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第18話 花束②

「あ、嵐山さん!?」


 まさかその場に嵐山龍馬が居合わせていたなど思いも寄らなかった由宇は驚き、腰が抜けた様にその場に座り込んだ。ふと見遣ると玄関先には深紅の花弁が舞い散っていた。


「立てますか?」

「は、はい」


 手を差し伸べると由宇はその手を取って立ち上がり嵐山龍馬の胸に飛び込んだ。


「こ、怖かった」

「はい」

「怖かったです」

「怖かったんですね」

「はい」

「怖かった」


 由宇を抱き締めたその手には深紅の薔薇の花束が抱えられていた。甘くほろ苦い香を嗅いだ由宇が驚きその顔を見上げると嵐山龍馬は少し情けない面差しで「もう2度としません、申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を口にし力強く抱き締めた。


「お部屋に入っても宜しいですか」

「どうぞ」


心の声一同(はぁーーーーーーーー!)


 そして正座をした嵐山龍馬はリビングの床に額を擦りつけた。


「もうっ!申し訳ございませんでした!」

「はぁ」

「もう2度と金輪際あのような馬鹿げた事は致しません!」

「はぁ」

「出来心でした!」

「はぁ、さいざんすか」


「何回なさったんですか」

「さっ、3回です!」

「正直に言わないで下さい!」

「ご、ごめんなさい!」


 床に額を擦り付けたその姿を見下ろした由宇は既視感を覚えた。


 それは初めてこの部屋に由宇が嵐山龍馬をした翌日の朝と翌々日の夕方の事だった。


<申し訳ありませんでした!>


 酩酊した嵐山龍馬は由宇と甘い一夜を過ごしたものだと思い込み、床に額を擦り付け謝罪の言葉を繰り返した。


<粗品ですがお詫びの品です!>


 その手にはGODIVAのチョコレートを2箱持っていた。そして由宇という女性と部下もとふみの母親は分けて考えたいと面倒な事を言っていた。


源文もとふみくんの了承を頂いたら!>

<源文のなんでしょうか>

<結婚を前提としたお付き合いをお願いします!>


 その目は真剣で、自身の記入欄を埋めた婚姻届まで持参した。


<はぁ、結婚はご遠慮いたします>

<お願いします!>

<このままの良い関係でよろしいじゃないですか>

<お願いします!>


 やがて2人は金曜日の晩になると店のカウンターでもやしのひげ根を取り由宇の部屋で熱い夜を重ねる様になった。確かに嵐山龍馬は生真面目で几帳面、根は純粋な人間である事は間違いは無かった。






(本当に憎めない人ね)


 由宇は大きなため息を吐いた。すると嵐山龍馬はビクッと肩を震わせて「申し訳ございませんでした!」を繰り返した。


「宜しいですよ」


 由宇はその肩に手を置いて2回程軽く叩いた。嵐山龍馬は躊躇ためらいながら顔を上げたが頬には青痣、額はカーペットに擦れて赤らみ何なら糸屑も付いている。整った面差しと仕立ての良い濃灰のスーツが台無しだ。


「ーーーゆ、うさん」

「出来心だったのでしょう?」

「はっつ、はい!」

「本当に殿方は仕方の無い生き物ね」

「はっつ、はい!」


 居酒屋の女将ともなれば男女関係の悶着を目の当たりにするなど日常茶飯事だ。しかも寡婦かふの49歳と離婚間際の52歳、若い頃ならばいざ知らず騒ぎ立てる事でも無いような気さえする。


「私も悪かったわ」

「え」

「つまらぬ意地を張って嵐山さんのお申し出を無下むげにしておきながらひとりで騒ぎ立てて恥ずかしいわ」

「そんな、私が悪いんです」


 由宇は厳しい面立ちでその頬を軽く叩いた。


「そうです、悪いんですよ!」

「すみません」


 そこで嵐山龍馬は花弁が醜く落ちてしまった深紅の薔薇を差し出した。


「これ、どうぞ」

「ありがとうございます。今日は桔梗の花ではないのね」

「特別な日ですから、49本」


 由宇の眉間に皺が寄った。


「もう!40、し、死ぬのじゃない!

「そういう訳ではなく」

「しかも9、苦しみの!」

「そんなつもりでは!」


 嵐山龍馬はまた地雷を踏んだ。


心の声一同(やっちまったなーー!)


「それに49歳!もう50歳!大台よ!50歳!」

「そんな意味では!!」


 由宇は罵ったが薔薇の花束の匂いを嗅ぎながら極上の笑みを浮かべた。


心の声A(なんだどうした)

心の声B(なんだか嬉しそうですね)

心の声C(やっぱり美人だな)

心の声D(情緒不安定なんじゃね?)

心の声E(このタイミング!今ですよ!今!)


「ありがとうございます」

「い、いえ」


 嵐山龍馬は一世一代の大勝負に出た。


 差し出した紙はと離婚した事を証明する為に取得した世帯全員の住民票謄本だった。それを受け取った由宇は頷いた。


「おめでとうございます、離婚成立ですね」

「ありがとうございます」


「ようやく所在が明らかになりまして」

「よかったですね」


「印鑑の捺印、面倒臭がられたんじゃないですか」


 嵐山龍馬の視線が左右に泳いだ。


「あーーーーーーそれは」

「あ、そういう事ですか。さいざんすか」


 微妙な空気が漂い次の言葉が何処かに吹き飛んでしまった。


心の声A(どうするよバレたぞ)

心の声B(バレたもなにも、もう3回って言ったじゃないですか!)

心の声C(ほんっと馬鹿だよな、馬と鹿に謝れって)

心の声D(きっと想像してるぞ、あんな事やこんな事)

心の声E(てへ♡)


心の声一同(一生、尻に敷かれる事間違いなし!)


 すると由宇はチェストの棚を開けて見覚えのある薄茶色の枠が印刷された紙を取り出した。


心の声一同(あーーーーーーー!終わりだ!)


 嵐山龍馬は恋が終わる瞬間を悟った。


(終わりだ、もう終わった)


 とのあんな事やこんな事が無ければ嵐山龍馬は南町レジデンス龍馬のマンションを売却し居酒屋ゆうに程近い犀川さいがわ沿いの分譲新築マンションに移り住もうと考えた。ただそれも由宇が望めばの話で居酒屋を畳んでも良いというのならば金沢市郊外に家を建て2人で余生を楽しもうとまで夢を膨らませていた。


「これ、見覚えあります?」

「はい?」


 リビングテーブルには市役所で配布されている手続き順番待ちのレシートが置かれていた。日付は2024年5月17日金曜日、番号は38番だった。先程の戸籍住民課の窓口で嵐山龍馬が手にした番号も38番だった。


「これは?」


 由宇はを笑いを堪えながら語り始めた。


「嵐山さん、婚姻届を離婚届と間違って窓口に出されたでしょう」

「そうです」

「婚姻届を幸薄い茶色だと大暴れ」

「お、大暴れはしていないと思いますが。どうして由宇さんがそれをご存知なのですか」


 由宇はそのレシートのの数字にボールペンで線を足して見せた。になり38番は88番になった。


「ーーーーあっ!」

「その時、知らない女性と結婚する事になりませんでしたか?」

「あぁ、確かに受付カウンターで`おめでとうございます`と言われました」

「その時、順番が違いますよと言われませんでしたか」

「あぁ、確か着物を、着物」

「そうなんです、あの時嵐山さんの隣にいた女性が私なんです」


心の声A(まじかーー!)

心の声B(あ、そうかも)

心の声C(見覚えあった)

心の声D(それで一目惚れ)

心の声E(これって運命の相手よね♡)


「私が38番」

「はい、嵐山さんが38番で私が88番でした」


 そうだ、あの雨の金曜日。混雑していた列に並んだ挙句に離婚届が緑色だと窓口で告げられ腹が立ち自動扉で鼻先を打つけた。気分を害して会社に戻ると能天気な部下源文が「母親の居酒屋行きませんか」と誘って来た。


「あの女性が、由宇さん」

「はい」

「いつから私だと」

「初めてお店にいらした時から、あらまぁ掃き溜めに鶴だと思いました」

「掃き溜めに鶴」

「鶴は恩返しでチョコレートを持って来てくれましたけどね」


 嵐山龍馬は歪な88番のレシートをまじまじと見た。


 そして恋の終わりを告げる幸薄そうな茶枠の婚姻届が目の前に広げられた。一目惚れから始まった恋愛だったが幸せな3ヶ月だったと部屋の中を感慨深く見回した。


心の声A(この部屋ともお別れか)

心の声B(52歳、寂しく老いていくのね)

心の声C(愚かなり)

心の声D(まぁ、15分が25分になっただけでも良くね?)

心の声E(んーそうとも言う)


「ありがとうございました」


 鶴は涙を堪えて婚姻届を広げて見た。


「あら、喜んで下さらないの?」


心の声一同(これはーーーーーーー!)


 婚姻届の記入欄には結城由宇との記載があった。結城は仕事上の通り名かと勝手に思い込んでいたが由宇のは婿養子だったと言った。


源文もとふみは格好の良い名前になれると喜んでいました」

「ゆ、由宇さん」

「私は嵐山由宇で間違いないのかしら」

「もっ勿論です!」


 嵐山龍馬は由宇に抱き付くと嗚咽を漏らし由宇はその頭を優しく撫でた。


(本当にもう、可愛い人ね)

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