どうしてあんな馬鹿なことをしたんだろう。
最期に彼に伝えた言葉を後悔していた。
火薬と煙のにおいと遠くの方からは火の爆ぜる音と背にした地面からは振動が伝わってきていた。
彼の震えた怒鳴り声が遠のき視界が暗く閉ざされ次に意識を取り戻すと頬をつけた枕の感触のちがいに瞼をあげた。
病院にしてはにおいがちがう。
目を覚ました時、世界は戻っていた。
より詳しく言えば元の世界に私がいた。
死んだはずなのに、それなのにどうして私はやり直しているのだろう。
──なにやってんの。まだ帰らねえの?
それから問題だったのが隣の住人がよく知った人物だったことだ。
向こうは私を知らないけど私は彼をよく知っている。
彼と私は相棒だった。
情報機関に属し時間を共にしていた。
あの日彼が私を殺すまでは。
私は裏切り者だった。
そういう立ち位置にいた。
だから彼にそれを知られた時、私は殺されたのだろう。
確かに撃ち殺されたはずなのに私はこうしていま生きている。
ちがう人間として。
これは私じゃない。
私の髪は金色で目は緑だった。
見慣れない部屋の鏡に映る「私」の黒髪は癖っ毛で青い目をしていて私だった頃の面影さえない。
もし、私がオリビアだと知ったら彼はどんな顔をするのかしら。
そんな機会があることはないけれど。
それに気になることがある。
オリビアとして知っていた彼は愚直な男だったはずだ。仕事に邁進し浮いた話など聞いたこともない。まあそれは私の知らない彼の一面だったのかも知れないけれど。
みたところ仕事も辞めたのだろうか。
今日も変わらず壁の向こうから飛び出たハートマークを振り払う。
私には関係ないけどこうも毎晩は困る。
あの馬鹿。ほんと最悪。
ベットから滑り出て鍋を火にかけてカップに熱湯を入れて紅茶を煮出していく。
窓を開けてベランダにでる頃にはカップの中は赤茶色になっていた。
椅子に腰掛けてひといきつく。
あ、こっちの方が音聞こえない。
喉を伝っていく紅茶のあたたかさと鼻に抜けるベルガモットの香りを感じてカップから口をはなして息を吐き出すとあたたかさからか虚空に息が白く見えた。
はぁ。落ちつく。
冬も深まってはいたが構造上風が吹きこまないからかこうしてお茶をするくらいならば大丈夫なようでこうして飲む紅茶が日課になりつつある。
しばらくすると壁を隔てた向こう側で窓の開いた音と靴を突っ掛けた音が届いた。
隣の男だ。
どうやらひとりらしい。
どこか気まずくて息を潜めて様子をうかがっていると先程とは逆に音が巻き戻り室内へと男が戻って行って息を吐き出した。
「……ジル?」
目を開けた時、見慣れつつある視界にある意味見慣れた金色の頭髪からのぞく青色をした瞳と目があった。
「あなたここでなにして……」
「隣からなにかが倒れるような音がしてのぞいてみたら君がベランダで倒れてたから入らせてもらった」
「……そう」
「ああ、起きるな」
悪いが使わせてもらったと渡されたカップには紅茶が淹れられていて口をつけた。
「……それよりどうして俺の名前を?」
前髪の間から向けられる男の無表情な視線に心臓がひやりと跳ねる。
「毎晩あれだけ名前を連呼してたらいやでもわかるわよ」
カップの中に視線を落とすと、あーなんだ聞こえていたのか。とどうでもいいことのように答えて話を続けた。
「だったら君の名前も教えてくれるか」
「………………私は、オリビア」
「……オリビア?」
「そうよ」
彼の口が告げた自身の名前に胸がきゅっと詰まった。
なにか気づいたりしないかと願ってみたものの「ありきたりな名前だな」彼は鼻で笑ってそう口にしただけだった。
「悪かったわね。助けてくれて感謝してるけど、あなた彼女を放っといていいの?」
これ以上彼と同じ空間にいたくなくて話を逸らした。
「べつにどうでも、」と言葉を切って少し考えるように目を動かして「あんたが今度お礼をしてくれたらそれでいい」と答えた。
「……それ、普通助けられた方が口にする言葉でしょ」
「こうして知り合ったのもなにかの縁だろ」
縁、ね。
不意に伸ばした彼の手が頬に触れた。近づいた距離に驚いて固まると「なにか考えとくから。またな、オリビア」ベランダの手摺りに足をかけると壁を越えて自身の家へと帰って行った。