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絵蓮と由香里①

「それでは急いでこちらに向かって下さい」

 絵蓮は電話を切ると、ビルの二階の窓から身を乗り出して外を眺めた。左側は緩やかな上り坂となっている。絵蓮は坂道の頂上にスーツ姿の男が立っているのを確認すると、今度は正面に伸びる道を見据えた。ビルは曲がり角の外側に建っている。 どうやら進行を妨げる障害物はないようだ。

 この坂を自転車で駆け下りてくる男がいる。自転車で帰宅する時は、必ずこの道を通っており、通るルートや速度、時刻はいつも同じだ。さぞかし変わり映えのない平凡な日々を送っていることだろう。

 ここまでは計画通りだ。ただ一つの誤算を除けば……。

 絵蓮は店内に意識を傾けた。アンティーク調のテーブル席に若い女性が一人座っている。姉の由香里だ。姉は椅子に腰かけたまま、ゆっくりと店内を見回している。店の雰囲気を味わっているのではない。店内に配置された雑貨類や装飾品を一つ一つチェックしているのだ。自慢のアンティークを活かすようにレイアウトには趣向を凝らしたつもりだが、果たして姉は気に入ってくれるだろうか。

 絵蓮はティーカップをコトンとテーブルの上に置いた。

「急にごめんね、絵蓮。近くまで来たものだから」

「ううん。大丈夫。それよりこの店の改善点、もう見つけた?」

 姉には店をオープンするにあたり、様々な所をチェックしてもらうことになっていた。今日、来るとは思わなかったが……。

「全体的に雑然としていて纏まりがないように見えるかな。お客さんに、特に見てもらいたいものって何かある? それをテーブル席から見て一番目立つ所に置いて、それから残りの小物類を配置していったらどうかな」

 姉は棘のない柔らかな話し方をする。私とは大違いだ。

「色もバラバラに配置するよりは、ある程度纏めた方が統一感を出せそう。そして奥行きを出したいのなら、手前にある小物類を暖色系にして、奥を寒色系で纏めると良いかもね」

 姉のアドバイスはいつも的確だ。姉のような人間を相手に正面から挑んでいては、とてもではないが勝ち目はない。そう確信したのは、結婚式場で働く姉を見てからだ。

 友人の結婚式に参列した時のことだ。友人とはいえ他人の結婚式なんて興味が湧かない。退屈に感じて姉の仕事振りをぼーっと眺めていた。

 結婚式の裏側では様々なトラブルが生じる。しかし姉はそのトラブルを予め想定していたかのように迅速に対応していった。決して周囲に対してヒステリックになるわけでもなく、高圧的な態度を取るわけでもない。楽しそうに終始笑顔で対応していたのだ。見かけだけが綺麗な友人のウエディングドレス姿より、姉の方が断然、輝いて見えた。だけどウエディングプランナーの仕事に憧れることはなかった。華やかな仕事とはいえ、私が華やかになれるわけではない。姉のように他人の為に尽くしたいとも思えなかった。

「この紅茶、優しい匂いがする」と姉が言った。

 甘い微香が鼻腔をくすぐる。

「それはアプリコットとローズのフレーバーティーにシナモンを少しだけ加えたものよ」

「なるほど。このシナモンがスパイスとなって、甘さを引き立てているってことか。それにしても、このティーカップ、お洒落ね」

 姉が絵柄を眺めながら言った。

「趣味で集めていた物を店に持ってきたのよ。本物のウェッジウッドのティーカップ。使うなら本物の方が良いかと思って」

 食器棚には白で統一されたティーカップが並べてある。すべて貰った物だ。

「本物なの? 高価な物なら割らないように慎重に扱わないと」

 そう言って姉はナッツを一粒摘まんで口の中に入れた。コリっと小さな音がする。

「割れても別に良いかなと思って。他の物に取り替えたら良いだけだし」

「そっか。ところで音楽は何をかけるの? クラシック?」

 店内の静けさが気になったのだろうか。外で車が走り抜ける音が聞こえるほど、この辺りは静かだ。

「それがまだ決めてなくてさ。クラシックとか興味ないし。静かめの音楽をかけるつもりだけど、何が良いのかさっぱり」

 そう言いながら絵蓮は窓に近づいて行った。そろそろ、あの男が来る頃だ。

「そこから何か見えるの?」

「ううん、別に何も。本当に静かだなと思って」

 スーツ姿の男は、まだ坂の上にいる。深緑色の車が坂の下に停まった以外は何も変わらない。車は坂の上からは見えない位置にある。

「お姉ちゃん。そのティーカップに描いてある花だけど、何の花か分かる?」

「花はあまり詳しくないから」

 姉は小首をかしげた。

「その花はワイルドストロベリーと言って、幸せを運んでくれるのよ」

「花言葉? 絵蓮は幸せになれそう?」

「今のところは。やっと店を持つことができたからね。だけど全然、満たされない。お姉ちゃんはどうなの?」

 姉は首を横に振った。意外な反応だ。

「仕事をしている時、充実しているように見えたけど」

「そう見えるだけよ。別に嫌いな仕事じゃないけど、本当にやりたいことは他にあるから」

 これ以上、姉は何を手に入れたいというのか。私と違って恵まれた人生を歩んでいるはずなのに。

「お姉ちゃん、これも幸せを運んでくれるらしいよ。一つあげようか」

 棚に置いてあった縫いぐるみに触れた。

「何それ。ペンギン?」

「ううん。白ふくろう」

 クリっとした丸い目をした縫いぐるみが、首を傾けてこちらを見ている。

「私はそういうの、あまり信じてないんだよね」

 地に足を付けて生きている姉らしい。そんなものに縋りはしないだろう。二人で白ふくろうを見つめていたその時、車のエンジン音が聞こえた。急いで窓の外を確認する。

「どうしたの? 絵蓮」

 姉の声を無視して窓から身を乗り出し、腕を左右に大きく振った。それを合図に坂の下にあった深緑色をした車が動き出す。

ガシャン!

 衝突音が耳に飛び込んできた。

「大変。事故が起きたみたい。私ちょっと行ってくるね」

「えっ? 私も行くわ」

「わたし一人で大丈夫。お姉ちゃんはここで待ってて。誰かが店にいないと困るのよ」

 そう言って、急いで階段を駆け降りた。

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