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第2話 異星の地

 マルスからフォボスへの乗り継ぎの間に姿を見せたマルス惑連の担当官は、良く言えば『可も無し、不可も無し』、悪く言えば『没個性』。

 見るからに気の弱そうな担当官は、明らかにスミス少佐の威圧感に畏縮していた。

 しかし、度の強い眼鏡の奥から投げかけられる視線は、恐る恐る何かを探りだそうとしている。

 血圧はこちらが一歩近づく度に上昇し、心拍数もはね上がっていくのも見てとれる。

 果たしてこの事実を報告するか否か。

 デイヴィットは横目で、隣に立つ試験官氏を見やる。

 が、その視線は、サングラスという形を取ったシールドによって粉砕されてしまったようだ。

「まず、この四十八時間内に起きた情勢の変化を伺いたいのですが。桐原捜査官殿」 

 まったく抑揚の無い声が、スミス少佐の口からもれる。

 さして大きな声ではないのだが、桐原氏はまるで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。

 その額にはいつしか、脂汗が光っている。 

「は……あの……。別段これと言って、好転も暗転もしていません。現在、フォボスの第二地区は、完全にM.I.B.の勢力下に置かれており、マルス機動警察が監視をしておりまして……」

 瞬間、サングラスごしの視線を向けられて、デイヴィットは姿勢を正す。

 そして、一つうなずいた。

 おそらく、桐原の言葉に誤りが無いかどうかの確認であると理解したからだ。

 直接通信が可能な地域に入れば、データベースから情報を引き出すことができるという、宇宙船内で交わされた何気ない言葉を確認するためなのだろう。

 が、当のスミスは、わずかに唇の端を上げて見せてから低く毒の含まれた言葉を吐き出した。

「いっそのこと、Mカンパニーの私設警備隊にも出動を願ったらいかがですか?」

「はあ……それは一体……」 

「一度ですべてのカタがつく。……いや、冗談だ」

 MカンパニーがM.I.Bとマルス惑連双方に何らかの働きかけをしているらしい、というのは、情報局で囁かれている噂である。

 皮肉な笑みを貼り付けたままのスミスとは対称的に、桐原は完全に色を失っている。

 いたたまれないとき、気の毒に思うなどという状況は、おそらくこんなことをさして言うのだろう。

 しばしの沈黙の後、デイヴィットは口を挟んだ。

「あの……失礼ですが、フォボス……現場への到着は、いつ頃になるのでしょうか?」

 ようやく桐原の顔に、安堵の表情が浮かぶ。

 蛇の視界から逃れることに成功した蛙は、手元の資料に目を落とす。

「はい。一二・三〇発の便でフォボスに向かい、宙港から車で一時間程、といったところですので……」

「日没前、ですか。……ところで、交渉場所は先方の指定ですか?」

 が、ようやく訪れた平和に、スミスは冷水を注ぎ込んだ。

 再びの冷笑に、桐原は憔悴しきった顔でうなずく。

 そして、何故そんなことを、とでも言うように首をかしげた。

「失礼。どうして先方がそこを指定したのか気になった物ですから」

「でしたら、Mカンパニーの影響を受けていないからでしょう」 

「と、言うと?」

 今度はデイヴィットの脳裏に、捕まえたネズミをなぶっている猫の映像が浮かんで消えた。

「経営母体はL財閥でしたよね、確か」

 いい加減にしましょうよ、という意味をこめて、デイヴィットは口を挟む。

 なるほど、というように、スミスは再びうなずいた。

「ルナで一、二を争う観光企業ですか。……I.B.との繋がりを強調したというところでしょうか」

 相変わらずその顔には、意地の悪い笑みが貼り付いている。

 そんな試験官と担当官とを、デイヴィットは交互に見やる。

 どうやら、自分の前途はかなり多難らしい。

 そう分析し、彼は深々とため息をついていた。

 このまま放置しておくと、事態は悪化するばかりだろう。

 彼がどうしたものか、と、取るべき行動を模索し始めた時、フォボス行きの便への搭乗を告げるアナウンスがロビーに響いた。

 とりあえずの休戦宣告に、桐原の顔にようやく血の気が戻る。

 かくして彼らは、再び移動のため搭乗口へと足を向けた。


      ※


 フォボスは、ディモスと同じく惑星マルスの周囲を公転する衛星である。

 もともとは岩石の塊だったのだが、マルスがテラから独立するのと前後して、大規模な改造工事が行われ人の居住が可能となった。

 この改造工事の計画立案したのは当時のマルス自治政府であったが、莫大なその費用の大部分はMカンパニーが肩代わりしたというのは、マルス周辺に住む人々の間では公然の秘密である。

 もっともその金のほぼ全額が工事を請け負ったMカンパニー関連企業に流れているのだから、収支のバランスがどちらに向いたのかは、言うまでもない。

 そして、当然のごとくMカンパニーは政府に代わり開発者として、フォボスにおいて独占的に事業を展開した。

 経済・産業面から間接的に支配を行った、という訳である。

 結果フォボスに形成されたのは、マルス(正確にはMカンパニー)無くしては成立し得ない片寄ったシステムだった。

 広大な商品作物生産用に特化された農業プラント、そしてだだっ広い面積を占有するリゾート施設。

 それらはいずれもマルス(主にMカンパニー)の収益のために造られた物であり、住人にとっては何の意味もなさないものだった。

 フォボスの住人達は、日用品一つを購入するのにも、関税と消費税そして輸送費と利潤が上乗せされた、原価の数倍の価格を支払わなければならなかった。

 すべての美味しいところはMカンパニーが持って行く、という寸法である。

 困ったことに、本来であれば介入するべきはずのマルス惑連や政府の高官は、その中立性を失っていた。

 天下りと袖の下を駆使したMカンパニーに骨抜きにされていたのである。

 このような惨状を目の当たりにすれば、M.I.B.でなくともマルスとMカンパニーに一矢報いてやりたい、と考えるのも当たり前なのかもしれない。

 いや、『ヒト』であるからこそ、報いてやりたいと思うのだろう。

 マルス惑連がフォボスの現地警察や住人の協力を得ることに失敗し、テラ惑連本部に泣き付いてきたことが、如実にそれを物語っている。

 マルスとMカンパニー、そしてフォボスの関連資料を精査して、デイヴィットは現状をそう分析した。

 しばしの間窓の外に広がる漆黒に視線を泳がせてから、デイヴィットは一旦自己データベース検索を終了し、マルスで新たに手に入れた資料に目を通すことにした。

 事件が起きたのは、標準時間で数えると三日前、と言うことなる。

 フォボスの限られた大地を無駄に埋めつくす、第二リゾート開発地区が、突然M.I.B.の武力部隊によって制圧されたのである。

 第二リゾート開発地区は、人工ではあるが山々や湖など、その美しい風景を売り物にしており、通称『紅リゾート地区』とも呼ばれている。

 そして、ホテルだけではなく最先端の医療を受けられる病院施設も建設されていた。

 マルスだけではなく、テラやルナ、果てはユピテル衛星連合からも観光客が訪れるほど、その知名度は高い。

 そして、この事件発生時もややシーズンを外してはいるものの、家族連れを中心に多くの観光客がこの地で羽根を伸ばしていたのである。

 事件が起きた時フォボス当局は、人質となった可能性のある人々の名簿を入手し、不謹慎と解りながらも胸を撫で下ろした。

 不幸中の幸い、とでも言うべきか、巻き込まれてしまった人々の中に、いわゆる政府要人やその関係者が皆無だったためである。 

 これでひとまず、国際問題となる可能性は限りなくゼロに近付いた。

 完全にゼロ、と言い切れない理由は、偽名を使ってお忍びでの来訪を視野に入れていたからだ。

 しかし、これで万一の場合には武力による解決という最悪の方法も、選択肢に加えられたのは確かである。

 犠牲者が一般人であれば、見舞金や補償金の額はたかがしれている。

 大変けしからんことであるが、現場指揮官やフォボス駐在領事官の脳裏には、こんな打算的な考えが過ったことだろう。

 人命をそんな風に格付けして計算するやからであるから、M.I.B.から呈示された『法外な高値の身代金』に対して、簡単に首を縦に振るはずがなかった。

 かくして、両者の話し合いは予想通り平行線をたどったまま現在に至った、という訳である。

 机の上に立てれば自立するほど量だけは充実した報告書と資料にざっと目を通してはみたが、新たな発見は別段これといってなかった。

 いや、正確に言うと、再発見はなかったが引っ掛かる点はあった、そんなところだろう。

 こちらに来る船の中で、人質名簿が含まれたファイルを目にしたスミス小佐は、奴らにも見る目がある、と確かに言った。

 けれど、彼が何を差してそう言ったのか、解らない。

 可能性としては、フォボスのお偉方と似たような事を考えたのか、或いは何か重要な何かを名簿の中に見い出したのかのどちらかだろう。

 自分が何かを見落としているのではないだろうか。

 結局そこに行き着いて、デイヴィットは幾度となく名簿を見直した。

 しかしその中に、彼が持つ各政府の要人リストと合致するものは、無い。

「あ、そちらは古いリストですね。その後の確認調査で、キャンセル等が判明しましたので……こちらが最新になります」

 デイヴィットの行動に気が付いたらしい。

 おもむろに桐原は、端末機から打ち出したそのまま、とおぼしきリストを取り出した。

 ありがとうございます、と頭を下げながらそれを受け取り、デイヴィットはざっと目を通す。

 そして辺りをはばからず思わず声を上げた。

「……じゃあ、今現在人質になっているのは、従業員、宿泊客あわせて十六名……ですか? ずいぶん……」

 少ないではないか。

 当然と言えるデイヴィットの問いに、桐原は決まり悪そうに視線を外しながら答えた。

「チェックインのタイミングで難を逃れた方が何名かおりまして。また……大変申し上げにくいのですが、その、施設従業員は常時、こういった事態を想定し訓練を行っておりまして……事件発生後……」

「見事、訓練通りの行動が取れた、という訳ですね。自分達だけは」

「恥ずかしながら、おっしゃる通りです」

 毒を含んだスミスの言葉を、桐原はだがあっさりと肯定した。

 そのやり取りに、デイヴィットはおや、と首をひねる。

 お客を置き去りにして、早々に逃げ出すなどという事態は、表沙汰になればイメージダウンにつながる。

 にもかかわらず、ここまですんなりと認めてしまうのは、一体どういうことなのだろうか。

 そんなデイヴィットをよそに、スミスはおもむろに桐原に向けこう言った。

 失礼ながら、マルスから出向されてきたのですか、と。

 その問いかけに、桐原はやや曖昧な表情を浮かべながら答えた。

「いえ。私は母星からの出向ではありません。現地採用で惑連に入りまして。元々は事務畑なんですが、地元の人間の方が勝手が解るだろう、とのことで担当に回されたんです」

 そういう訳で、不馴れな点があるので申し訳ない、と頭を下げる桐原と、無言のままその様子を見つめる試験官とを、デイヴィットは交互に見比べた。

 桐原は例のごとく気弱げな、どこか捉え所の無い表情。

 対する試験官は相変わらずの仏頂面。

 果たして、双方とも何を考えているのかは定かではない。

 けれど、これだけははっきりと断言できる。試験官氏は桐原に対して、全幅の信頼をおいてはいない。と、同様に、桐原も自分達を歓迎してはいない。

 口を開けば嫌味と皮肉が発せられるスミスならば、そう簡単に他者を信頼しないであろうことは、解る。

 けれど、一見『真面目で小心者』な桐原からどうしてそんな印象を受けたのか。

 更なる分析を試みようとした時、彼らの乗る宇宙船は目的地であるフォボスへ到着した。


     ※


 気まずい沈黙が続く車で、宿泊先となるホテルへ移動すること、しばし。

 ホテルに着くなり、デイヴィットはその居心地の悪さから逃れるため、取り急ぎ手荷物を割り当てられた部屋に押し込めた。

 そして、明日以降の方針を確認すべく、試験官氏の部屋を訪ねる。

 すると、試験官氏は、それまでデイヴィットが抱いていた疑問を裏付けるような発言をした。

「……彼は食わせ者だな」

 突然のことに、デイヴィットは思わず瞬きをした。

 そんな『人間らしい行動』に、スミスは僅かに唇の端を上げたようだった。

 が、いつまでも固まっている訳にもいかない。

 試験官氏が言う『彼』が誰を指すのかは明らかであるが、念のためデイヴィットは確認した。

「『彼』、とは、あの担当官氏ですか?」

 生真面目とも言えるその問いに、スミスは冷たい含み笑いで応じた。

 無論、例のサングラスを外していないのは、言うまでもない。

「君も、妙だとは思ったんだろう?」

 親しみの欠片すら感じられないその言葉に、だがデイヴィットはうなずいた。

 マルスからの出向職員ならばまだしも、現地採用でありながら『祖国』の印象を悪くするような現実をあそこまでためらいもなく口にできるのだろうか。

 何より彼の口調や態度には、事件の被害者に対する同情のような物がまったく含まれていないのだ。

 公僕という立場上、当然の対応と言えるのかもしれないが、桐原氏はれっきとした『ヒト』である。

 意識したとしても、完全に感情を取り去ることは不可能だろう。

 ごく一部の例外を除いて。

「あまり、こちらの手の内を話さない方が良さそうだな」

 そのごく一部に含まれる一人が、おもむろに口を開く。

 桐原氏よりもこの御仁の方が、遥かに食わせ物で遥かに付き合いにくい。

 やれやれ、と『思い』つつも、デイヴィットはずっと引っ掛かっていたことを口にした。

「失礼ですが、少佐殿は宇宙船の中で、『奴らにもなかなか見る目がある』と、おっしゃっておられましたが……」

 サングラスの向こうから無機質な視線を投げかけられて、一瞬デイヴィットは硬直する。

 おそらくこの発言は、マイナス査定になるだろう。

 しかし、このまま知らずに終わる訳にもいかないので、デイヴィットは言葉をついだ。

「一体、何をご覧になったのですか? 差し支えなければ、教えて頂きたいのですが……」

 しばらく試験官氏は無言でデイヴィットを見つめていたが、やがて机上に放り出されていた資料の束を手に取りページをめくりはじめた。

「まずは立てこもりに選んだ場所。病院施設というのは少なからず放射能を利用した機器を持っている。敵が追い詰められそれらに手を出し放射性物質をばら撒いた場合、どうなる?」

「……人質の被爆の可能性。それと放射能汚染の風評被害でリゾートどころではなくなります」

「御明算。加えて彼らは逃げる従業員を深追いせず、人質の数を減らした」

 その言葉に、デイヴィットは一つうなずくと、おとなしくその続きを待つ。

 そんな彼にちら、と視線を向けてからスミスは無機質な口調で続ける。

「人道上理由ではなく人質の数を減らす。可能性として考えつく理由には、なにがあるかな?」

「監視対象の数が少なくなれば、小回りがききます」

「では、この条件を加味すると?」

 言いながらスミスは、資料のあるページを指し示した。そこには、犯人が籠城ろうじょうしているホテルの図面が記載されていた。

「入口の車寄せには、大型バスが横付け可能。屋上にはヘリポート……」

 そこまで口にして、デイヴィットは思わず息を飲む。

 その人間的な反応に、スミスは僅かに唇の端を上げたようだった。

「お察しの通りだ。この人数ならば、バス一台、あるいは輸送用ヘリ一台で籠城場所からの離脱が可能。交渉が長引けば、敵の思うつぼだな」

 まるで他人事のように言い放つスミスを、デイヴィットは唖然として見つめていた。

 その視線をまったく意に介することなく、スミスは更に続けた。

「加えて、彼らが次に立て籠ろうと予想される範囲内には、こんな物がある」

 言いながらスミスは、がさがさと事件現場地区の拡大地図を広げた。

 観光名所となっている山岳地帯と湖畔、そして周辺部分を埋める大規模な商品作物生産プラントが点在しているのが解る。

「さて、仮に君が犯人だとして順当に考えて、ここから離脱した場合どこへ向かうかな?」

 問われると同時に、デイヴィットは地図には描かれていない、フォボスの全域図のデータを引っ張り出した。そして、確認するように、小声でつぶやく。

「北には、Mカンパニーの関連地域。東に宇宙港と首都。東南が……M.I.B.の拠点……」

 それから、デイヴィットは改めて、拡大図に視線を落とす。

 そして、それはある一点で固まった。

「とりあえず補給が必要になるので、本拠地の近くを目指すと思います。ですが……」

 すい、とデイヴィットは地図上に手を伸ばす。

 ホテルから東南へと抜けるそのルートには、湖から流れ落ちる滝と川がある。

「この滝は、プラントの用水路に流れ込んでいます。万一この湖に放射性物質を投げ込まれたら被害は……」

「逃亡中、腹いせにそうする可能性はかなり高いだろうな」

 薄笑いを浮かべるスミス。

 が、デイヴィットは未だ地図を睨み付けていた。

「まあ、それは彼らにとってもその行為はできれば使いたくない、最強にして最悪の切り札だと思うがね。……彼らが本物の愛国の志士であるならば」

 皮肉混じりの笑みを浮かべ、スミスは自らの見解をこう締めくくった。

 そんな試験官氏の様子を見やりながら、デイヴィットはある結論を導き出した。

 この人は、どんなに些細なことにでも嫌味と皮肉を付け加えないと気がすまない性分らしい、と。

 一方、M.I.B.と桐原、その双方の行動には、共通する『違和感』がつきまとっていた。

「……どうかしたかな?」

 サングラス越しに鋭い視線を投げかけられて、デイヴィットは反射的に姿勢を正した。

「いえ……フォボスがどうなっても良いのか、と……」

「と、言うと?」

 どうやら白状するしかないらしい。そう観念して、デイヴィットは切り出した。

「少し解りかねる点があります。桐原捜査官もM.I.B.も『愛国心』を持っているにも関わらず、彼らが繰り返していることは、祖国に対してマイナスにしかなりません」

「少なくとも、彼らは『祖国の現状』を愛してはいないだろうな。口では何を主張しようとも」

 謎かけのようなスミスの返答に、デイヴィットは首をかしげた。

 まあ、君がまだ人間の思考パターンに慣れていないから理解に苦しむのかもしれないが、と前置きをしてから、スミスは再び口を開く。

「おそらく彼らが恋い焦がれているのは、完全に独立を果たした祖国だろう。今のマルスに服従しているそれではなくて」

 母星の前に情けない姿をさらし続ける祖国ならば、いっそのこと壊してしまいたいくらいのことは思っているかもしれないな、と言いながら足を組み直すスミスを、デイヴィットは神妙な面持ちで見つめていた。

 それを意に介することなく、スミスは更に続ける。

「『ヒトの感情』全てがゼロと一で割り切れる訳ではない。可愛さ余ってなんとやら、というやつだろうな」

 その言葉の前半部分が自らに向けられた物であることを、デイヴィットは丁寧に無視した。

 そしてふと、この人はこの一癖も二癖もある性格で、一体何人の同僚及び部下を再起不能にしてきたのだろうか、という、くだらない計算を始めた。

 外見の年齢から推定される勤務年数から導き出されたその人数は、軽く見積もっても両手の指の数を超えた。

「……質問はそれで終わりかな?」

 そのタイミングを見計らっていたかのようにスミスから声をかけられ、デイヴィットはあわててうなずく。

 その様子に、スミスは人の悪い笑みを浮かべて見せた。

「ならば、早く部屋に戻りたまえ。妙な噂を立てられても困るだろう?」

「……はい?」

 笑えない冗談である。

 もっともこの人の場合、どこまでが本気で、どこからが冗談なのかは定かではない。

「了解しました。では、明日」

 だが、これ以上用事が無いのも事実である。

 したがって、この部屋に居座る理由もないし、先ほどの冗談が事実となってしまってはそれこそ洒落にならない。

 デイヴィットは敬礼もそこそこに、真向かいにある自室へと引き取った。 


     ※


 夜は、ほとんどの動物にとって休息を取るための時間である。

 だが、『生命』を持たない『Doll』のNo.21、デイヴィット・ローにとっては、退屈極まりない時間だった。

 理論上、彼らは『睡眠』と言う形の『休息』を必要としない。

 しかし、『ヒト』を装いつつ捜査を行うという建前上、彼らにもそれらしく見せることは可能であり、場合によっては必要不可欠なことだった。

 だが、今日に限っては色々と整理しなければならないことがある。

──怪しまれない程度に夜更かしをしよう。

 そう決めて、デイヴィットは改めてフォボスの惑連のデータベースにアクセスし、事件に関するデータを確認する。

 しかし、残念ながら目立った更新は見られない。

 膠着状態に陥っているのか、それとも彼ら二人に解決を丸投げしているのか、判断しかねるところである。

 そこまで終えた時点でフォボス標準時刻でまだ二十二時を回った頃であるのを確認すると、デイヴィットはカーテンの陰から外の様子をうかがった。

 窓の外に広がる夜の街はテロ組織が横行しているという非常事態下ということもあり、派手なライトアップは控えられていた。

 比較的中心街そして繁華街に近いにもかかわらず、街灯以外の発光元は認められない。

 当然行き交う人や車の姿もほとんど見ることはできない。

 昼間とは異なり、さながらゴーストタウンと言った様相である。

 そんな漆黒の空間に、彼は視線を巡らせた。

 無論、その眼が暗視・遠視モードに切り替えているのは言うまでもない。

『ヒト』には単なる闇にしか見えないその先には、テロリストによって今現在十六名の人質と共に占拠された紅リゾートブロックが認識できる。

 一番高くそびえているのが、最初に襲撃を受けたという、贅を尽くした高級ホテルだろう。

 その脇には、遊園地の遊具が幾何学的に配されている。

 そして、やや離れた所に有るのが現在敵が立てこもっているという病院施設。

 先刻から嫌と言うほど見ていた地図通りである。

 病院内では灯火制限がひかれているのか、無数に有る窓からは一筋の光すら見えて来ない。

 さすがにこれだけの遠距離となると、彼に装備されたサーモグラフ機能は役に立たなかった。

 少し肩をすくめてから、彼はカーテンを閉め、部屋の明かりをつけた。

 浮かび上がったのは、シングルベッドとサイドテーブル、小型の冷蔵庫にやはり小ぶりのデスク。

 どこにでもある無個性なビジネスホテルの風景だった。

 あちらさんも、暗視スコープでこちらを監視している可能性はあるだろうが、知ったことではない。

 何よりそれなら、明かりをつけない方が余計に怪しまれるだろう。

 そして、これだけの距離があれば、それなりの武器でなければ攻撃は不可能だ。

 可能性があるとすれば……。

 そこまで思考が及んだ時だった。

 突然建物全体を、鈍い振動が襲った。

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