「この前のお礼だけど」
自宅に戻ると私の家の扉の前にはジルがいた。こちらに気づくと腰を上げた。見慣れたはずの顔は以前よりもだいぶ上に見える。
「私は約束したおぼえはないけれど」
バッカスの言葉が頭をよぎったが今更話せるはずもなく適当にあしらって鍵穴に鍵を差し込んでドアノブをまわす。
「あんた、あのままだったら死んでたんじゃないかなぁ。それにベットに隠してる銃、あれ申請してないだろ」
「あなたもしかして」振り返って顔を仰ぎ見ると男は飄々と続ける。
「ああ、この前部屋に入った時見たけど?それより気になるんだけど、あんたのそのにおいはなんだ?」
「におい?」
「あんたなにかつけてるだろ?」
「そんなこと言われても私香水とかつけてないから、ってなにするのよ」
「かいだ方がはやい」
男は私の首に顔をうずめてにおいをかいできた。
驚いて後ずさると「動くな」背中に両腕をまわされ動けなくなる。髪を手で持ち上げられ頸があらわになりそこにも触れていく。
「ねえもういいでしょ」
彼が触れるたびに唇も触れて喉がひくつく。
「駄目だ」
それから首元胸元へと滑り落ちてそれからまた首元へ戻った。
「やっぱりこのあたりからする。本当になにもつけていないのか?」
「ええ、まったく」
「じゃあ、これはあんたのにおい、か?」
なんなのよ。前はこんなことしなかったくせに。
「あ、またにおいが強くなった」
「もういいでしょ。離して、はやく」
「やだ」
「はあ?」
「あんたひとりだったよな」
私が小さくなったのとこの男の無駄に高い身長が相まって見下ろされているようで萎縮しそうになりつつも答える。
「…………そうだけどそれがあなたとなんの関係があるのよ」
「じゃあ俺と一緒に寝てくれないか?」
「……誰と誰が」
「俺とあんたが」
聞き間違いかと思ったけれどそうじゃないらしい。
「私じゃなくても一緒に寝てくれる人はいるんじゃないかしら」
「……ああ、なんだ聞いてたのか」
「聞いてるんじゃなくて聞こえてくるのよ馬鹿」
「……彼女たちでは無理だ」
「無理って?」
「俺、寝れないんだよ。だから溜まったものでも吐き出せば眠れるんじゃないかとも思ったがちっとも眠れやしない。だから困ってたんだけど、あんたとなら眠れるような気がする」
「……どうしてよ」
「なんとなく。あんたのにおいをかいでると落ち着くから」
彼の顔には隈がくっきりと浮かび上がっていた。どうやら嘘ではないらしい。
「わかったわ。じゃあそれでこの前のことはちゃらにしてよね」
「助かる。ありがとう」
「わ、もういちいち抱きつかないで」
「はぁ。これで眠れる」
「わかった。わかったから離れなさい」
「嫌だ。俺はもう寝たいんだ」
そう言うと抱き上げられて彼の家へと入っていく。廊下を進んで突き当たりの扉を潜り抱きとめられていた身体が放り出される。目を閉じるが予想していた痛さはない。変わりに石鹸の入り混じったにおいが鼻腔をくすぐった。抗議の声を上げれば眉根を寄せた男の顔が近づく。
「……うるさい、黙」
うるさいと言う割には言葉を言い終える前に彼は眠りに落ちていった。
次に目を覚ました時、私はまだ彼の部屋にいて彼の抱き枕となっていて思わず上がりそうになった悲鳴を呑み込んでから彼と交わした言葉を思い出す。カーテンの隙間からは光が差し込んで彼の髪を光り輝かせている。あれからどれくらい眠っていたのか。私も連日睡眠が浅かったから眠ってしまったんだろう。彼の寝顔を見ていると眠れないなんて言葉が嘘のように感じる。どうしてこんな馬鹿なことに協力したのかとため息を吐いて彼の腕を解いてソファーから出ようとしたら身体を引き戻されてシーツに包まる。
「なに。もう行くの」
彼の掠れがかった声が首元にかかりくすぐったくて身じろぐとお腹へと回された腕によって引き寄せられた。
「もう済んだでしょ」
「まだ。もうちょっと」
密着した身体とは対照的な柔らかい声に身体が固まる。
ため息を吐いて、そのままでいることに同意した。
どうせ今回限りだし。少しくらい構わないわよね。
彼の部屋は私の部屋を鏡写しにした間取りだった。
必然的に寝転んだソファーからは簡易キッチンが見える。
あまり使っていないのか綺麗に片付いていた。
心が伴ってこそ真の実力が発揮されると常々口にしては食事や睡眠や運動、メンタルヘルスにもうるさい人だったのに彼の部屋は必要最低限のものしかなく生活感が感じられず以前の彼とは正反対に見えた。
寝息が聞こえた頃身体を起こしてソファーから滑り出て机に投げ捨てられた鍵を手に取り外に出ると施錠してからポストに鍵を入れた。
これでちゃらよ。
もうこの部屋に入ることもない。
隣の扉の鍵を開けて中へと入る。
シャワーから出ると電話が鳴った。
バッカスだ。
「そう、わかった。今向かうわ」
どうやら調べがついたとのことだった。