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第15話 琴音の如く放たれた矢

 これまでずっと虐待を受け、馬鹿にされ続けてきた吒枳たき。優しくされた覚えもなければ、自分のために何かをしてくれたこともない。ゆえに、この温かい想いに触れ、どう厚意に応えていいのか分からないでいた。


「だったら、そうねえ……どうしてもお返しがしたいっていうのなら、私の代わりにお茶を汲んできてくれると助かるわ」

「お茶をですか?」


「ええ、今日は急いでいたからね、水筒を持ってくるのを忘れちゃったのよ」

「なるほど、そういう事だったのですね」


「けど斎堂食堂までは少し距離があるわよ、それでも大丈夫?」

「はい。伊舎那いざなさんの頼みとあれば、すぐにでも行ってきます。なので、食べながらゆっくり待っていて下さい」


 この二人のやり取りを不思議に思いながら眺めていた楼夷亘羅るいこうら。というのも、吒枳たきの位置からは見えなかったが、風呂敷の奥には確かに水筒が入っていた。


「ありがとう吒枳たき、焦らなくていいからね」

「はい、では行ってきます」


 こうして、吒枳たきは嬉しそうに斎堂食堂へ向けて走って行った……。


伊舎那いざな、さっきのはどういうこと?」

「さっきのって、水筒のことよね」


「そうだよ、なんで水筒があるのに行かせたの!」

「あのね、よく聞いて楼夷るい


「あんまりだよ、伊舎那いざなはそんなことする人じゃないと思ってたのに」

「お願い聞いて、楼夷るい


「あれじゃあ、吒枳たきが可哀想じゃん!」

「いいから聞きなさい! あるところにね、長い間ずっと使われていない扉がありました。扉は古く傷ついているためか、強く引っ張っても固く閉ざされ動こうとしません。じゃあ、どうすれば開けることができると思う」


「何で扉の話すんの?」 

「いいから答えてちょうだい!」


 水筒のことについて問いかけるも、伊舎那いざなから返ってきた言葉は例えられた扉の話。どのような繋がりがあるのか楼夷亘羅るいこうらは理解に苦しむも、強く返答を迫られ仕方なく纏めた内容を告げる。


「多分、それは扉が軋んでるせいだと思う。俺ならゆっくり引いて開けるけど」

「そうね、楼夷るいのいう通りよ。だからね、吒枳たきの気持ちも同じだと思うの。傷ついた心はすぐには回復することは出来ない。でもね、少しずつ満たしてあげれば、いつか全てを取り戻せるはずよ。時間はかかるかも知れないけどね」


「じゃあ、さっきのって?」

「そうよ、私のために何かがしたい。こう思うのは楼夷るいも同じでしょ。人ってね、与えるだけじゃ駄目なの。時にはね、必要としてあげることも大事なことなのよ」


 伊舎那いざなのためを想い、毎日のように花を摘み取っていた楼夷亘羅るいこうら。過去の自分を振り返り、与えるだけではなく必要とされていたことに初めて気づく。


伊舎那いざな……さっきは酷いこと言ってごめん。俺そんなこと知らなくて」

「いいのよ、楼夷るいは悪くない。だって、吒枳たきを想ってのことでしょ。だから気にしないで」


「うん、ほんとごめん」

「それよりも、冷めるといけないから早く食べましょ」


 こうして誤解が解け、落ち着きを取り戻す二人。自然の景色を楽しみながら、仲良く食事を始めようとする。そんな広々とした空間は、修練には持ってこいの場所。といってもここは、戒律で訓練が認められていない神聖な領域。


 ところが、禁忌とされた庭園で弓の修練をしていた聖人がいた。その者は念を込めた式符を空へ舞い上げ、顕現させた矢で狙い射る。これにより、無数の的を同時に射るため、表情は真剣そのもの。


 最悪の事態も考えられるが、解き放たれた矢はどれも正確に的の中心を射ていた。よって、弓の名手とも思える腕前に、周りにいた者達も大事に至らないだろう。このように安心していたのかも知れない。


 しかし、その式符の一つが風に吹かれ、食事を楽しむ二人の一直線上に並ぶ。


 こうして翼を得た矢尻は、羽根を靡かせ草原を駆け抜ける。そして風を切り草をなぎ倒し、式符を捉えると真っ二つに引き裂いた。この射貫いぬいた状況に、聖人は全身で嬉しさを表現する。


 けれども、喜びは束の間のひと時。勢い留まらぬ鋭い矢尻は、式符を貫き尚も突き進む。これにより、安堵した表情からは血の気が引き、次第に青ざめた表情を浮かべた。何故なら、その先に見えるのは伊舎那いざな楼夷亘羅るいこうらの姿。


 声を上げるも時すでに遅し、矢は伊舎那いざなの眼前に迫りゆく……。


 そんな刻々と近づく未来の惨劇に、愕然と地に膝をつく聖人。この場所で稽古をするには、なにか深い事情があるに違いない。それは他でもなく、僧位の序列に準じた利用制限。これにより、正規の修練場では鍛練をするための時間が限られていた。


 しかし、如何なる理由があるにせよ戒律は守るためにある。


 従って、規則は意味もなく作られる事は無い。不測の事態に備え、所定の場所は存在しているからだ。それを無視したということは当然の報いかも知れない。後悔先に立たず、成り行きをただ見守る事しか出来ないだろう。


 このような状況の中、やがて矢は伊舎那いざなの瞳に突き刺さろうとした……。


 そんな誰もが諦めかけた瞬刻の時――。音もなく顕現された矢尻を素手で掴む楼夷亘羅るいこうら。強く激しく握りしめ、粒子となって消えゆく矢。大法師位だいほっしい伊舎那いざなですら、眼前に来るまで気付きはしなかった。


「るっ、楼夷るいいまのは――」


 目の前に起きた光景が、理解出来ないでいた伊舎那いざな。啞然としてはいるも、理由を確かめるべく声をかけた瞬間――。




「――縮地しゅくち‼」


 虚ろな表情で何かの術を唱える楼夷亘羅るいこうら伊舎那いざなが触れようとした時には存在はなく、周囲を確認すると奇妙な光景が目の前に映る。それはなんと、瞬時に一町100Mもの距離を移動していた。


 さすがに人間離れした状況に一驚する伊舎那いざな。確かに修練を積めば人智を越えた力が手に入る。といっても、高僧でもこれほどの法力を扱える者は見たことがない。


 驚愕した事実に変わりはないが、更に大変なことが今まさに起きようとしいた。その事態というのは…………。


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