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白ふくろうのチャーム①

 港町には個性的な人が集まって来る。それぞれが思い思いに動き、他人の視線を気にすることはない。しかし、この人たちは家路に着けば、すぐさま現実に引き戻され、元の閉塞的で息苦しい空間へと押し込められるのだ。この街に来る理由が本来の自分を取り戻す為なのだとしたら、それ以外の生活は一体何だというのか。

 テラス席に座る咲良の後ろ髪を風が大きく跳ね上げた。砂埃が舞い上がる。咲良は両サイドの髪を中央で纏めて結び目を作ると、中央の髪をくるりと一回転させて結び目に入れ込んだ。そっと目を閉じる。風や波の音、街のざわめきが耳の中を駆け抜けて行く。何もせずに家で過ごしているよりは誰かの気配を感じていたい。静寂は否応なく本来の自分と向き合わせる。

 目を開けて、ぼんやりしていると、人混みの中に一際目立つ女性が見えた。畏まった服装ではなく、動きやすそうなデニムのワイドパンツと萌黄色のシャツといったカジュアルな服装をしている。その女性がこちらに向かって歩いてきた。

「咲良さんですか?」

「はい。そうです」

「市香です。中で待ってくれていたら良かったのに」

 市香さんの気さくな接し方に肩の力が抜けて行くのを感じた。初対面の人と会う時は、つい余計な力が入ってしまう。

「この場所の方が見つけやすいと思ったんです。今日は、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。では中に入りましょう」

 市香さんに導かれ、店内に入った。市香さんがカウンターで注文している間、窓際の席を確保して、所在無げに辺りを見渡した。大きな観葉植物と壁面の英字のレタリングが異国情緒を思わせる。

 注文を終えた市香が席に来て、背負っていたケースをそっと壁に立てかけた。

「それって、バイオリンですか?」

「うん、さっきまで練習してたんだ」

 市香さんの奏でる音色は温かみのあるものに違いない。穏やかな表情でバイオリンを演奏する市香さんを想像した。

「昔は練習の後に、よく一人でこの店に来てたんだけどね。最近は観光客が多くなったから、一人だと、どうも落ち着かなくて。街がいつの間にか変わったって感じがする。ずっと同じ場所に住み続けているから、そう感じるのかもしれないけど」

「商店街が閑散としていたのはビックリしました」

 以前は商店街には人が溢れていた。港付近が開発されたことで、人の流れが一変し、海から少し離れた商店街には誰も足を運ばなくなった。家族と通い詰めた店は更地になってしまい、今では見る影もない。

「今も良い街だと思うけど、昔も良かったんだけどなあ」

 感慨深そうに、市香さんが溜息をついた。

「ところで、この街に来たのは楓月くんに会う為なの?」

「はい。楓月さんのお父さんが見た景色を探したいと思いまして。その景色を見たら人生が変わるらしいんです」

「へえー、そんな景色があるんだね。少し前の私だったら見たいと思ったかも」

 市香さんは関心がないのか。きっと今の自分に満足しているのだろう。

「あの、お仕事の件ですけど」

「うん、大丈夫。私が見たかったのは人柄だけだったから。咲良さんなら皆と楽しくやっていけると思う」

 楓月さんに会いに来たのは良いが、まだ働き口も住むところも見つけていなかった。しかし、これでやっと落ち着くことができる。市香さんを紹介してくれた美由紀さんに感謝しなければ。しばらくは市香さんの店の寮で住み込みとして働くことになりそうだ。

「みんな仲が良いし、働きやすい店だと思うよ。仕事はやっぱり楽しんでやらなきゃね。あと美由紀さんから聞いたのだけど、咲良さんってピアノ弾けるの?」

「えっ? あ、はい。幼い頃から習っているので、少しなら」

「今度、お店でイベントをやるんだよね。咲良さん、ピアノの演奏、お願いしても良い?」

「私で良かったら、喜んで」

 この街に来て、本当に良かった。止まっていた時間が流れ出したのが自分でも分かる。

 たわいない雑談を交わし、一息ついていた時、突風がガラス窓をカタカタと鳴らした。

「凄い風」

 市香さんが呟いた。窓の外を紙コップが勢いよく転がって行く。

「この風のおかげで楓月さんに話しかけることができたんです」

「風?」

「はい。高台から絵を描いている楓月さんを眺めていたら、風に吹かれた小物入れがころころと転がっていって……。楓月さんは気づかずにどこかに行ってしまったので、私が拾って後日、手渡したんです。だけど、どういうわけか、いつもいるはずの桟橋に姿を現わさなくなってしまって……」

「会えなかった時期って、ひょっとして楓月くんが事故に遭った時じゃない?」

「えっ? 事故ですか」

「そう。打撲程度で済んだみたいだけどね」

 だから会えなかったのか……。

「そろそろ私、帰るね。店の準備をしないといけないから。咲良さん、今度、みんなと音合わせをしましょう。また連絡します」

 市香さんは立ち上がって、壁に立てかけていたバイオリンのケースを肩に掛けた。歩き去って行く市香さんを周囲の人たちが遠巻きに見つめている。市香さんは視線を集めているのを気にもせずに、スタスタと歩いて行った。私と違って市香さんは人を惹きつける何かを持っている。

 先ほど市香さんが口にした言葉が気になった。楓月さんが事故に遭った……。それは桟橋を離れた後のことだろうか。もしそうならば、あの日、楓月さんの背後にいた中年の女性が気になる。あの人は一体、何をしていたのか。

『今からそちらに向かいます』

 確かにそう言っていた。

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