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第13話  努々忘れる事なかれ

 后土こうどが言うように、吒枳たきの転倒は修練不足によるもの。周りの院生からも突然崩れかけたように見えた。ところが、実際はそのような事ではなく、足を引っかけ転ばせるところを楼夷亘羅るいこうらは見ていた。


吒枳たき――、大丈夫ですか」

「すみません、先生。大事な教典をまき散らしてしまって」


 永華えいかは心配そうな面持おももちで傍に駆け寄るも、吒枳たきは教典を拾い上げ問題ないと伝える。


「いいのよ、その書は複製品だから。それに本物の教典なら、大僧正だいそうじょう様が大切に保管しているわ」


 院生に手渡されていた書物は複製品。位を得た後に、初めて本来の教典を受け取ることが出来る。とはいえ、中へ書かれている真言は本物。ゆえに、貸し出しは行っておらず講義ごとに回収をしていた。同じく宝珠も模造には違いないが、こちらは院生用に法具師が丹精込めて作った代物。真正宝珠本物の宝珠と比べれば効果は劣るも、貴重であることに違いはない。


 加えていうなれば、教典と違い壊れやすく製作にかなりの時間を要する。そのため、講義用だけに作られた院生専用といえる。こうした用途で使用される宝珠は、半径が一寸三センチほどの小さな球体であった。といえども、技の発動だけなら教典を読み上げることで、誰でも簡単に行える優れもの。ただ、威力には個々の能力が反映されるため、強弱は計り知れないだろう。


 では、本来の宝珠とは如何なるものなのか。それは半径が二寸六センチもあり、掌にどうにか収まる光を帯びた球体。扱うには少し不便ではあるが、破壊力は大きさに比例していた。ゆえに、どんな鉱物から作られるのか興味深く思うも、複製品と同じく見方によっては天然と呼べるかも知れない。つまり、全ての素材が鉱物で出来ているわけではない。


 であれば、一体どのような素材なのか。それは、聞けば気味が悪いと思うかも知れないだろう。何故なら、真正宝珠本物は三種の魔獣から取り出した体の一部。寿命を全うした龍の姿に似た獣の眼球を使用する。ところが、中には生きたままを仕留める密猟者も存在した。


 この行為は違法ではあるものの、悲しいことに減るどころか増える一方。年々、増加する者達で後を絶たない。というのも、新鮮な身体から取り出した眼球は膨大な魔力が宿る。よって、裏で高値の取引がされているという。


 けれど、見つかればそれなりの処置が与えられ厳しく罰せられる。そんな法力を使用する上で必要不可欠な宝珠。熟練者であれば、法具なしでも元素を顕現することが可能であるという。


 こうして全ての院生へ教典が行きわたるのを確認すると、いつものように淡々とした口調で授業を始めていく。このように、永華えいかが講義している最中は静かに行われる。


 何故なら、騒ぎを起こせば説教部屋へ連れて行かれることが確定するからだ。これにより、毎回静まり返った教室の中で、緩やかに時は流れゆく……。


 そんなお通夜のような授業は淡々と続き、やがて正午を知らせる梵鐘の音が十二打正午を告げる。この響きに、終礼の挨拶を待ち遠しく感じる楼夷亘羅るいこうら。口元を緩め、一人奇妙な笑みを浮かべていた。


「えへっ……」


「はい。午後の授業は昼食後に行いますので、午前の部はこれで終わりとします。では、日直の方は終礼の挨拶をして下さい!」


 永華えいかは大きな声で院生達生徒へ呼びかけるも、教室の中は静まり返ったままの状態。周囲の者達は顔を見合わせ不思議そうに囁く。


「おや? 誰ですか、今日の挨拶は?」

「先生、今日の日直は楼夷亘羅るいこうらだと思います」


 一体、本日の当番は誰なのか、首を傾げ周囲を眺める永華えいか。そんな中、一人の院生がぼんやりと外を眺める楼夷亘羅るいこうらを指し示す。


楼夷亘羅るいこうら! なによだれをたらしているのですか、早く終礼を済ませて下さい!」

「――おっとぉ、すみません永華えいか先生。すぐに、終礼の挨拶を始めます」


 永華えいかの声が聞こえないほど、何かを思い浮かべていた楼夷亘羅るいこうら。口元を窺えばよだれを垂らし、襟元はベタベタの状態。どうすればそうした状況になるのか、不思議そうに思う院生達。


 その様子が可笑しいのか、何度も一瞥しては笑う素振りを見せた。こうした中、楼夷亘羅るいこうらは院生達を纏め上げ、終礼の声掛けを行う。これに従うように、周囲の者達も準備を始めた。


「全ての教えに感謝を唱え、全ての人に慈悲を与えよ。この世に生まれた稀有けうな魂、有り難い想い努々ゆめゆめ忘れる事なかれ。――午前の授業、ありがとうございました」


 楼夷亘羅るいこうらの後に続き、この言葉を復唱する院生達。ようやく午前の授業が終わり、安堵の表情を浮かべる。それと同時に、各々は沈黙の授業で凝り固まった身体をじっくりならす。


 こうして終礼の挨拶を済ませるや否や、楼夷亘羅るいこうらは我先にと出口へ向かう。一体、何故そんなにも急いでいるのだろう。すると、お腹の辺りから獣のような可愛らしい鳴き声が周囲を響かせる。


 どうやらお腹が空いていたらしく、何処かに向かうため急いでいるようだ。そんな慌てた様子の楼夷亘羅るいこうらは、せかすように履物を準備していた吒枳たきに声をかける。


吒枳たき、早く行くぞ! いつもの場所で伊舎那いざなが待ってんだから」

「いま終わったばっかりじゃないですか。そんなに急がなくても大丈夫ですよ。それに伊舎那いざなさんも言ってましたけど、朝はいつも遅刻する癖に昼は遅れたことがないって」


「いいから、早くいくぞ!」  

「あぁーっもう、そんなに手を引っ張らないで下さいよ。自分で歩けますから」


 強引に手を引き合い、ある場所へ向かう二人。さすがに昼食時、人が多く周囲はごった返していた。しかし、そんなことはお構いなしの楼夷亘羅るいこうら。草木を掻き分けるように院生達の人混みを縫って歩く…………。

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