カフェひとしずくを後にして、木陰に覆われた小道を歩いた。緩やかな下り坂が続いている。
美由紀さんが僕に頼みごとをしてきたのは初めてのことだ。少し前の僕は店に行くのですら、一苦労だった。そのような僕に頼むわけにはいかなかったのだろう。それだけ僕は回復したと思われているのかもしれない。
木洩れ日が初夏を感じさせる。密集した家々の屋根瓦や玄関先には招き猫などの置物が飾られている。生活感のある温かみを感じさせる場所だ。
「オカエリー。アリガトー」
遠くから声が聞こえた。オウムの声だ。オウムは軒先に吊るされた鳥かごの中を、せわしなく動き回っている。自由に飛び回る鳥たちが周囲に居るのにも関わらず、あのオウムは籠の中で飼われていることに何の疑問も感じていない。
オウムは同じことを繰り返し喋っている。
このオウムは同僚たちを想起させる。同僚たちは指導と称されて教わった言葉を、まるで自分の言葉かのように発言していた。その言葉の内容が正しいかどうか吟味することはない。それらの言葉は後から入ってくる新人たちにも伝えられ、その場にいる全員が同じ思想を共有するようになる。悍ましい光景だが、同僚たちはそれを奇妙だとは思わないようだった。
美由紀さんが指定した店は、ひっそりとした住宅街にあった。ガラス越しに若い男女が働いているのが見える。新婚夫婦だろうか。随分と楽しそうだ。
僕が住んでいる世界とガラスの向こう側の世界は本当に同じなのだろうか。この世に生まれ落ちた瞬間から住む世界が二つに分かれているとしか思えない。あの人たちと僕との差は一体どこにあるというのか。
美由紀さんに頼まれていた商品を購入した後は港町へ向かう予定だった。しかし思い直して商店街に行くことに決めた。港町に行けば、幸せそうにしている恋人たちを見なければならない。
海沿いにある港町から数百メートル離れた場所に商店街がある。以前は多くの人で賑わっていたが、今は見る影も無い。港町が開発されて以降、商店街から人の姿が消えてしまった。店の数より歩いている人の数の方が少ない日もあるほどだ。
高校生の頃に海斗と通ったハヤシライスの店を思い出し、探してみることにした。記憶を頼りに歩いていく。路地の奥まった場所に、その店はあった。しかし今はやっていないようだった。
元の道に戻ろうと振り返った時、誰かが物陰に隠れた。僕の姿を見て咄嗟に姿を隠したように見えたが、気のせいだろうか。見知らぬ女性だった。
日は沈み、辺りは墨を張ったように、とっぷりと暗くなっている。気のせいだとしても、あまり良い気分はしない。仕方がない。港町へ行こう。
海岸に漁船が並んでいる。淡い光に照らされて一際目立つ大きな船は船上レストランだ。波の動きに合わせて静かに揺れている。船上レストランにいる恋人たちは、何を語り合っているのだろう。
いつもなら絵を描き終わって家で寛いでいる時間だ。僕が自宅で物寂しさを抱えている間、ここにいる人たちは満ち足りた時間を過ごしている……。しかし、これが現実だ。この世界は裏と表でバランスを取り合っている。不平等なのは仕方がない。
窓越しに見える恋人たちを眺めている時、ふと視線を感じて恋人たちから目を逸らした。船体に跳ね返された光がぼんやりと一人の女性を照らしている。この人は商店街で見かけた人ではないか。その人はその場から動こうともせず、こちらを凝視している。
どうして良いのか分からず、その場に凝然と立ち尽くし、女性の動向を見守った。女性から目を逸らすことができない。
十秒ほど時間が過ぎた頃だろうか、女性が肩で大きく呼吸をした。意を決した目をしている。ここまで付け回して来たのだ。ただ道を聞くだけではないはずだ。
女性がこちらに向かって来る。しかし何やら様子がおかしい。怯えた目をしている。
女性は目の前で立ち止まると、沈黙を破るように口を開いた。
「楓月さん……」
どうして僕のことを知っているのか。僕はこの人のことを知らない。
女性の出方を伺っている時、女性が手に何か持っていることに気づいた。
「あれっ? それって」
「はい。楓月さんの物です。桟橋で拾いました」
それを渡すために僕を付け回していたのか。だったら何故、逃げる必要が……。
「どうして僕を見て逃げたのですか」
「それは色々と事情があって……」
そう言って女性は口籠った。
「ここで話せるようなことではないんです」