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過去のトラウマ

 玄関先にある母の自転車が見当たらない。外出しているようだ。

 玄関の扉を開けた。重苦しい雰囲気が立ち込めている。中は暗澹としており、肌にまとわりつく湿気がより一層と不快感を齎してくれる。この家に毎日帰って来ているのだ。心が疲弊しないわけがない。足の踏み場がないほど乱雑とした廊下を歩いて、ダイニングへ向かった。この部屋で物心ついた頃から、たった一人で食事をしている。

 母は夜働き、朝方に就寝する。昼まで起きてくることはない。その為、朝は母を起こさないように、テーブルに置かれた食パンを頬張り、そのまま学校や会社へ向かう日々を送った。母が購入する物は安いものと決まっていて、健康に配慮した物が用意されてあることはない。薄暗い部屋で目の前に出された餌にありつくだけの生活……。ブロイラーの鶏とそう変わらない。

 母が帰って来るまで、絵を探してみよう。

 母の部屋に移動し、押し入れを物色した。しかし、それらしきものは見つからなかった。今まで一度も見ていないのだ。見つかるわけがない。

 クローゼットの中は男性用の服で埋め尽くされている。この場所に長年、放置されている父の服だ。母から何度か、これらの服を着ろと言われたことがあったが、趣味が合わないので断った。まだ捨てていなかったのか。捨てるのすら面倒なのかもしれない。

 それにしても、どうして父は母なんかと結婚したのだろうか。幼い頃の断片的な記憶を繋ぎ合わせてみても、二人の仲睦まじい姿を思い出すことができない。咲良が持っていた集合写真すら疑いたくなるほどだ。

 玄関先で甲高いブレーキ音が聞こえた。母が買い物から帰ってきたようだ。大きな音を立てないと気が済まないのか。一挙手一投足全てが不快に思える。

 ダイニングに戻り、椅子に座っていると母が入って来た。しかし、こちらを一瞥することもなく、買ってきたものを無造作に冷蔵庫に詰め込み始めた。この場所から今すぐにでも逃げ出したいという衝動に駆られる。話を手短に済ませて、自分の部屋に引き籠ろう。

「あのさ、父さんが見た景色のことが知りたいんだけど」

 母は一瞬、意識をこちらに向けたが、聞こえない振りをした。

「景色が分からないなら、父さんが描いた絵でも良いけど」

母は何故そのことを知っているのかとでも言いたげな怪訝な表情を浮かべている。

「ねぇ、聞いてんの」

 無反応な母にイラつく。

「そんなことを知って、どうするの」

 怒気を孕んだ声に身体が本能的に硬直した。母の目に怒りの感情が宿っているのが見て取れる。

「別にどうもしないけど。ただ知りたいだけ」

「どこにあるかなんて、私が知るわけないでしょ!」

 母は、そう言って蔑んだ目をこちらに向けた。そしてこの場所に最初から誰も存在しなかったかのように、僕の傍らを通り過ぎて行った。この扱いには慣れている。母にとって僕は存在しないのと同じだ。

 自室に戻ると、疲れが一気に押し寄せた。僕は母のことを心のどこかで恐れている。この恐怖心はどこから来るのか。

 今まで母に繰り返し聞かされた悪意の言葉の数々が頭の中を木霊する。幼い頃は布団の中に潜り込んで、それらの言葉が消えていくのを待ち続けた。秒針を刻む音が次第に大きくなり、柱の木目が渦を巻き始める。頭がおかしくなるのを必死で堪えた。

 あの頃は感情を表出することすら許されなかった。母の神経に障ってしまえば、何をされるか分かったものではない。人形のように黙っているのが一番なのだと、幼い頃の僕は学習した。我慢さえしていれば、被害を最小限に食い止めることができる。

 狭い部屋で、何もない空間をただ見つめる日々……。テレビをつけても、画面に映る映像を無表情に眺めるだけ。テレビから聞こえてくる誰かの笑い声は、僕を嘲笑う声へと変換された。それでもテレビを見続けるしかなかった。身体の内側から聞こえてくる声を掻き消すために……。それが、もっとも聞きたくない声だった。

 ベッドに腰掛けて、息を深く吸い込んだ。僕には支えとなる土台がない。些細なことで崩れ落ちてしまいそうになる。これから先、僕はどのように生きて行けば良いのか。復職すれば、また上に立つ者を満足させるだけの無意味な日々を送ることになる。

 あの歪な環境でも同僚たちは一点の疑問も抱かずに働き続けている。次々に不必要なルールを作り出しては自らを拘束し、身動きが取れなくなった自分の姿を見て喜んでいる。彼らは有りとあらゆることに対して思考を働かせていない。あれは一体、何なんだろう。

「例え、それがどんなに間違っていたとしても、黙って従うのが立派な社会人だ」

 この言葉を恥ずかしげもなく吐き捨てる者がいた。盲目的に従うことが彼らにとっては美徳なのだ。「個を捨てて集団に倣え」「上からの命令は絶対だ」「余計なことを考えるな」「管理されたくないとか、甘ったれたことを言っているんじゃない」

今だと分かる。僕の心が壊れたのは、誰かに辛辣な言葉を投げかけられたからではない。自分が無くなっていく、その感覚が僕を壊したのだ。

 横になり、浅い眠りについていた時に着信音が鳴った。咲良からだ。

「こんばんは。今、お時間大丈夫ですか?」

「咲良さん、景色のことですが、やっぱり母は何も答えてはくれませんでした。昔から何も話したがらない人なので……。お役に立てなくて、すみません」

「楓月さん、何だか元気がないようですけど、大丈夫ですか」

「母と話すと,いつもこうなるんです。気にしないで下さい」

 あの人と関わるのは、もう止めにしよう。

「あれから、色々と分かったことがあって、今度、みんなと作戦会議を開くことになりました。来週の日曜日ですが、楓月さん、予定は空いてますか」

 作戦会議とは、また大袈裟な……。

「いつでも良いですよ。何か分かったのですか」 

「いえ、朧気ながら見えてきたことがあるだけです。作戦会議を開く場所は美由紀さんの実家になります。三清楼という屋敷の隣にあるそうです。そこに午前十時集合でお願いします」

そう言って咲良は電話を切った。三清楼か、この辺りでは有名な料亭だ。

 僕の周辺が慌ただしく動き始めている。今までは何かをしなければと思い立っても、直ぐにそれを打ち消す言葉が頭によぎってしまい、行動に移すことができなかった。今のように動かざるを得ない状況を作られた方が助かる。


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