「それでは急いでこちらに向かって下さい」
絵蓮は電話を切ると、ビルの二階の窓から身を乗り出して外を眺めた。左側は緩やかな上り坂となっている。絵蓮は坂道の頂上にスーツ姿の男が立っているのを確認すると、今度は正面に伸びる道を見据えた。ビルは曲がり角の外側に建っている。 どうやら進行を妨げる障害物はないようだ。
この坂を自転車で駆け下りてくる男がいる。自転車で帰宅する時は、必ずこの道を通っており、通るルートや速度、時刻はいつも同じだ。さぞかし変わり映えのない平凡な日々を送っていることだろう。
ここまでは計画通りだ。ただ一つの誤算を除けば……。
絵蓮は店内に意識を傾けた。アンティーク調のテーブル席に若い女性が一人座っている。姉の由香里だ。姉は椅子に腰かけたまま、ゆっくりと店内を見回している。店の雰囲気を味わっているのではない。店内に配置された雑貨類や装飾品を一つ一つチェックしているのだ。自慢のアンティークを活かすようにレイアウトには趣向を凝らしたつもりだが、果たして姉は気に入ってくれるだろうか。
絵蓮はティーカップをコトンとテーブルの上に置いた。
「急にごめんね、絵蓮。近くまで来たものだから」
「ううん。大丈夫。それよりこの店の改善点、もう見つけた?」
姉には店をオープンするにあたり、様々な所をチェックしてもらうことになっていた。今日、来るとは思わなかったが……。
「全体的に雑然としていて纏まりがないように見えるかな。お客さんに、特に見てもらいたいものって何かある? それをテーブル席から見て一番目立つ所に置いて、それから残りの小物類を配置していったらどうかな」
姉は棘のない柔らかな話し方をする。私とは大違いだ。
「色もバラバラに配置するよりは、ある程度纏めた方が統一感を出せそう。そして奥行きを出したいのなら、手前にある小物類を暖色系にして、奥を寒色系で纏めると良いかもね」
姉のアドバイスはいつも的確だ。姉のような人間を相手に正面から挑んでいては、とてもではないが勝ち目はない。そう確信したのは、結婚式場で働く姉を見てからだ。
友人の結婚式に参列した時のことだ。友人とはいえ他人の結婚式なんて興味が湧かない。退屈に感じて姉の仕事振りをぼーっと眺めていた。
結婚式の裏側では様々なトラブルが生じる。しかし姉はそのトラブルを予め想定していたかのように迅速に対応していった。決して周囲に対してヒステリックになるわけでもなく、高圧的な態度を取るわけでもない。楽しそうに終始笑顔で対応していたのだ。見かけだけが綺麗な友人のウエディングドレス姿より、姉の方が断然、輝いて見えた。
だけどウエディングプランナーの仕事に憧れることはなかった。華やかな仕事とはいえ、私が華やかになれるわけではない。姉のように他人の為に尽くしたいとも思えなかった。
「この紅茶、優しい匂いがする」と姉が言った。
甘い微香が鼻腔をくすぐる。
「それはアプリコットとローズのフレーバーティーにシナモンを少しだけ加えたものよ」
「なるほど。このシナモンがスパイスとなって、甘さを引き立てているってことか。それにしても、このティーカップ、お洒落ね」
姉が絵柄を眺めながら言った。
「趣味で集めていた物を店に持ってきたのよ。本物のウェッジウッドのティーカップ。使うなら本物の方が良いかと思って」
食器棚には白で統一されたティーカップが並べてある。すべて貰った物だ。
「本物なの? 高価な物なら割らないように慎重に扱わないと」
そう言って姉はナッツを一粒摘まんで口の中に入れた。コリっと小さな音がする。
「割れても別に良いかなと思って。他の物に取り替えたら良いだけだし」
「そっか。ところで音楽は何をかけるの? クラシック?」
店内の静けさが気になったのだろうか。外で車が走り抜ける音が聞こえるほど、この辺りは静かだ。
「それがまだ決めてなくてさ。クラシックとか興味ないし。静かめの音楽をかけるつもりだけど、何が良いのかさっぱり」
そう言いながら絵蓮は窓に近づいて行った。そろそろ、あの男が来る頃だ。
「そこから何か見えるの?」
「ううん、別に何も。本当に静かだなと思って」
スーツ姿の男は、まだ坂の上にいる。深緑色の車が坂の下に停まった以外は何も変わらない。車は坂の上からは見えない位置にある。
「お姉ちゃん。そのティーカップに描いてある花だけど、何の花か分かる?」
「花はあまり詳しくないから」
姉は小首をかしげた。
「その花はワイルドストロベリーと言って、幸せを運んでくれるのよ」
「花言葉? 絵蓮は幸せになれそう?」
「今のところは。やっと店を持つことができたからね。だけど全然、満たされない。お姉ちゃんはどうなの?」
姉は首を横に振った。意外な反応だ。
「仕事をしている時、充実しているように見えたけど」
「そう見えるだけよ。別に嫌いな仕事じゃないけど、本当にやりたいことは他にあるから」
これ以上、姉は何を手に入れたいというのか。私と違って恵まれた人生を歩んでいるはずなのに。
「お姉ちゃん、これも幸せを運んでくれるらしいよ。一つあげようか」
棚に置いてあった縫いぐるみに触れた。
「何それ。ペンギン?」
「ううん。白ふくろう」
クリっとした丸い目をした縫いぐるみが、首を傾けてこちらを見ている。
「私はそういうの、あまり信じてないんだよね」
地に足を付けて生きている姉らしい。そんなものに縋りはしないだろう。二人で白ふくろうを見つめていたその時、車のエンジン音が聞こえた。急いで窓の外を確認する。
「どうしたの? 絵蓮」
姉の声を無視して窓から身を乗り出し、腕を左右に大きく振った。それを合図に坂の下にあった深緑色をした車が動き出す。
ガシャン!
衝突音が耳に飛び込んできた。
「大変。事故が起きたみたい。私ちょっと行ってくるね」
「えっ? 私も行くわ」
「わたし一人で大丈夫。お姉ちゃんはここで待ってて。誰かが店にいないと困るのよ」
そう言って、急いで階段を駆け降りた。
日は沈みかけ、街灯がぽつりぽつりと灯し始めている。湿気を帯びた生暖かい空気が肌に纏わりつく。
絵蓮は、まず地面に倒れている男を確認した。もう車は過ぎ去ったというのに、顔を上げたまま坂の上を呆けた顔で見つめている。絵蓮はその男を一瞥し、今度は街の様相を伺った。今のところ事故に気づき、騒ぎ立てる者はいない。この付近のビルは会社やテナントで占められている。夕方以降は帰宅している人が殆どだ。日中の騒音が嘘のように静かになり、閑散とした町になる。
絵蓮は男の元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
男の顔を心配そうに覗き込んだ。苦悶の表情を浮かべている。
「大丈夫だと思います」
まるで他人事だ。気が動転しているのだろうか。まだ自分の身に何が起きたのか理解していないのかもしれない。男は顔を歪めながらも、ゆっくりと立ち上がった。この様子を見る限りでは、骨を折るなどの重傷は負っていないはずだ。
「だけど酷いですね。さっきの車。乱暴な運転をするなんて」
きっと男は憤っているに違いない。そう思って男の不快な気持ちに寄り添う素振りを見せた。まずは、この男との距離を縮めなければならない。
「いえ、僕が悪いんです。いつもこの辺りは車が通らないから油断してしまって。あの……窓から手を振って、車が来ることを教えてくれた人ですよね。せっかく教えてくれたのに、すみません」
この男には感情がないのか。これだけ酷い目に遭ったというのに……。絵蓮は男から不気味なものを感じ取ったが、その感情を抑えて近くのパラソルを指さした。
「あの場所に休憩所があるので、休まれてはいかがですか」
道路を渡った向こう側に広場があり、そこにパラソルとガーデンテーブル、そして椅子が設けられている。観光客用として設置された休憩所だ。
男が立ち上がり、道路に散らばった画材道具を拾い集めようと腰を屈めた。
「私がやるので、あそこで休んでいて下さい」
この男に任せていたら日が暮れてしまう。このような案件は早く終わらせるに限る。
男は言われるがまま、休憩所に向かった。足を引き摺ってはいるが、なんとか歩くことはできている。絵蓮は男から視線を外すと、地面に横倒しになっている自転車を起こした。フレームが大きく曲がりくねっている。思っていたよりも衝撃が強かったようだ。自転車がクッションの役目を果たさなければ、あの男は大怪我をしていただろう。
地面に飛び散った画材道具を拾い集めて自転車の籠に放り込み、男のショルダーバックを背負って休憩所に向かった。パラソルの向こう側に野次馬たちの姿が見える。事故に気づいたようだが、所詮は野次馬だ。見ているだけで誰も手を貸そうとはしない。誰だって面倒事に首を突っ込みたくはないのだ。
自転車をビルの壁に立てかけて、男の隣に座った。
「お怪我はありませんでしたか?」
足を引き摺りながらとはいえ、ここまで歩いたのだ。問題はないはずだ。
「少しだけ痛みますけど、大丈夫です」
「それは良かった」
絵蓮は微笑みかけて、安心したことを表情で伝えた。本音を言えば、警察沙汰にさえならなければ良いのだ。
「絵をお描きになるのですね。私も絵が好きなんですよ。よく美術館にも行きますし。どのような絵を描くのですか?」
本当は芸術なんて興味はない。ここは合わせておこう。
「風景画しか描かないです。人物画はどうも好きになれなくて」
それはそうだろう。人に興味があるようには見えない。描きたい気持ちにはならないはずだ。
「風景画ですか。どちらかというと、私も人物画より風景画の方が好きなんですよ。あっ自己紹介をするのを忘れていました。私、絵蓮と言います。よろしくね」
「僕は楓月です。佐藤楓月と言います」
名前と簡単なプロフィールくらいは既にチェックしている。
「ここで会えたのも何かの縁ですね。神様に感謝しないと。お互いに価値観が合いそうですし、仲良くなれたら良いですね」
小首を傾けて微笑み、男を見つめた。積極的に行かなければ、この手の男とは直ぐに縁が切れてしまう。絵蓮は更に切り込んでいった。
「絵を描き始めたきっかけは何ですか? 誰かの影響とか?」
「父の影響だと思います」
楓月の父親は既に亡くなっている。これもリサーチ済みだ。
「お父様はどのような絵を描いていたのですか。私、凄く興味があります」
「いえ、父は絵を描いてはいません。よく父と一緒に夕日を見ていたので、その影響で夕日を描くようになっただけなんです」
この男は何を言っているのか。父は絵を描いていない? はぐらかしているのだろうか。
「お父さんは絵を描いていなかったのですか?」
「描いていたなんて、そのような話は一度も聞いたことがないです」
どういうことだろう。聞かされた話とは違っている。この男は、あの『人生を変える』絵の持ち主ではないのか……。
「でも楓月さんが生まれる前まで絵を描いていたのかもしれませんよ。母親が絵を保管しているとかでは?」
「それは絶対にありません。あの人は父のことを忌み嫌ってますから」
あの絵は希少価値が高い。そう易々と手放すはずがない。きっとどこかに保管してあるはずだ。
「いけない。そろそろ帰らなきゃ」
男に分かるように、わざとらしく腕時計を見た。今日はこの辺りにして、また出直そう。
「それでは楓月さん。またお会いしましょう」
そう言って絵蓮は男の手にそっと触れた。
あいつに何と説明すれば良いのか。絵の存在を知らなかったと伝えても信じないだろう。絵を独占するつもりだと疑ってくるはずだ。何としてでも絵の在りかを突き止めなければならない。
姉の由香里が二階の窓からこちらを眺めている。頭の切れる姉のことだ。怪しんでいるに違いない。今後の活動に支障が出ないように、上手く誤魔化しておこう。
辺りはすっかり薄暗くなっている。楓月は苦痛に顔を歪めながら、無造作に自転車の籠に放り込まれている画材道具を一つ一つ丁寧にショルダーバッグにしまい込んでいった。
―─あれっ? ポーチは?
この辺りは綺麗に清掃されている。落ちていたら見つかりそうなものだが。辺りを見回しても、どこにも見当たらない。一体、どこにいったのか。
行きかう通行人の中、こちらの様子を窺っている野次馬たちの姿が見えた。仕事帰りのサラリーマンや買い物帰りの主婦たちだ。傍らにある壊れた自転車を見て、何かが起きたのだと察したのだろう。だけど憐んで欲しくはない。
肩と腰に鈍い痛みが走っているが、この程度なら何とかなりそうだ。金属が擦れ合い、甲高い音が清閑な住宅街に響き渡る。いつも通っている道で事故に遭うなんて……。本当に僕は運が悪い。
歩いていると小さな光が次々と目に飛び込んできた。歩道に散りばめられたガラスの破片が街灯の光を跳ね返している。僕は光を見ながら歩いた。一時的とはいえ、光が痛みを忘れさせてくれる。