいが、尻尾だけは盛んに動かしている。
「それじゃあ行ってきます。アキムネ行こう」
リードを持たずにする犬の散歩は初めてだ。アキムネが急に走ってどこかへ行ってしまわないかと冷や冷やさせられる。左右に揺れるアキムネのお尻を眺めながら畦道を歩いて行く。長閑な田園風景だ。
何か聴こえるのか、アキムネが耳をそば立てている。アキムネの様子を伺っていると、突然、アキムネが駆けて行った。急いで後を追いかけていく。しかし犬の脚力には到底敵わない。見る見るうちに差が広がって行った。突き当りの坂道に辿り着いた頃には、アキムネの姿はどこにも見えなくなっていた。
夕暮れ時で樹々の葉影もあり、辺りはすっかり暗くなっている。特に坂の下側は来た時とは様子が一変しており、数メートル先までしか見通すことができない。身体の向きを変えて、坂道を上って行こうとした時、アキムネが民家の裏側から飛び出してくるのが見えた。何か咥えている。アキムネはそのままの勢いで祖母の家に向かって行った。
家に戻ると、咲良が炊事場から出てくるところだった。
「どこから持ってきたんやろね。咲良さん、申し訳ないけど、これもついでに持って行ってくれんかね。たぶん隣のものや」
そう言って祖母は咲良に手渡した。子どもが遊びで使うような小さな長方形の箱だ。アキムネは得意満面な顔をしている。
「今日は四人いるはずや。これくらい持ってけば十分やろ」
咲良と一緒に作った料理のお裾分けだ。咲良は祖母から受け取ると、「行ってきます」と言って隣家へ向かった。
灰色の雲が山全体を覆い尽くしている。もうじき雨が降りそうだ。
咲良が出かけている間、祖母と一緒に料理を食卓に並べた。料理は山菜や魚、高野豆腐、野菜類で占められている。母が作る料理とは似ても似つかない。料理の心得がなくても、手間暇が掛かっていることが分かる。僕らが来る前から仕込んでいたのだろう。
咲良が戻って来た。
「お婆ちゃんの言う通り、隣の人の物でした」
「アキムネは悪さばかりしよるけ」
祖母は縁側で横になっているアキムネを見て言った。
ゆったりとした時間の中で過ごす食事が、これほどまでに美味しいものだとは思わなかった。テレビを見ずに誰かと向き合って、そして静かに食事をする。昔は、これが当たり前だった。この数十年の間に失われたものは多い。きっと豊かさが失われたのだ。
夜になって、雨が降り出した。雨粒が土に当たって、弾けるように飛散する。アスファルトを叩く無機質な雨音とは異なり、自然の奏でる音は心の奥底にまで染み渡ってくる。僕らが住む街に降り注ぐ雨は恵みの雨にはならない。透明な雨は地表に叩きつけられた瞬間に黒へと染まり、ドロドロとした液体に変化する。それでも街が綺麗になったという実感はなく、汚れきった街をまざまざと再認識させられるだけだ。とても心が洗われた気にはなれない。
しばらく庭先に降りしきる雨音を、時間を忘れて聴き入った。
祖母が居間に和菓子と緑茶を運んできた。咲良がお土産として買ったバナナ風味の羊羹が食卓に並べられていく。
「婆ちゃん、襖絵って、どこにあるの?」
「二階の部屋にあるよ。いつでも見に行ったらええ」
祖母は一風変わった羊羹を、ゆっくり味わいながら答えた。襖絵とは図書館で確認した長谷川等伯の絵のことだ。
雨が勢いを増していく。時折、遠くで雷鳴が轟いた。
「婆ちゃん。何年か前の大雨の時だけど、どうしてたの? 電車止まってたって聞いたけど」
北部九州を襲った豪雨は広範囲に被害をもたらした。その頃から婆ちゃんは一人暮らしをしている。
「電車はもうそんなに乗んねぇから大丈夫やったけど、畑はめちゃめちゃにされたな」
「じゃあ食べるものなかったんじゃ……」
「ねぇよ。だけど皆が助けてくれたから、何も困らんかった」
「隣の人たち、すごく親切でしたよ。あの人たちなら色々してくれると思います」
「いつも何か困ったことがないか聞きに来てくれるんよ。アキムネが物を持って来たくらいでは怒んねぇ」
祖母は目尻を下げて笑った。連絡してくれたら良かったのにと言い掛けたが、本心ではないことに気づいて口を閉ざした。祖母と母は疎遠であり、僕と祖母とは年に一度だけ年賀状を送り合っているだけの仲だ。祖母は頼りたくても頼ることなどできなかったはずだ。
翌朝、目を覚ますと、あれだけ降り続いていた雨はすっかり止んでいた。暖かな光が雨に濡れた樹々を照らし、瑞々しく輝かせている。庭先から咲良とアキムネの声が聞こえた。まだ六時を回ったばかりだというのに、田舎の朝は早い。
「おはようございます。今からアキムネと散歩に行くのですが、楓月さんもどうですか」
もう少し横になっていたいと思ったが、このような場所でダラダラと過ごすのは勿体ない気がして、咲良の誘いに乗ることにした。咲良がアキムネを抱きかかえて、泥濘を避けながら慎重に歩いていく。もはや、これでは散歩とは言えない。
畦道を抜けて坂道の舗装路まで来て、ようやく咲良はアキムネを地面に降ろした。
「上に行きましょう」
咲良を坂の上に誘った。昨日、アキムネが飛び出してきた民家が右手に見える。裏庭で何か台のような物に乗って遊んでいる人たちがいるが、あれは同じバスに乗って来た人たちではないか。
「たまに帰って来ているそうです」
昨日、お裾分けに行った時に会ったのだろう。
坂道を上りきった先に開けた土地があった。所々に生活感が残されており、かつて、この地に誰かが住んでいたことを伺わせる。この場所で人知れず様々な物語が綴られていたのか。それを想像すると感慨深いものがある。
遠くに街並みが見える。山間部にある僅かな平地に集落が形成されており、その集落を靄が包み込んでいる。僕らは何も語らず、アキムネと一緒に目の前の光景に魅入った。慌ただしかった日々が、まるで嘘のようだ。
祖母の家へ戻って、僕は縁側に、そして咲良は庭先にある大木の枝に腰かけた。木は枯れているように見えるが、所々芽が出ている。枝は太く安定しており、簡単には折れそうにない。アキムネが咲良の靴を奪い取ろうとしている。
「何かドキドキしませんか」
咲良がアキムネを足で牽制しながら言った。直ぐに襖絵のことを言っているのだと分かった。長谷川等伯の襖絵は日が落ちかけてから見るのが一番だ。もうじき日が暮れる。
「あっ、取られた」
咲良が足をバタバタと動かした。アキムネが咲良の靴を咥えて庭の端へ走っていく。ご満悦の表情だ。
日が落ち始めたというのに、鼓動は一定の間隔を静かに打ち続けたままだった。咲良のように気持ちが高揚することはない。平坦な感情のまま推移している。
夕食を摂り、縁側で涼んだ後、僕らは二階へ向かった。
障子を開けて中へ入り、そして音を立てないようにそっと障子を閉めた。部屋は暗く、微かな光が障子を通って中へ入り込んでくるだけだ。僕らは部屋の中央に座って、等伯の襖絵と向き合った。焦点が少しずつ合っていく。図書館で見た時の絵と瓜二つのものが目の前にある。手を木に絡めた手長猿が、もう片方の手で池に映る満月を掴み取ろうとしている構図だ。下地に薄墨が塗られてある為、襖絵は仄かに暗い。その中で唯一つ、ぼんやりと満月だけが浮かび上がっている。水面に映る満月を掴もうとしている愚かな手長猿。幼い頃に見た襖絵は一風変わった絵という印象でしかなかったが、今は心に重く圧し掛かる。
「咲良さん。そろそろ灯りを点けても良いですか」
「ちょっと待ってください」
咲良がそっと涙を拭っているのが見えた。
咲良は周囲の人たちに認められたいと切望している。だけど僕にはその気持ちが分からない。きっと幼い頃から母に摘み取られてきたからだ。誰かに認められたいという気持ちがどうしても湧き起こってこない。
咲良は認められたその先に一体、何を見出しているのだろう。
一階に降りていくと、居間で祖母が寛いでいた。
「カヅくん、久々に見た襖絵はどうやったか」
「どうして父さんが、あの襖絵のことが好きだったのか、何となくだけど分かった気がする」
父は僕と同じ悩みを抱えていたのだと思う。
「父さんが描いた絵って、どこにあるんだろ」
「誰かが持っとるよ。心配せんでええ。遺作でもあるんやから」
婆ちゃんが微笑みながら言った。
居間で横たわっていると、祖母が「暇やろ。ちょっと待っとれ」と言って、部屋を出て行った。奥の方でカタカタと音を鳴らしている。
「これでも見るか」
そう言って祖母は目の前にアルバムを置き、ページを開いた。
「慎一郎に美佐枝。この頃は仲良かったな」
祖母は沈痛な面持ちで言った。大切な息子に先立たれたことは、この上なく悲しい出来事だったに違いない。しかも同じ日に孫の一葉も亡くしている。
ページを捲っていくと、一枚の写真に目が止まった。
母が赤ちゃんを大切そうに抱えている。誕生日が書いてある。この赤ちゃんは僕だ。
僕は望まれずに生まれてきた子どもではなかったのか……。
「カヅくんは寝たようだね」
縁側に祖母と咲良が腰かけ、その傍らでアキムネが気持ちよさそうにすやすやと寝息を立てている。
「気にしとるんか。あのこと。誰も悪いとは思っとらんよ。一葉が亡くなったのは悲しいことやけど、仕方がなかったんや。なんせ一葉は遠くにまで流されていたんやからな。近くにいた咲良さんを先に助けたのは当然のことや」
「一葉ちゃんが沖に流された時、私が直ぐに助けを呼べば一葉ちゃんは助かっていたと思います。そうすれば誰も傷つくことはなかった。きっと今も楓月さんたちは今も楽しく暮らしているはずなんです」
「いや、それは違う。あれは単なる事故や。気にせんでええ。その後の人生のことは、本人たちの問題でもある。カヅ君のお母さんは未だに自分の中で消化することができずにいるんやろうな。人を憎むことでしか解決できんみたいやけど、憎むということは、その場に留まることでもあるんや。それがあの子には分かっとらん」
声に反応したアキムネが目を覚まし、そっと咲良に寄り添った。
「あの木はな、私と爺さんの二人で育てたんや。爺ちゃんがハルの木って名付けちょった。ハルは私の名前や」
祖母が庭先の木を眺めた。
「生きていたら大変なことって沢山あるやろ。だけどな、木が見守ってくれていると思ったら、心配事なんて不思議とどこか遠くへ吹き飛ぶもんや。そんな木やったな。もう枯れてしまったけど」
咲良はアキムネを撫でながら、庭先の木に目を遣った。
「木が枯れた時は、とても悲しかったけど、今では枯れて良かったと思っとるんよ。きっと神様が過去にしがみつかないように、木を枯らしてくれたんやと思う。だから咲良さんも、過去のことは忘れたらええ。不幸なことも決して悪いことばかりやないよ。受け止め方次第でどうにでもなるもんや」
どうしたら祖母のように強くなれるのか。
「あの木は直ぐには枯れんかった。台風で幹が割れた時は、もうダメかと思ったけど、丈夫なもんでな。次の年も葉を真っ赤に染めてるんやから。お爺さんも泣いとったよ。あんなに木が頑張っとるのに、わしらがしょげていても仕方がないって」
受け止め方次第か……。だけど影はどこまでも付き纏ってくる。どうやって振り払えば良いのか。
寝息が聞こえる。二人とも眠りについたようだ。ハルの木か……。僕の名前の由来となった楓の木だ。
雲の隙間から姿を現わした月が辺りを淡く照らしている。幻想的な光景の中、祖母と咲良の会話を思い出した。
当時のことはあまり覚えていない。覚えているのは一葉が亡くなって、父や母がふさぎ込んだことくらいだ。一葉が亡くなって以降、二人の関係は壊れ、やがて父は体調を崩して亡くなった。あの日、母に止められなければ、僕も海水浴に行く予定だった。危ないからと母が止めたのだ。もし仮に僕が海水浴に行っていたとしたら、今、悩み苦しんでいるのは咲良ではなく、僕だったのかもしれない。人生はどう転ぶか分からないものだ。
樹々の騒めきや虫の音色が緩やかな風と共に耳元に運ばれてくる。僕もそろそろ眠りにつくことにしよう。
起床して、昼食後に帰宅することを祖母に告げた。祖母は寂しそうな表情を垣間見せたが、直ぐに元の優しい笑顔に戻した。僕らの歩みを止めないように、祖母は明るく振る舞ってくれる。
真田の奥さんから連絡があったらしく、咲良が「真田さんは屋久島に出かけている」と言った。小動物や昆虫の生態を観察するのが趣味らしい。三週間もすれば帰ってくるとのことだ。
「あんたはよう父親に似とるねぇ」
昼食を摂っている時に祖母が言った。何度も母に聞かされた言葉だ。だけど祖母の言葉は母のそれとは違っており、祖母の言葉には悪意がない。祖母からは相手を労わる温かい心が伝わってくる。
「美佐枝のことは気にするでないよ。いくら外から言っても本人が変わろうとしない限り、人というのは決して変わらないものやからな」
祖母に別れを告げて家を出た。祖母の姿が小さくなるに連れて、また祖母を一人にしてしまうといった後ろめたい気持ちが湧き起こり、何度も足を止めそうになった。その度に後ろを振り返っては大きく手を振る。落ち着いたら、また祖母に会いに来よう。たとえ祖母と母との関係が歪だったとしても、それは二人の問題だ。僕がそれに倣う必要はない。
地元に着いて「それでは、また」と言って咲良と別れた。
明日は僕にとって人生の転換期になる。もうあの行列に加わるつもりはない。