「あ」
思わず声が出た。自分がトンデモないミスを犯したことに気が付いたからだ。
「全部入れてしまったか…」
ごうんごうん と回るランドリーマシンの前で、私は一人立ち尽くしている。
全裸だ。
なぜなら着ていたシャツもパンツも靴下も、すべて洗濯の渦中にあるから。着替えはない。雨宿りのために駆け込んだ場所がコインランドリーだったのが悪かった。ずらりと並ぶランドリーマシンを見た時、つい「せっかくだから濡れた服を洗濯しよう」とか思いついてしまったのだ。
何度かランドリーの蓋を引っ張ってみたが、ロックがかかっている。ディスプレーの表示によれば、洗い・すすぎ・脱水・乾燥を含めてあと五十六分待たなければ開かないらしかった。
だが焦ることはない、と思う。
幸いにしてコインランドリー内には現時点で私一人しかいない。他に稼働しているマシンもないから、誰かが洗濯物を取りに来ることもない。もちろん新たに汚れ物を持ち込む利用者が来るかもしれないが、今は平日の真っ昼間。よく知らないけどコインランドリーって、夜とか休日とかに利用者が多いイメージがある。だからまず誰も来ないだろう。
つまりあと56分の間、私が全裸で居座っていようと問題ないのだ。
が、それはとんだ見込み違いだった。
ふと窓の外に目をやると、大きなビニール袋を小脇に抱えて赤い傘を差したおばさまの姿が見えた。通りの向こう側から、まっすぐこちらに歩いてくる。その足取りに迷いはない。距離とおばさまの歩行速度から推測して、およそ九十秒後にはこのコインランドリーに到達するだろう。
マズい、と思う。
周りを見渡しても、裸身を隠せそうなものは何もない。金属製のバスケットならいくつか置いてあるが、金網の目がデカすぎて隙間から丸見えになってしまう。
他にあるのは、小さなショルダーバッグだけ。これなら恥部ぐらいは隠せるかもしれない。しかしよくよく考えてみると、恥部だけ隠せばそれでイイというものではないのかもしれない。それでもじゅうぶん変態だと思うし、一点だけ隠すことでむしろ変態度合いが際立つ結果となるかもしれない。
こうなればおばさまに釈明するしかあるまい。私だって不可抗力で全裸になっているのだから、きっと納得してくれるはずだ。
そんな覚悟を固めかけた頃、私はショルダーバッグの中に小さなボトルが一本入っていることに気が付いた。ラベルには手書きの文字がある。特徴のある右上がりの細い文字。
ステルス・ローション。
瞬間、一つの記憶が助走をつけて、私の脳裏にドロップキックする。
それは上京する日の朝、母が私に持たせてくれたものだった。
「いざって時に使いなさい。きっとあなたを守るわ」
母はあの時そう言った。お守りにローションなんてちゃんちゃらおかしいや、と思ったし、いざって時っていつだよと思っていた。だがこの瞬間、ようやく母の言葉の意味を理解する。
――いざって、今だ。
閃光の如き素早さでボトルをねじ開けると、私は躊躇いなく中身を頭の上にぶちまけた。
ぬらり ととろみのついた冷たさが、私の頭を、耳を、首筋を伝い、肩から全身を包み込んでいく。ローションはぬるぬると奇妙に光を屈折させ、私の裸体はどんどん見えなくなっていく。というよりローションのせいで目がすべって、うまく視認できないのだ。
すごい。
コインランドリーのドアが開いておばさまが入店するのと、私がローションを全身に塗り広げ終えるのがほぼ同時だった。
「え、桃?」
おばさまは怪訝そうな表情で私の立っている場所を見ている。
「いや、おしり…?」
そこで私は気が付いた。臀部へのローションの塗りが甘く、そこだけ見えてしまっているのかもしれない。おばさまが目をこすっている隙に急いでローションを塗り広げると、今度こそ完全に私の裸体は見えなくなった。ついでにショルダーバッグにもローションを塗って、隠蔽工作は完了した。
なおもおばさまは怪訝そうにコインランドリー内を見回していたが、やがて「気のせい」という結論に達したのだろう。自分を納得させるように何度か首を振ると、ランドリーマシンの一つの蓋を開け、洗濯物を投入し始めた。
「おしりor桃のお化けを見たかもしれない」という不安を与えてしまったのは申し訳なかったが、しかし全裸成人男性と遭遇する事態よりはマシだろう。
なんとか間に合った。私はホッと息をつく。
――いや、でも本当に見えていないのか?
本当は私の存在に気が付いているが、変態に遭遇してしまったという現実を認めたくないがために無視している可能性もある。だとすれば私はみじめだ。
確認のため、おばさまの目の前で色々とポーズをとってみる。
まずは両手を突き上げてヴィクトリーポーズ、お次は考える人、無言のままコマネチ、すしざんまいのアレ。それからヨガだ。ハトのポーズ、そして英雄のポーズ。
いずれも無反応だった。そのまままったく私の存在に気付くことのないまま、おばさまはマシンの蓋を閉め、コインランドリーを出て行った。
すごいじゃないか。ステルスローションの効能は本物らしい。
ディスプレーを見るとまだ四十分近くある。
このままじっとしているのも勿体ないような気がして、私は外に出た。雨はもう止んでいて、生ぬるい風が素肌に心地よかった。
ぶらぶらと街を歩きながら、私は奇妙な高揚を感じていた。
いま確かに私は全裸だが、同時に全裸ではない。裸身を誰にも見られていないからだ。そういう意味では服を着ているのと変わらない。
ということは、ふだんの我々も本当は全裸なのだ。それを服を着ているというだけで全裸ではないと言い張っている。まるで虚栄である。何て愚かしいことなのだ。
――結局のところ、人はみな全裸に過ぎないのに…。
悟りの風が心を吹き抜けて、なんだかじん とした。それまでの悩みが嘘みたいに溶け去っていくのがわかった。もしかすると母がステルスローションを持たせてくれたのも、このことに気付かせるためだったのかもしれない。
ありがとう母さん。ありがとうステルスローション。おかげで私はいま、ようやく大切なことに気付きました。
背後から声がして、私は我に返る。
「あっ。バーミヤンあるじゃん」
「ねえよ。王将だろ、ここ」
「あれ?いま桃のマークが見えたような気がしたんだけどな」
青年二人は首をかしげながら歩き去っていく。とっさに身を隠した看板の影で私は歯を食いしばり、口から飛び出そうな心臓を抑えた。
――ローションが乾いてきたのだ。
マズいことになった。乾いたローションでは、もはや目線はすべらない。なんとかして湿らさないと、白昼に全裸で街を歩くことになってしまう。それじゃまるで変態みたいじゃないか。私は良識ある紳士なのに。
焦りと恐怖でどうにかなりそうになったその時、雨が再び降り始めた。それはまさに恵みの雨だった。慈雨だった。愚かな男が公然わいせつ罪で現行犯逮捕されるのをさすがに天は見放さなかったらしい。優しさというよりは、単に人の子の愚かさにドン引きして雨を降らせたのかもしれないが、結果としては同じことだ。ステルスローションはふたたびぬめりを取り戻す。
が、優しさも度を過ぎるとありがた迷惑へと変わる。降り続く雨はやがて、私の体表からステルスローションを洗い流し始めたのである。
――マズい。
あらためて確認するまでもなく、私は全裸になりつつあった。いや元から全裸なんだっけ。とにかくそれが再び露わになろうとしていた。
私は走った。コインランドリーに帰るため、ただ走った。
悟りなどはもうどうでもよかった。「人はみな全裸」なんて言っても通じるわけがない。逮捕だ、普通に。
水たまりに踏み込むと飛沫が上がって、裸身がまだらに見えた。完全に化け物だった。両手を絶えず動かしてローションを塗り広げ続けたが、段々と効き目が薄くなっていくのがわかる。
ふと、ガラスに映った自分の姿が見えた。かつてFlashゲーム全盛期に流行った、ブロック崩しの背景イラストみたいになっている。完全クリアまで秒読みの状況だった。
幸いにして、駆け込んだコインランドリー内には誰もいなかった。洗濯を終えた衣類はふんわりと乾かされて、マシンの中で私の帰りを待っていた。
――ただいま。
ところでこのエピソードを友人に話してみても、しらけるばかりでさっぱりウケない。
そりゃ下品な笑いだから仕方ないのかもしれない。それは認める。でも友人はふだんなら「ズボンのチャックが全開だった」みたいなしょうもない話でも大ウケするようなヤツなのに、どうにも釈然としない。一体何がイケないのだろう。
すべらない、面白い話ではないかと思うのだが。