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白ふくろうのチャーム

 港町には個性的な人が集まって来る。それぞれが思い思いに動き、他人の視線を気にすることはない。しかし、この人たちは家路に着けば、すぐさま現実に引き戻され、元の閉塞的で息苦しい空間へと押し込められるのだ。この街に来る理由が本来の自分を取り戻す為なのだとしたら、それ以外の生活は一体何だというのか。

 テラス席に座る咲良の後ろ髪を風が大きく跳ね上げた。砂埃が舞い上がる。咲良は両サイドの髪を中央で纏めて結び目を作ると、中央の髪をくるりと一回転させて結び目に入れ込んだ。そっと目を閉じる。風や波の音、街のざわめきが耳の中を駆け抜けて行く。何もせずに家で過ごしているよりは誰かの気配を感じていたい。静寂は否応なく本来の自分と向き合わせる。

 目を開けて、ぼんやりしていると、人混みの中に一際目立つ女性が見えた。畏まった服装ではなく、動きやすそうなデニムのワイドパンツと萌黄色のシャツといったカジュアルな服装をしている。その女性がこちらに向かって歩いてきた。

「咲良さんですか?」

「はい。そうです」

「市香です。中で待ってくれていたら良かったのに」

 市香さんの気さくな接し方に肩の力が抜けて行くのを感じた。初対面の人と会う時は、つい余計な力が入ってしまう。

「この場所の方が見つけやすいと思ったんです。今日は、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。では中に入りましょう」

 市香さんに導かれ、店内に入った。市香さんがカウンターで注文している間、窓際の席を確保して、所在無げに辺りを見渡した。大きな観葉植物と壁面の英字のレタリングが異国情緒を思わせる。

 注文を終えた市香が席に来て、背負っていたケースをそっと壁に立てかけた。

「それって、バイオリンですか?」

「うん、さっきまで練習してたんだ」

 市香さんの奏でる音色は温かみのあるものに違いない。穏やかな表情でバイオリンを演奏する市香さんを想像した。

「昔は練習の後に、よく一人でこの店に来てたんだけどね。最近は観光客が多くなったから、一人だと、どうも落ち着かなくて。街がいつの間にか変わったって感じがする。ずっと同じ場所に住み続けているから、そう感じるのかもしれないけど」

「商店街が閑散としていたのはビックリしました」

 以前は商店街には人が溢れていた。港付近が開発されたことで、人の流れが一変し、海から少し離れた商店街には誰も足を運ばなくなった。家族と通い詰めた店は更地になってしまい、今では見る影もない。

「今も良い街だと思うけど、昔も良かったんだけどなあ」

 感慨深そうに、市香さんが溜息をついた。

「ところで、この街に来たのは楓月くんに会う為なの?」

「はい。楓月さんのお父さんが見た景色を探したいと思いまして。その景色を見たら人生が変わるらしいんです」

「へえー、そんな景色があるんだね。少し前の私だったら見たいと思ったかも」

 市香さんは関心がないのか。きっと今の自分に満足しているのだろう。

「あの、お仕事の件ですけど」

「うん、大丈夫。私が見たかったのは人柄だけだったから。咲良さんなら皆と楽しくやっていけると思う」

 楓月さんに会いに来たのは良いが、まだ働き口も住むところも見つけていなかった。しかし、これでやっと落ち着くことができる。市香さんを紹介してくれた美由紀さんに感謝しなければ。しばらくは市香さんの店の寮で住み込みとして働くことになりそうだ。

「みんな仲が良いし、働きやすい店だと思うよ。仕事はやっぱり楽しんでやらなきゃね。あと美由紀さんから聞いたのだけど、咲良さんってピアノ弾けるの?」

「えっ? あ、はい。幼い頃から習っているので、少しなら」

「今度、お店でイベントをやるんだよね。咲良さん、ピアノの演奏、お願いしても良い?」

「私で良かったら、喜んで」

 この街に来て、本当に良かった。止まっていた時間が流れ出したのが自分でも分かる。

 たわいない雑談を交わし、一息ついていた時、突風がガラス窓をカタカタと鳴らした。

「凄い風」

 市香さんが呟いた。窓の外を紙コップが勢いよく転がって行く。

「この風のおかげで楓月さんに話しかけることができたんです」

「風?」

「はい。高台から絵を描いている楓月さんを眺めていたら、風に吹かれた小物入れがころころと転がっていって……。楓月さんは気づかずにどこかに行ってしまったので、私が拾って後日、手渡したんです。だけど、どういうわけか、いつもいるはずの桟橋に姿を現わさなくなってしまって……」

「会えなかった時期って、ひょっとして楓月くんが事故に遭った時じゃない?」

「えっ? 事故ですか」

「そう。打撲程度で済んだみたいだけどね」

 だから会えなかったのか……。

「そろそろ私、帰るね。店の準備をしないといけないから。咲良さん、今度、みんなと音合わせをしましょう。また連絡します」

 市香さんは立ち上がって、壁に立てかけていたバイオリンのケースを肩に掛けた。歩き去って行く市香さんを周囲の人たちが遠巻きに見つめている。市香さんは視線を集めているのを気にもせずに、スタスタと歩いて行った。私と違って市香さんは人を惹きつける何かを持っている。

 先ほど市香さんが口にした言葉が気になった。楓月さんが事故に遭った……。それは桟橋を離れた後のことだろうか。もしそうならば、あの日、楓月さんの背後にいた中年の女性が気になる。あの人は一体、何をしていたのか。

『今からそちらに向かいます』

 確かにそう言っていた。


 宗一郎は美由紀から手渡された写真を片手に、同僚たちと向き合った。香流甘の捜索には仕事仲間も手伝ってくれることになっている。

「この子を見付けてくれないか。なんでも、おかしな宗教に嵌まっているらしいんだ。この子の母親が探していてな」

そう言って、宗一郎はメモ用紙を取り出した。

「身長は百六十センチ、普通体形、年齢は十九歳。髪は栗色。いつも使用しているバッグはクリーム色のポシェット。ポシェットというのは、メロンパンが一個入るくらいの小さなバッグのことみたいだ。それを肩に掛けている。たまにこの街で目撃されているが、どこに住んでいるのかまでは分からない。車は持っておらず、電車での移動が主だ。掃除の仕事をしながらになるけど、よろしく頼むよ。ああ、それからこんな感じの女の子だ」

 そう言って、宗一郎は焼き増ししておいた写真をみんなに配った。乗降客の多さから骨の折れる作業になるのは必須だ。しかし仕事仲間たちは嫌な顔一つせずに協力すると言ってくれた。心優しい人たちだ。

 それから約二週間後、それらしい人がいると仕事仲間から連絡が入った。宗一郎は急いで仲間の元に駆け付け、女性の目と鼻の先にまで近づいて確認した。掃除のおじさんを怪しむ人はいない。写真は穴が開くほど眺めてある。間違いない。この人が香流甘だ。栗色の髪とクリーム色のポシェットが功を奏したとはいえ、やや期日を要してしまった。

 以前も「似た人がいる」と仕事仲間から連絡が入ったことがあった。その時は人混みに香流甘が紛れ込んでしまい、途中で見失っている。確か、あの日も今日と同じ曜日、同じ時間だった。

「もしかすると毎週、水曜日の十一時に特定の場所に出かけているのかもしれんな」

 宗一郎は美由紀に電話で伝えた。

 美由紀から「どこに向かっているのか」と聞かれたが、なんせ仕事中だ。さすがに駅から離れた場所まで追跡することはできない。分かったのは降車駅までだ。だが、それだけ分かれば十分だろう。


 追跡は楓月と市香が担当することになった。列車がホームに到着するたびに、改札口から人が溢れ出てくる。人波に呼応するかのように、それまで静かだった街が躍動し始めた。

 この中から、たった一人の女性を探し出さなければならない。大変な作業に思えるが、どの列車に乗って来るのかは、事前に宗一郎から聞かされて分かっている。「栗色の髪にクリーム色のポシェット。写真の子で間違いないよ」とのことだった。幸いなことに改札口は一つしかない。問題は香流甘の向かう先まで気づかれずに追跡できるかだ。

 楓月は駅前に立ち、まだ来るはずのない改札口を惚けたように眺めた。すると、肩をコツンと小突かれた。

「こんな所じゃ怪しまれるでしょ」

 市香に誘導されて、道を挟んだ向こう側に場所を移した。確かに改札口で待ち構えておくのは適切ではない。しかし、どうも腑に落ちない。おかしな宗教と言っても、本人が好きでやっているのだ。放っておけば良いのではないか。そこまで過激なところでもないだろうに。

 市香と楓月は談笑に耽っているカップルを装った。幾つかの列車をやり過ごした後、二人は改札口に意識を向けた。駅前の円柱時計の針が十一時十五分を指している。次の列車だ。

 改札口から、ぞろぞろと人が街へ流れ込んできた。

「来たよ」

 市香が注視した先に栗色の髪の女性がいる。

「あの人ですか? 写真の人とは違うような気がしますけど」

「何言ってんの。髪はヘアピンで留めてあって、あとはメガネを掛けているだけよ」

 まるで別人だ。市香がいなければ、見逃していたかもしれない。

「楓月くん、まだよ」

 追跡を開始しようとした楓月を市香が止めた。香流甘が遠ざかっていく。

「さあ行くよ」

 香流甘の死角になる位置に入ってから、ようやく動き出した。市香は過去に追跡したことでもあるのかと思えるほど慣れている。

「香流甘さんのお母さんって、随分と独りよがりでヒステリックな人みたいですよ。美由紀さんもその人と接する時は神経を使うって言っていました」

 アドバイスをしても、鉄壁のガードで跳ね返されてしまうらしい。自分の考えこそが絶対に正しいと思い込んでいるのだ。香流甘が母親から離れようとするのも無理はない。

 大通りを歩いていた香流甘が道を曲がり、住宅街へ入って行った。車が一台通れるかどうかの細い道が続いている。いつも歩いている道なのだろう。香流甘は今いる場所を確認することなく、軽やかな足取りで歩いている。僕らは、さらに香流甘から距離を取った。ひと気のない住宅街だ。不必要に近づくわけにはいかない。

 しばらく歩いていると、突然、香流甘の姿が見えなくなった。道を曲がったのだろうか。ここからでは、そこに道があるようには見えないが……。

「確か、この辺りだったはず」

 香流甘が姿を消した場所に細い横道があった。その先に小さな公園が見える。僕らは公園に足を踏み入れた。

「ここまで来たら大丈夫。ほら、楓月くんも座って」

 市香がブランコに腰かけるように促した。香流甘が遠ざかっていく。一体、どういうつもりなのだろう。楓月は訝しがりながらも、ブランコの座板に腰かけた。市香は足を地面から離して、前後に身体を揺らしている。

「ほら見て」

 市香が公園の入口へ視線を誘導した。ぞろぞろと女性たちが公園に入ってくる。

「みんな付けてるでしょ。白ふくろうのチャーム。香流甘さんも同じものをバッグに付けていたから、多分、みんな同じ場所に向かってる」

 目の前を通り過ぎていく女性たちのバッグに目を遣った。確かに白ふくろうの小物が取り付けられている。

 遠くに見える香流甘を背中越しに眺めた。背後からでは小物を確認することができない。市香は香流甘が改札口から出てきた時に確認したのだろうか。

 女性たちは白ふくろうの小物を揺らしながら公園を通り抜けて行き、そして教会へと入って行った。


「二人とも、お疲れ様」

 手際よくコップを洗いながら美由紀さんが言った。

「あんなところに教会があったなんてね。何ていう教会だったの?」

「グリーンスピリチュアル教会と看板に書いてありました」

「聞いたことないわね。自然崇拝でもしているのかしら」

「話そうかどうか迷ってたけど……」

 僕らの話を遮るように市香が口を開いた。

「あの日、公園で目撃した人たちは、白ふくろうのチャームをバッグや携帯電話に付けていたのですけど、気になるのは咲良さんなんです」

 どうして、ここで咲良の名前が出て来るのか。香流甘の失踪と咲良には何の関係もないはずだ。

「咲良さんも同じものを身に付けていたってことね」

「はい、そうなんです」

「えっ、どういうことですか。咲良さん、そんなの身に付けていましたっけ」

「バッグに付けてたよ」

 咲良が初めて、カフェ『ひとしずく』を訪れた時、美由紀さんに手渡されたタオルで、雨に濡れたバッグを拭いた。その時に振動で揺れた小物のことだろうか。

「そうだとしたら、咲良さんも、あの教会に出入りしてるってことになりますよね。あの教会に何しに行っているんだろ」

 素朴な疑問を口にした。

「私、その教会の噂を聞いたことがあるけど、『願いは叶う』系のスピリチュアル団体だったと思う」

「みんなで瞑想したり、踊ったりとかしてるのかしら」

 サークル活動みたいなものか。もっと不気味なものかと思っていた。

「んー、こうやって目を閉じて、『願いは叶うー』と思いながら瞑想しているみたいです」

「市香さんも行ったことがあるのですか?」

「ううん、ないない」

 首を横に振った。

「私は、そのような場所には行かないようにしてるの。その前におかしな団体の思想なんて信じない。だって誰でも簡単にお金持ちになれますよ。有名になれますよ。幸せになれますよ。とか言ってるんだもん。ちょっと付いていけない」

 教会に入って行く人たちを見て、胸に引っ掛かるものがあったのは確かだ。だけど、どこにでもいるような人たちだった。

「瞑想や自己啓発って、それ自体は悪いものじゃないのよ。それを悪用する人たちがいるから困るってだけで」

「グッズを買ってどうするのですかね」

 僕には理解できない感覚だ。 

「同じ物を所有することで仲間意識を高めているのではないかしら。あのような人たちって購入したくなるように仕向けるのが上手いからね。巧みな話術や仕掛けを施しては、人の欲望や弱みにつけ込んでくる。ところで香流甘ちゃんの様子はどうだったの?」

「僕は至って普通に見えましたけど……。どうだろ」

 そう言って、市香を見た。

「色々、苦労していると思うけど、私もあまり追い詰められているようには見えなかったかな。取り敢えず親元を離れるために家を出たって感じだと思う」

 香流甘も他の人たちも、これから楽しいことが起きることを期待しているかのような笑みを浮かべていた。悩み事なんて、ひと欠片も無さそうだった。

「自己啓発系に嵌る人たちって、みんな一様に明るいのよ。心の奥底に潜むものに蓋をして、無理に笑って見せてる」

 無理矢理にポジティブに振る舞えとか勘弁してほしい。

「今後どうするのですか。ただの趣味のような気はしますけど」

 やはり放っておくべきではないか。

 美由紀さんは窓の外に広がる海に目を遣った。左手を頬に触れて思いに耽っている。

「しばらく香流甘ちゃんの母親には、教会のことを黙っておいた方が良さそうね」

 美由紀さんは無理強いするのを好まない。あくまでも本人に気づいてもらって、主体的に行動を取ってもらうことを意識している。それは分かるが、どこにいるかくらいは伝えても良さそうだが。

「だって、あの人に教えたら、教会に乗り込むに決まっているからね」

 香流甘の母のことを、どことなく僕の母と似ていると思っていた。だけど、この点は異なる。母は僕には無関心だ。助けに来ることはない。

「香流甘ちゃんを支配下に置いて、意のままにコントロールしようとしているのは確かね。本人には自覚も悪気もないみたいだけど。人間ってコントロール不能状態にさせられることが一番ストレスに感じるのよ。離れて暮らすのは正解だと思うわ。だけど逃げた先がね。本当にそこで良いのかという疑問がある」

 支配的な母というのは共通している。香流甘のことは他人事だとは思えない。

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