こうして虐待に怯えながら生きる生活。手を差し伸べる存在もいなければ、友と呼べる仲間もいない。あるのは壊れかけた心と傷だらけの体だけ。どうして自分だけがこんな目に遭うのか、宗家を憎み、運命を憎み、やがて吒枳の心には闇が覆い黒く染まりかけようとしていた。
――そんな時に現れたのが、運命を左右する仲間達。楼夷亘羅と伊舎那の二人に出会っていなければ、今頃、吒枳の精神は崩壊していただろう……。
「その前に――と、伊舎那に花でも摘んでいこうかな」
「もうー楼夷亘羅たら、また永華先生に怒られるじゃないですか」
「その時は、またよろしく頼むよ」
「えぇー楼夷亘羅の代わりなんて、もう懲り懲りですよ」
冗談交じりに話す楼夷亘羅は、また自分の代役に教典を呼んでくれとお願いする。その理不尽とも思える言葉を受けた吒枳だが、読書が好きなせいもあり満更でもない様子だった。
「あはは、だよな!」
「そうだよ。教典は自分で読まないと意味がないんだよ」
和やかに話しながら庭園を過ぎ去る二人。次の講義に備え、足早に僧院へ戻る。
◆◆◆
暫く歩き、学びの場にたどり着く楼夷亘羅と吒枳。すると、部屋の前には怠そうに二人を待つ后土がいるではないか。そこから窺えたのは、何か言いたそうに笑みを浮かべた姿。
「おい! そこにいるのは、落ちぶれ名家の吒枳様じゃねえか。俺よりも遅く来るとは、いい身分だよなぁー」
「后土さま……」
わざとらしく二人の前に現れ、嫌味な言葉を吐き捨てる后土。これに対して、吒枳は小さな声で呟き俯いてしまう。この様子に苛立ちを覚える楼夷亘羅は、同じように嫌味で威勢よく言葉を放つ――。
「おや? これはこれは、成り上がりの后土様ではありませんか。私奴よりも早くご到着とは、何ともご立派。よほど、お暇な方なのでしょうね」
「――なっ、なんだと‼」
嫌味に対して、皮肉の言葉で返す楼夷亘羅。おどけた顔で話しかけていると、その場に指導者が現れた。
「――楼夷亘羅、后土! 何を外で騒いでいるのですか、詠唱の授業を始めるから早く中へ入りなさい!」
そこにやって来たのは、楼夷亘羅達の担当指導である永華。眉間にしわを寄せ、外にいた理由を尋ねる訳でもなく、一方的に二人を怒鳴りつける。
「はい、只今。――と、言いたいところですが、少々困った事が起きました」
「困ったこと? それは何かしら」
「はい。それほど大した事ではありませんが、永華先生の授業を楽しみに来てみれば、部屋に入ることを拒まれこの有り様。ゆえに、仕方なく自らの部屋へ戻ろうとしていたところです」
「あら、私の授業が楽しみとは嬉しいことを言うわね。それよりも、さっきはごめんなさいね。何も知らないのに、怒鳴りつけてしまって」
前回の件で要領を得たのだろう。楼夷亘羅は永華を上手くあしらい、矛先を后土へと向ける。
「いえいえ、とんでもございません。永華先生の授業が受けれるのであれば、お𠮟りなど喜んでお受け致します」
「いやだわ楼夷亘羅たら、喜んでだなんて」
「おい、楼夷亘羅! さっきから、いい加減な事ばかり言うんじゃねーぞ!」
「はて? 后土様。いい加減な事とは、永華先生の授業が面白くないということですか?」
「はぁ? なに言ってんだ、お前!」
「本当なのですか、后土。私の授業がつまらないというのは?」
「先生、それは楼夷亘羅が勝手に言っている訳で、俺じゃないって」
「何ですか、その口の利き方は! それに、后土はいつもそうやって人のせいにばかり。素直に謝ろうという気持ちはないのですか」
「いや、だから先生、俺じゃないんですって」
「まだいうのですか! 分かりました、そういう態度なら仕方ありません。あとで説教部屋にきなさい」
「説教部屋⁉ ――あっ、いや、先生。すべて俺が悪かったような気がします。だから今回だけは許してもらえないでしょうか」
説教部屋という言葉に敏感な反応を示す后土。一瞬、凍りつくような素振りを見せ、次第に顔が青ざめていく。それほど、教典を読まされるという行為は、苦痛で耐え難いものなのだろう。
「突然、どうしたのですか?」
「あの、やっぱりよくよく考えたら、俺が悪かったです。本当に申し訳ありません」
「まあ……素直に謝るのでしたら、今回ばかりは許してあげましょうか。ですが、次はありませんよ」
「はい、分かりました。くっ……」
后土はよほど悔しかったのだろう。永華に対しては頭を下げていたが、瞳は楼夷亘羅見つめ睨みつけていた。
「じゃあ、楼夷亘羅行きましょうか」
「はい、永華先生」
先ほどの表情とは打って変わって、永華は、にこやかに楼夷亘羅と吒枳の二人だけを教室へ招き入れる。
(――ちっ、楼夷亘羅のやつめ!)
こうして嫌がらせは失敗に終わり、全ての行いは自分へと返ってくる。いわゆる自業自得というやつだった…………。