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カルアの失踪①

 街灯が辺りを照らし始めた。ひと気のなくなった沿道に風が吹き込み、街路樹の葉を揺らしている。ざわめく音に気持ちが急き立てられる。しかし足取りは重く、思うように前に進むことができない。まだ時間は十分にある。美由紀は石畳を見つめながら、ゆっくり歩いて行くことにした。

 疎遠になってはいけないと思い、実家を出た後も父とは定期的に会うようにしていた。しかしカフェ「ひとしずく」の立ち上げに時間を追われたこともあって、今回の会食は少し期間が開いてしまった。前回会ったのは一年以上も前になる。

 父は自身の考えを固辞し、押し付けることも厭わない。会う度にげんなりとさせられる相手だ。年齢を重ねるに連れて柔軟性を失っているのではないかとさえ思えるほどだ。いっそのこと縁を切ってしまおうか。何度もそう思った。

 薄暗い景色の中、ひと際明るく光る店が見えた。ドアを開けて中へ入ると、ストリングスの音色が耳に飛び込んできた。滑らかな音色は店にいる人たちを優雅な気分にさせて、交わす言葉には潤いを与える。私たちを除いて……。

 小柄な老人は、いつものように中央の席を陣取っている。美由紀は店の中央へと歩を進めた。父は背筋を天井に向けて真っすぐに伸ばしており、年齢の割りには若々しく見える。極めつけは、その風格だ。勘の鈍い人でも、それなりの地位にいる人だと分かるのではないだろうか。しかし今日は、いつもと様子が異なる。あの周囲を威圧する厳かな雰囲気が影を潜めている。

「やあ。先に飲んでるよ」

「そんなの、いつものことでしょ。お父さん、今日はスーツ着てないのね」

 刺々しく言い放って、椅子に腰かけた。この人は酔わないと私に会うこともできない。後ろめたい気持ちくらいは持ち合わせているということだろう。

「もう社長なんていう肩書ではないからな。それにスーツは息苦しい。あんなもの、もう必要ないから捨てたよ」

「あれだけ見かけに拘っていたのに? 人は見た目が大事とか言ってたじゃない」

 人の上っ面だけを見て判断を下す父が大嫌いだった。この人は心に触れようとしない。

「そうだったかな」

 父はとぼけて見せた。やはり人を不快にさせる権威的な雰囲気が消えている。社長の座を退いたくらいで、ここまで人は変わるものだろうか。

「お父さん、今は何をしてるの?」

「駅で掃除の仕事をして、のんびり暮らしてるよ」

「掃除? お父さんが? 罪滅ぼしのつもりなの?」

「いや、そういうわけじゃないんだが」

 父はワインを一口含んで、一呼吸置いた。

「仕事を辞めてから、しばらく何もしなかったんだ。そうしたら段々と怖くなってきてな。また働くことに決めたんだよ」

「怖いって、何が?」

「自分がこの世に必要とされていないのではないかと思うようになったんだ。だけど今は落ち着いたよ。しかし社会貢献ってのは良いもんだな。この仕事をやり始めてから、人を観察するのが好きになってね。一日中、眺めていても飽きないんだ。今じゃあ、すっかり趣味みたいなものだよ」

 父が優しい目をして、にっこりとほほ微笑んだ。今まで散々見せつけられた人を射抜くような目ではない。このような父の穏やかな顔を見るのは、いつ以来になるのか。

「お父さん、変わったわね」

「人を観察してるとな。色々と気づかされることがあるんだ。どうして、あの人はあんなことをしているのか? どうしてそんなつまらないことで怒っているのか? とね。そうしていると、今度は自分のことを省みるようになる。きっと目が覚めたんだな。一体、わしは何をしてきたんだろうな。あれだけ苦労したというのに、手に入れたものは取るに足らないものばかりだった」

「今頃、そんなことを言うの?」

 美由紀は父を睨みつけた。

「散々、私たちを振り回して来たくせに勝手すぎるわ。私たちがどれだけ我慢を強いられたと思ってるの。あの頃のお父さんは誰が見ても異常だった。人を人と思っていなかったからね。周りがどれだけ傷ついても、離れて行っても平然としていた。まるで何かに取り憑かれているように見えたわ」

 美由紀はワインボトルを手に取り、自分のグラスに勢いよく注いだ。

「まあ、そう言わんでくれよ。わしなりに必死だったんだ。多くの従業員を路頭に迷わせるわけにはいかなかったからな」

「私たちは路頭に迷ったけどね。従業員だって、どうだか分からないわ」

 父はバツが悪そうにしてグラスを手に取ると、底に残っているワインを揺らして、ゆっくりと飲み干した。

「中々、美味いな」

 空になったグラスを置き、今度はワインボトルを手に取った。

「なあ、このワイン知ってるか? このワインはな……」

 また始まった。都合が悪くなると、いつもこうやって誤魔化して逃げる。この癖だけは無くならないようだ。美由紀は呆れた眼差しを向け、一言、父に何か言ってやろうと思ったが、店内に流れるバイオリンの旋律に意識が傾き、言葉を飲み込んだ。

「カベルネソーヴィニヨンでしょ」

 父はきょとんとした表情を浮かべた。

「何? どうかしたの?」

「いや、意外だと思ってね。話に乗って来るとは思わなかったよ。以前のお前なら……」

「ワインのことなんかどうでもいいのよ! でしょ」

「そうだな。いつもそうやって怒られていたな」

 父は肩を竦めた。

「私も余裕がなかったのでしょうね。今だから分かることだけど」

 そう言ってテーブルクロスの花柄を見つめた。家庭を顧みない父の行動に反発して、家を飛び出した過去が思い起こされる。今の私だったら、どう対応するのだろうか。

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