白一色で塗られた木の扉を開けた。いつもと変わらない空間を目にして心が安らぐ。店内には木目を生かした明るい基調のテーブルや椅子が配置されてある。どれ一つとして同じ形の物がない。これはオーナーの美由紀さんのこだわりだ。不揃いだからこそ調和は保たれるとの考えを美由紀さんは持っている。壁には窓から射し込んでくる空と海の色が染み込んだような淡い青色が塗られており、そこには幾何学模様が描かれた一風変わった絵画が飾られてある。この店に初めて足を踏み入れた客は、絵に魅了される人と、気づかずに通り過ぎる人に別れるとのことだった。僕は後者の方だった。以前の僕ならば時間を忘れて魅入ったに違いない。それが視界に入らなかったほど、当時の僕は視野が狭くなっていた。
「調子はどう?」
美由紀さんがカウンター越しに話しかけてきた。穏やかな笑みを湛えている。物腰柔らかい声だ。心理カウンセラーをしているからか、人当たりが柔らかく話しやすい。決して傷つけてこないという安心感がある。
「僕、車に轢かれそうになったんですよ」
「それは災難だったわね。怪我はなかったの?」
美由紀さんが、しげしげと顔を覗き込んできた。
「軽い打撲程度で済みました。車が対向車線をはみ出して来たときは心臓が止まるかと思いましたけど」
いつも自転車に乗るとは限らないのに、どうしてその日に限って……
「その人、よそ見でもしていたのかしらね。だけど何事もなくて良かった。もし頭でも打っていたら大変なことになっていたわよ」
テーブルに視線を落として、当時の状況に思いを巡らせた。
いつものように坂道の左側を下っていた時、突然、前方から車が現れた。あの車が対向車線をはみ出して来なければ、僕は転倒することはなかった。
今思えば、あの車の動きはどこか不自然だった。対向車線をはみ出した後、方向修正することなく、そのまま、こちらに向かって来た。
誰かに恨みを買うようなことでもしただろうか。それはないはずだが……。
気を取り直して顔を上げた時、緩やかな風がそっと頬を撫でて行った。窓が大きく開け放たれている。初めて店を訪れた時、窓から見える空と海の景色に一瞬にして心を奪われたことを思い出す。
窓を通り抜けてきた風は、部屋を旋回しながら重苦しい空気を乗せて外へ流れていった。僕は余計なことを考えすぎる。
美由紀さんが食事の準備をしている間、本棚に手を伸ばして一冊の小冊子を手に取った。各家庭に配布されているフリーペーパーだ。ある日、何気なく確認したポストの中に、それが入っていた。そこに紹介されていた美由紀さんの記事を目にしなければ、この店を訪れることはなかった。きっと今も家から一歩も出ずに、鬱々とした生活を送っているに違いない。僕にとって、この店は心が安らぐ唯一の場所だ。他の店には一人で行く気にはなれない。この世界でお前は一人ぼっちなのだと、現実を突きつけられる気がするからだ。
小冊子をぱらぱらと捲っていく。
カフェ『ひとしずく』
─―心の弱った方でも気軽に立ち寄ることができる店をコンセプトに作りました。
と書いてある。
そこには人柄の良さそうなオーナーである美由紀さんと、自然を意識した爽やかな店内が写し出されている。久々の再会だった。美由紀さんは僕が通っていた高校でスクールカウンセラーとして働いていたことがあった。
「個人情報なんてあってないようなものよ。やってられないわ」
僕が在学中に美由紀さんは突然、辞職した。勤めていた学校から、生徒とのカウンセリングで知り得た情報を逐一報告するように指示されたことがきっかけで仕事を辞めている。被害を受けた生徒が誰に何をされたのか、今後、何をしようとしているのかなど、それらを教師に報告すれば、その後、生徒がどのような目に遭うかは目に見えている。学校は問題を隠蔽する為に被害者を叩き潰すはずだ。
美由紀さんは学校の体質に染まることを拒んだ。自分を捨ててまで、加害者側に擦り寄る人ではない。生徒たちを守るために美由紀さんは反発したが、結局、聞き入れてはもらえず、契約満了になったと同時にクビになった。組織は都合良く動いてくれる人間しか重宝しない。
『自分に合わないと感じたら、離れたら良いのよ』
この言葉が僕の心を打った。それまでは自分の身に何が起きても、絶対に逃げ出してはいけないのだと思い込んでいた。美由紀さんの言葉は、今も僕の心の中で生き続けている。
美由紀さんは、こちらの気分が沈まないように心が軽くなる言葉を投げかけてくれる。以前はそれらの優しい言葉が耳に入って来ることはなかった。変われるはずがないと思う心が、僕の中にあったからだろう。だけど今は素直に耳に入ってくる。少しずつ心の氷壁が溶け出してきているのかもしれない。
「はい。ガレットとアイスコーヒー」
外から射し込む光でグラスが虹色に輝いている。グラスを口元に持ってくるまでの時間は何物にも代えがたい至福の時だ。芳香が鼻の奥に広がり、グラスに当たる氷の音が脳を刺激する。
グラスを手に取って、ひと口だけ口に含んだ。
「あっさりした味ですね」
美由紀さんが淹れるコーヒーは苦みがなく、飲み終わった後も雑味が舌に残らない。
「何時間もかけて抽出したウォータードリップコーヒーだからね。長い時間をかけて抽出すると味がまろやかになるのよ。水にもこだわっているしね。わざわざ一時間も掛けて湧水を汲みに行ってるの。これが深煎りに焙煎した豆にとても合ってね。その水を使って試しに淹れてみたら、これが美味しくて」
美由紀さんが店を開くなんて思いもしなかった。以前はコーヒーのことなんて興味すらなかったはずなのに。美由紀さんは考えるより先に行動に移す。だからか学ぶスピードが速い。
「水を汲みに行くのって大変じゃないですか? 重そうだし」
「好きなことをしている時って何の苦にもならないのよ。透き通った水って綺麗だし、流れる音を聴くのも心地良いしね」
好きなことか……。思わずため息が漏れる。
「でも好きなことをして生きていくのって難しいですよ」
「やろうとしていないだけじゃない? やる前からできるわけがないと諦めているだけかもよ」
美由紀さんの言葉が棘のように胸を刺し、チクリと疼いた。できないのではなく、やろうとしていない。それは、まさに僕のことだ。しかし足を踏み出すにはどうすれば良いのか。視線を落として、そのまま黙り込んだ。
「どう? ガレット。美味しいでしょ」
美由紀さんは僕の表情を見て話題を変えた。
「チーズはマスカルポーネというナチュラルチーズで、トマトは農家から直接仕入れてるの。トマトは調味料がなくても、十分に甘くて美味しいのよ」
「ガレットって、確かフランスの食べ物ですよね。そば粉を使っているんでしたっけ?」
楓月は生地をフォークで突き刺した。パリッと乾いた音がする。
「蕎麦は痩せた土地でも育つから、フランスで重宝されるようになったって聞いたわよ。フランスのブルターニュ地方の郷土料理ね。小麦が育たないなら他に育つものを探せば良いってことで、蕎麦が持ち込まれたのではないかしら」
その場所が合わなかったら、他の場所に行けば良いってことか。同じ場所に居続けないとダメだなんて、誰がそんなつまらないことを決めたのだろう。
「仕事の話ですけど、復職するか悩んでいるんですよね」
「今の楓月くんは、ゆっくりと自分を見つめ直す絶好の機会だと思うけど、いつまでも休んでいられないからね。母親と一緒に住むのも大変だろうから、復職してお金を貯めて一人暮らしをするのも一つの手じゃない? 楓月くんって何がやりたいの」
「何がって言われても……。ただ人の役に立ちたいだけです」
他人を陥れたり、騙したりしながら生きていくなんて冗談じゃない。
「今の会社で、それを実現できないなら戻る必要はないと思うわ。会社の同僚って、どういう人たちだったの?」
「何も考えずに一心不乱に働いている人たちでした。無駄に朝早く来て、夜は遅くまでダラダラと。やる事なんてないはずなのに」
顧客の事より、自分の評価を上げることしか考えていなかった。上司に気に入られたいだけの行動だ。
「それが常識だと思っているのよ。でも仕方がないと思うわ。無駄なことであっても長時間努力し続けろと言われて育ったのだから」
「そう思っているのなら、自分たちが勝手に遣っていれば良いのに、どういう訳か、周囲の人たちに強要してきますからね。あれをやれ、これをやれって。だから一度聞いてみたんですよ。何故、そのような無意味なことをしているのかって」
「何て答えたの? 大体、想像がつくけど」
「それがおかしなことに、特に理由がなかったんですよ。『何言ってんだ? こいつ』といった奇異の目を向けられただけでした」
同僚たちは常日頃から上司から暴言を吐かれている。しかし、それを無条件に受け入れているのだ。何かがおかしい。
「楓月くんに取って、今は人生の転換期なのかもね。色々なことが起きたけど、それで良かったのかもしれないわよ。思わぬアクシデントが人生を動かすことは往々にしてあることだし、決してマイナスなことではないと思うわ。個性のある人は非難されて集団から追い出されるものなのよ。楓月くんは何かを持っているってこと。自信を持った方がいいわ」
人によって、こんなにも考え方が異なるのか。今までは上司や同僚、母親に至るまで、自尊心を削られることしか言われなかったのに。
ガレットを一気に平らげた。乾いた食感が暗くなりかけた気持ちを吹き飛ばしてくれる。食器を美由紀さんが片づけている間、店内に飾られている絵を見て回った。
「ここに飾ってある抽象画は誰が描いた絵なのですか?」
「ここでカウンセリングを受けている人たちが描いた絵よ。自我が芽生えつつある人の絵は面白いわ。何も持たない人の絵は見ていても何も感じない。一風変わったものを描けば良いってものじゃないからね」
スクールカウンセラーを辞めて以降も美由紀さんはカウンセラーを続けている。僕が抽象画を描いたら、単なる落書きになりそうで怖い。
「そういえば楓月くんって、夕日を描いているって言ってたよね」
「はい。幼い頃に父と見た夕日が忘れられなくて……。ちょっと描いてみようかと」
「素敵な話ね。完成したら見せてくれない?」
「僕の絵をですか……。別に良いですけど」
今の僕は何も持っていない。見ても何も感じないと思う。
窓の縁に肘を付いて、枝から枝へと飛び移っていく小鳥を目で追っていた時、玄関から鈴の音が聴こえた。
「こんにちは美由紀さん。頼まれたものを持って参りました」
二十代半ばほどの女性が、扉から顔を覗かせている。
「いつも助かるわ。さあ入って」
女性は店の中に入ると、こちらに背を向けて、そっと扉を閉めた。白色のシルクシャツにデニムパンツといったシンプルな服装をしている。こちらに向き直った時、艶やかな黒髪が波のように大きく揺れた。流麗な一連の動きに心を奪われそうになる。
「あと少しで切らすところだったのよ。さあ座って」
女性は手に持っていたコットンバッグをカウンター越しに美由紀さんに手渡すと、僕の隣に腰かけた。少し高めの椅子なのに悠々と座っている。一体、この人は誰なのだろう。美由紀さんに娘はいないはずだが。先程までの気怠い空気が一瞬にして変わり、潤いすら与えている。
「良さそうな豆ね。粒が揃ってる。これで美味しい珈琲を淹れることができそう」
美由紀さんがコットンバッグから袋を取り出して、中を覗き込んだ。ほろ苦くも甘みのある芳香がカウンター席に広がっていく。
「楓月くん、こちらの女性は……」
「市香と言います」
女性が美由紀さんを遮るように言って、いたずらっぽく笑った。
市香さんの冴え冴えとした瞳が僕を狼狽えさせる。堪らず視線を外して、背もたれに身体を預けた。
「人見知りなのよ。楓月くんって」
美由紀さんは僕の僅かな仕草も見逃してくれない。初対面の人と話すのは苦手だ。僕に危害を加えてこない無害な人だと分かるまでは、安心して話をすることができない。
「私は人見知りする人って、優しい人が多いと思うんですよね。馴れ馴れしい人って、どうも苦手で。こっちの気持ちを無視しているような気がするから」
「はい。どうぞ」
美由紀さんは慣れた手つきでフレーバーティーを作って、市香の前に置いた。
「ああ、いい香り」
桃の甘い香りが辺りを包み込む。
「私、この店で紅茶を飲んでいる時が一番幸せ」
涼し気な瞳が柔和な瞳へと変わった。市香さんの表情の移ろいが警戒心を溶かしていく。
「最近の市香は楽しそうね。仕事と趣味が充実してるって感じで」
「少し前とは生活スタイルが変わりましたから」
市香は記憶を辿るように虚空を見つめた。
「いつものように仕事をしていた時に、ふと我に返ったんですよね。『あれっ、私こんな所で何やってんだろ?』って。そして次の瞬間には自分のやりたいことを考えてしまって、数日後には『退職します』って上司に伝えたんです」
「あれには私も驚かされたわ。『私、仕事辞めてきました』って言いながら、店に入ってくるんだもの」
思い切ったことをするものだ。その原動力はどこから来るのか。
「美由紀さんに相談もしないで決めてしまいました」
「それは良いのよ。自分の人生なんだから」
「だけど今思うと、何だか不思議な感覚がするんですよね。それまでの私って、私であって私ではなかったような。何だかふわふわした記憶しかないし。どうして好きでもない仕事をあんなに一生懸命やっていたんだろ」
「そういうものよ。市香の妹たちも気ままに過ごしてるみたいだし、これでみんな自由になれたわね」
「そうですね。心音も多津美も人生を謳歌していると思います」
「市香さんって三姉妹なのですか」
「そう。三人もいるの。楓月くんは兄弟いるのですか?」
「姉が一人いましたけど、幼い頃に亡くなったので、今は一人です」
「そっか……。私たち小さい頃はケンカばかりしてたなぁ」
市香は遠い目をして懐かしんだ。
姉の一葉が亡くなってから、僕はずっと一人だ。姉だけではない。姉が亡くなった後に父も亡くしている。だから二人との思い出は断片的なものしかない。母に関しては、いつの頃からか口も聞かない仲になった。
「あっ、いけない。もうこんな時間。お店の準備しなきゃ」
市香が壁時計を見て言った。ダリの時計のように曲がりくねった針が四時を指している。
「美由紀さん、また来ます。楓月くんも、またね」
そう言って、小さな手提げバッグを片手に店を出て行った。
「お店の準備って、市香さんも店を経営しているのですか」
「退職してから直ぐにレストランをオープンしたのよ。海に面したところにね。イベントも定期的に行っていて楽しそうよ」
退職してまで、やりたかった事とは、それだったのか。僕だったら経営に失敗した時のことばかりを考えて、二の足を踏んでしまいそうだ。
「これから、また夕日の絵を描きに行くの?」
市香が飲んでいたティーカップを片付けながら、美由紀さんが言った。
「いえ、今日は止めておきます」
とても、そのような気分にはなれない。事故以来、一度も桟橋には足を運んでいない。
「それなら、ちょっとお願いしても良いかしら? 珈琲豆の他にも切らしたものがあるのよ。急用が入って買いに行けなくなってね」
「良いですよ」
時間なら持て余している。
「それじゃあ、フランスパンとローズジャムとメープルシロップをお願いね」
「ローズジャムなんて料理に使ってましたっけ?」
「ロシアンティーを作る時にね」
美由紀さんは棚から小瓶を取り出した。
「現地ではジャムを紅茶に溶かしたりはしないらしいけど。今度飲んでみる?」
「あまり紅茶って飲む習慣がなくて」
「試してみれば? 好きになるかもよ」
思えば珈琲ばかり飲んでいる。新たに行動を取ろうとしても必ず強い力が後ろから引っ張る。たかだか飲み物一つにしても、この有様だ。
「そうですね。今度チャレンジしてみます」
美由紀さんは壁時計をちらりと見た。
「ちょうどパンが焼き上がる頃ね。あと申し訳ないけど、七時頃に戻って来てもらっても良い? 今から友人が来るのだけど、何だか込み入った話みたいでね。今度、美味しい手料理をごちそうするから」