屋敷を出て、僕と咲良は強い日差しを避けて日陰に入った。
「母に連絡してみます」
「真田さんの件ですか?」
「はい。早い方が良いかと思ったので」
絵の行方を追っているのは、おそらく教会だ。もし仮に教会に先を越されたら奪い返すのは困難になる。それに父の絵が商用利用されるなんて堪えられないことだ。みすみす奴らの手に渡す必要はない。
咲良は手早くメールを送信して、僕の隣に並んだ。
「母は仕事で忙しいので、また手が空いた時間にでも連絡してくると思います」
そのまま二人で高台へ向かった。海を近くから眺めたいと思ったが、海に面したベンチは既に埋まっている。仕方なく僕らは海から離れたベンチに腰かけることにした。
「咲良さんは、どうして景色を見たいと思ったのですか」
話しづらいのか、咲良が目を伏せた。二人の間に沈黙が流れる。
「私、ここに来るまで、ずっとピアノを弾いていたんです」
ぽつりと咲良が呟いた。ピアノか。たしか一葉も弾いていた。
「まだ賞を貰えているうちは良かったのですが、賞を貰えなくなった途端に周りにいた人たちが離れて行って……。きっと私のことを見限ったのだと思います」
僕は賞とは無縁の生活を送ってきた。母からは『どうせ失敗するに決まっている』『無駄なことはするな』と言われて育てられてきたのだ。行動に移そうとした時は必ず悪意を含んだ言葉を投げつけられ、強制的に止められた。そのような僕が咲良の気持ちを汲み取ることができるとは思えない。
「私はただ純粋にピアノが弾きたかっただけなんです。だけど、それは甘い考え方でした。母も言っていましたが、やはり結果を出さないとダメですね。だから私、景色を見ようと思ったんです。また認められる人間になれるかもしれないから」
上空で弧を描いていた一羽の鳶が海へ向かった。鳶は海上に差し掛かると、そこから一気に急降下して行った。
「あっ、海へ落ちる」
咲良が心配そうに言った。
「まさか。魚を捕りに行っただけですよ。ほら」
上昇気流に乗って、鳶が舞い上がってきた。鳶は上空を旋回しながら獲物を見定めては、何度も下へ向かって行く。失敗しても気にも留めない。
僕らは視線を上げて前方を注視した。恋人たちが、ゆったりとした時間を過ごす中、慌ただしく動き廻っている女性がいる。逃げ出したペットでも探しているのだろうか。しきりに高台から下を覗き込んでいる。
その女性は下方に目的とするものを見つけられなかったのか、今度はくるりと身体を反転させた。しばらく周囲を見回した後、動きを止めて一点を見つめる。視線の先にいるのは僕と咲良だ。
「あの人、咲良さんの知り合いですか。こっちを見ているようですが」
「いいえ。知らない人です」
女性がこちらに向かってきた。教会の人だろうかと一瞬、身構えたが、まだ日中だ。それに周囲には多くの人がいる。この状況で若い女性が一人で何か仕掛けて来るとは思えない。
女性が僕に話しかけて来た。
「良かった。間に合ったみたいで」
女性が安堵した表情を浮かべた。咲良は身体を後方に引いて、女性の様子を伺っている。警戒しているようだ。
「坂道のところで自転車で転倒した方ですよね」
どうして、そのことを知っているのだろう。遠くで眺めていた野次馬の一人だろうか。
「転倒した時に駆け付けた人がいたと思いますが、私はその人の姉です。由香里と言います」
僕が痛みに悶え苦しんでいた時に駆け付けて来た人……。特徴的な名前だったから覚えている。外国人のような名前をしていた。
「絵蓮さんの姉ですか」
「はい、そうです。その絵蓮のことですが、あの子には気を付けて欲しいんです。絵蓮は何か企んでいます」
「あの……ここに座りませんか」
込み入った話になりそうな雰囲気を察した咲良が、由香里と名乗る女性にベンチに腰掛けるよう促した。僕を中心にして、両サイドに咲良と由香里が座った。
「あの日、私は絵蓮の店から一部始終を見ていたんです。絵蓮は不自然なほど外を気にしていて、二階の窓から何度も外の様子を伺っていました。事故が起きた時も予め事故が起きることを知っていたかのようでした」
記憶がフラッシュバックする。坂道を下っていた時、突如として眼前に車が現れたのだ。
「事故が起きる前、絵蓮が手を振っていたと思います」
僕に危険を知らせようと、必死に手を振っていた。
「あれは注意を自分に引き付けて、楓月さんが車に気づくのを遅らせようとしたのだと思います」
由香里の言葉に声を失った。作戦会議の時、事故は意図的に行なわれたのだと示唆されたが、まさか絵蓮が絡んでいたなんて……。
「絵蓮に絵のことを聞かれませんでしたか?」
由香里の言う通り、絵蓮とは絵について会話を交わしている。当時は、僕の画材道具を目にした絵蓮が、会話を繋ぐために話題を振ってきたとばかり思っていたが……。思えばあの時、絵蓮は僕の怪我のことは気にも留めず、どこに絵があるのか、どのような絵なのかをしきりに聞いてきた。
「その絵蓮がどこかに消えたんです」
由香里が真剣な目をして言った。この人の目的は何なのか。姉として、妹の絵蓮の暴走を止めようとしているのか。それとも絵蓮を牽制しつつ、先に絵を手に入れようとしているのか。いずれにしても素性のしれない人だ。姉というのも本当か分からない。
「由香里さんも教会の人なのですか」
咲良が聞いた。
「いいえ。私は違います。信者ではありません」
きっぱりと由香里は否定した。この発言だけで信じるわけにはいかない。だけど信者だとしたら演技が上手すぎる。
「教会って何をしている団体なのですか。私、一度、教会に行ったことがあるのですが、よく分からなくて……」
そう言えば、作戦会議の時、咲良は母に言われて教会に足を運んだと言っていた。どうして咲良の母は教会に絵があると思ったのだろうか。
「簡潔に説明すると、スピリチュアルに傾倒するような流されやすい人たちから、お金や時間を搾取する団体です。そのように表現するのが適切ではないかと思います。とにかく注意して下さい。絵蓮の目的は楓月さんから絵を奪い取ることですから」
「それですけど、僕は絵なんて持ってませんよ。どこにあるのかも知りませんし」
「だけど絵蓮は、まだ疑っていると思います。絵蓮は自分の目で確認しない限り信じないので」
あの日、絵蓮には正直に知らないと答えたつもりだったが、猜疑心を強めただけだったようだ。
「私、絵蓮を止めたいんです。これ以上、罪を重ねて、絵蓮が堕ちて行くところなんて見たくはありませんから」
そう言って、由香里はカバンから名刺を取り出した。
「私、まだ仕事中なので、そろそろ帰ります。何かあったら、こちらに連絡を下さい」
そう言い残して足早に去って行った。
名刺にはウエディングプランナーと記述してある。気になったのは、その下に書いてある文字だ。
「大丈夫ですかね。女優って書いてあるけど。さっきのは演技だったのかも……」
咲良も名刺に目を通した。
「歌手とも書いてありますね」
由香里は『妹の絵蓮に気を付けて欲しい』それだけを伝えに来た。由香里が話した内容は、僕らが知っている情報と照らし合わせても辻褄が合うものだった。本当に絵蓮の暴走を止めようとしているだけなのかもしれない。
「咲良さん、場所を移しませんか」
由香里がこの場所で僕を探していたということは、僕が桟橋で絵を描いていることを信者たちにも知られているということだ。僕を背後から見ていた中年の女性の件もある。ここは場所を変えた方が賢明だ。
歩いている途中、咲良が携帯を確認した。
「母からメールが届いています。ですが、真田さんの連絡先は知らないようです。友達に聞いてみるそうですが」
卒業して二十年は経っている。幾ら友人とは言え、連絡先が分からなくなってもおかしくはない。
「あと絵のことも書いてあります。母は『絵には大きな岩と鷹が描かれていた』と誰かに聞いたことがあるそうです」
大きな岩と鷹か……。探す手掛かりになりそうだ。
「僕も祖母に連絡してみます」
年賀状や手紙の内容から、祖母が元気に暮らしていることは知っている。だけど年齢が年齢だ。突然、体調を崩すことだって考えられる。今も元気に過ごしていたら良いが。
耳元でコール音が鳴り響く。外出中なのか、祖母は中々電話に出てこない。
小さな公園を見つけて咲良と中へ入った。木陰にあるベンチに腰掛けた時、ようやく祖母が電話に出た。
「婆ちゃん。楓月です」
直接話をするのは何年振りだろうか。どのような反応が返ってくるのか、不安な気持ちが込み上げてくる。
「カヅくんか?」
久しぶりに聞く祖母の声だ。声を聞く限り元気そうだ。
「うん。婆ちゃん、元気?」
「久しぶりだねぇ。身体はあちこち痛いけど、まだ歩けるよ。カヅくんは元気か?」
「こっちはまあまあかな。あのさ、今日、聞きたいことがあって電話を掛けたんだけど」
咲良が立ち上がって離れて行った。会話を聞いてはいけないと思ったのだろう。
「お父さんの絵のことなんだけど、お父さんって絵を描いてたの?」
「どうした? 急に」
「お父さんのことが知りたくなってさ。お母さん、何にも教えてくれなくて。お父さんがどこかの景色を見た後、絵を描いたらしいんだけど、その絵のことも知りたいんだ」
「景色も絵も知らんよ。だけど、よくどこかの島には行っちょった。遠くには行っとらんのやないかね。近場やと思うよ。まだ子どもが小さいのに、そんな遠くには行かんやろ」
「近場って?」
「大分方面にはあまり出掛けてはおらんかったから、福岡やと思うよ。どうね。一度、家にこんね。慎一郎のことが知りたいんやったら、家に来たらええ」
行けば色んなことが分かるはずだ。良い機会だ。行ってみよう。真田の連絡先が分かるまで待っていられない。
「うん、そうする。近々、婆ちゃんち、行くね」
「来てくれるんか。ありがとう」
祖母は嬉しそうに応えた。このようなことなら、今までも祖母に会いに行っておけば良かったと後悔する。母と祖母の関係を考えると、とても会いに行く気にはなれなかった。僕のことを疎ましく思っているのではないかと、つい余計なことを考えてしまったからだ。
電話を切って、咲良を見た。少し離れたところで咲良が木陰で涼んでいる。僕の視線に気づいた咲良がこちらにやってきた。
「婆ちゃんは景色のことも絵のことも知らないそうです。だけど一歩、前進したかもしれません。咲良さん、この後、予定ありますか」
咲良は「ううん」と首を小さく横に振った。
「じゃあ、今から図書館に行きませんか。婆ちゃんが『よくどこかの島に行っていた』『近場じゃないか』と言っていたので、どこの島なのか調べたくなって。他にも調べたいことがあるし」
図書館は歩いて行ける距離にある。僕らは樹々が青々と覆い茂る中を歩いて行った。
図書館に着くと、直ぐに本棚に向かった。僕らは本を何冊か手に持ち、人がいない場所を選んで座った。ここならば小声で話せば周りの迷惑にならずに済む。
「それって長谷川等伯ですか? わたし京都に行った時に何度か見たことがあります」
「祖母の家にある襖絵に描かれていたのを思い出して、調べてみたくなったんです」
「どの絵ですか?」
「小さい頃に見たので記憶が曖昧ですけど、多分、この手長猿の絵ではないかと」
そう言って、咲良に等伯の画集を手渡した。
「これですか? 『えんこうそくげつず』と書いてありますね」
そこには池に映し出された満月を掴み取ろうと、懸命に手を伸ばしている手長猿の姿があった。墨一色で描かれた素朴な絵だ。
「可愛いですね。月がお饅頭に見えたのかも」
等伯の画集を閉じると、今度はガイドブックを開いた。恋人や家族が手にする観光目的の本だ。父は船舶免許を持っていたとはいえ、よほどの理由がない限り、ルートが確立されていない島には行かないのではないか。観光地に絞って良いはずだ。
「楓月さん、どの辺りですか」
「当時、父が行った可能性があるとしたら、この辺りではないかと」
指先で、海岸沿いに浮かぶ島々を囲った。
「ここはどうでしょうか?」
咲良が能古島、志賀島を指さした。
「志賀島は陸で繋がっているし、行きやすそうですね。どちらも可能性としては有りだと思います」
「きっと糸島は違いますよね。島じゃないから。藍島、大島、角島……」
咲良が島を一つ一つ、呼称していった。藍島は、今でこそ猫がいる島として有名だが、当時は観光地と呼べるほど有名な所ではなかった。はたして当時、この島に父は行こうと思っただろうか。大島は島にしては広大な土地だ。もし夕日を見た場所が大島なら、場所の特定には時間が掛かる。大島ではないことを祈りたい。角島は比較的小さな島だ。父が生きていた当時から人気がある。
「角島は私の好きな場所です」
「僕もです。島に架かる橋が綺麗なんですよね」
ページを捲ると、見開きで掲載された大きな写真が現れた。他の島とは似ても似つかない神々しい島だ。
「神宿る島ですね」
咲良が言った。さすがに、この島ではないだろう。足を踏み入れてはいけない神聖な島だ。
閉店の時間が近づき、館内のざわめきが小さくなっていった。
「咲良さん、そろそろ出ましょう」
図書館を出て、少し離れた位置まで歩いてから、ゆっくりと振り返った。樹々に覆われた図書館はコンクリート造りだというのに無機質な印象を与えない。屋根はグリーン一色に統一されており、周囲の風景に溶け込むように工夫されている。
咲良と別れた後、バスに乗って帰った。あの事故の後だ。怖くて自転車に乗る気にはなれない。
自宅に着き、玄関の鍵穴に鍵を挿し込んだ。
―─あれっ、玄関が開いている……
玄関脇に母の自転車はない。母はどこかに出かけている。出かける時に施錠するのを忘れたのだろうか。
恐る恐る玄関のドアを開けて中の様子を伺った。特に変わった様子はない。浴室やトイレなど、潜むことが可能な場所を一通り調べたが、誰の姿も見当たらなかった。しかし何かがおかしい。この違和感はどこから来るのか……。
部屋の中央に立って周囲を眺めた。壁に立てかけてあったはずのキャンバスが倒れている。他の画材道具の位置も僅かにずれているように感じる。誰か入って来たのではないか。教会の存在を知って以降、帰宅する時には常に後ろを警戒してきたつもりだ。自宅を知られているとは思えないが……。
落ち着きのない足取りで洗面台へ行き、顔に冷水を浴びせた。少し冷静にならなければ。僕が居ない間に母が部屋を物色しただけかもしれない。
絵蓮の話しぶりからは、絵の存在は知っていても、何が描かれているかまでは知らないようだった。誰かが入って来たのならば、手当たり次第に絵を持って行くのではないか。僕が描いた絵は残されたままにしてある。
咲良は大丈夫だろうか。咲良は一緒に絵を探しているだけだ。狙われることはないと思うが……。携帯を手に取った。
「咲良さん。そちらは何も起きていませんか」
「はい、大丈夫ですが、何かあったのですか」
「いえ、誰かが家に来たような気がしただけです。きっと気のせいです」
色々あったことで、疲れているのだろう。
「咲良さん、祖母の家のことですが、いつ行けそうですか」
「私も付いて行っても良いのですか」
祖母の家は広々とした一軒家だ。一人増えたくらいでは何の問題もない。
「もちろんですよ。僕は咲良さんも来るものとばかり思っていました」
「私なら、いつでも大丈夫です。仕事はまだ先の話なので」
「それでは、月曜日で調整しておきます」
教会の人たちも探している。できるだけ行動は早い方が良い。