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第16話 舌先三寸

「またお越し下さいね」

「また来るよ、明日も来ちゃおうかな」

「あら、嬉しいわ」

「嘘、嘘、冗談だってまたね」

「まぁ、嫌だ。またお待ちしていますね」


 午前0時を過ぎると由宇はいつものように準備中の札を出入り口に掲げ暖簾を下げて赤提灯の明かりを消した。大きなため息が漏れる。


(如何しよう)


 いつもと違う事と言えば奥の6畳間に電気が点き、そこに180㎝超えの大男が大の字になってうめいている事だ。由宇は箸置きと箸を纏め小鉢をシンクの洗い桶に浸した。


(なんて言えばいいの)


 食器用洗剤の泡ではあの衝撃的な一場面を洗い流す事は出来そうに無かった。静けさの中、水音に気が付いた嵐山龍馬が店に顔を出した。


「由宇さん」


 その顔は腫れ上がり酷いものだった。普段の由宇なら駆け寄って気に掛ける所だが今夜はそんな気分にはなれなかった。


「お加減いかがですか」

「あの、昼間の事なのですが」

「なんの事でしょうか」


 由宇は鍋を洗う手元から視線を上げなかった。嵐山龍馬は革靴を突っ掛けると踵を踏んだままカウンターに近付き椅子に手を掛けた。由宇は刺々しい声色で呟いた。


「ーーーーめかけですか」

「なんですか、聞こえませんでした」

「私が嵐山さんの求婚にお答えしなかったから!私は妾ですか!」

「そんなつもりはありません!」


 由宇は怒りを顕にすると涙を浮かべた。


「所詮、居酒屋の女です。その程度のお付き合いだったのでしょう!?」

「そんなつもりはありません!」

「ではあの方はどなたですか!」

「妻です!」


 妻、その言葉を聞いた由宇の心は凍り付いた。


(ーーーそうだった、この人には奥さんがいた)


 妻と誰も咎めない、なんら不思議はなかった。例え理由が如何であれ世間一般的に考えれば由宇が浮気相手だった。


「そう、ですか。奥さまだったんですね」

「そうなんです!だから!」

「だからなんですか」

「妻、だから」

「奥さまとセックスして私には黙っているおつもりだったんでしょう!?」


心の声A(如何するよ)

心の声B(これはかなり怒っているよね)

心の声C(妻は禁句だろう、妻は!)

心の声D(実際黙っているつもりだったんだろ)


心の声一同(救いようのない馬鹿だな)


「それは」

「そうなんでしょう!」

「ーーーー申し訳ない」


 顔色を変え眉間に皺を寄せた由宇は茶碗を握り振りかぶった。九谷焼の茶碗は嵐山龍馬をかすめるとあおい土壁で割れ粉々に砕け散った。


「由宇さん」

「出ていって」

「由宇さん」

「出ていって!」


 今の嵐山龍馬がなにかを口にしたところで舌先三寸の言い訳でしかなかった。もうひと鉢の茶碗が割れる前に嵐山龍馬は簾暖簾を掻き上げたがそれは非常に重く感じた。


(此処にはもう2度と来れないのかもしれないな)


 涙を流す由宇を振り返り嵐山龍馬は唇を噛んだ。


 日曜日、嵐山龍馬は居酒屋ゆうの軒先に桔梗の花を立て掛けた。それはまるで事故現場に手向けた献花の様で申し訳なかったがそれしか方法が思い付かなかった。


(ーーーー)


 斜め向かいの喫茶店でその様子を窺い見ていると開店準備で出勤して来た由宇は桔梗の花に目を落とし躊躇ためらいながらもそれを手に取った。そして桔梗の花が店先に捨て置かれる事はなく嵐山龍馬は幾らか安堵した。





 そして月曜日、嵐山龍馬が勤務する営業部フロアに衝撃が走った。嵐山部長の左頬には酷い青痣あおあざが出来、部下の結城源文もとふみの右手には白い包帯が巻かれていた。これは明らかに2人になんらかのいさかいが有った事は明白で本部長に呼び出された。


「なにが原因なのかね」

「酒の席で私が悪酔いしました」

「嵐山くんが?嵐山くんは下戸じゃなかったか?」


 本部長は源文を怪訝な顔で見上げた。


「結城、結城くんだったね。なにがあったんだね」

「言いたくありません」

「結城!」


「言いたく無い、と」

「はい、言いたくありません」

「結城、止めないか」

「言いたくありません」


 結果、本部長は処分決定まで2人に自宅待機をするように命じ、嵐山龍馬と源文は同じエレベーターに乗った。嵐山龍馬がその背中に声を掛けようとするが壁を向いたままの源文はそれを暗に拒絶した。


「源文くん、私的な事プライベートで私に非があると言ってくれれば良かったのに」

「ーーーー」

「今からでも間に合う。本部長に進言すれば処分は免れる」


 源文は厳しい目で睨み返した。


「自分の母親と上司があんたが浮気して俺が殴ったって本部長に言えば良かったんすか」

「それは」

「それじゃあんた困るだろう」

「源文くん」

「部長と平社員の俺じゃ立場が違ぇんだよ、あんたの信用ガタ落ちじゃねぇか」


 監視カメラがあろうがなかろうが源文はその衝動を抑えられなかった。源文は嵐山龍馬の襟元を掴み上げると吐き捨てた。


「母ーちゃんの相手は俺の父ーちゃんになるんだよ!父ーちゃんが降格処分とかあり得ねぇだろうが!」

「んっ、もと」


心の声A(源文のが大人)

心の声B(本当に、良い子すぎる)

心の声C(涙や)

心の声D(こりゃ死ぬまで頭上がらんな)


 臙脂色えんじいろのネクタイは締め上げられ嵐山龍馬は声を発する事が出来なかった。


「母ーちゃんとこ行けよ!土下座して来いよ!」


 掴んでいた手が離され嵐山龍馬は壁に寄り掛かった。


「2度目は無いからな!次やったら許さなねぇからな!」

「すまなかった」

「言う相手間違えてねぇか!早く行けよ!」


 スーツの背中には28cmの革靴の痕が付いた。


「すまなかった!」

「ごちゃごちゃうるせぇな!今度GODIVA買って来いよ!」

「本当にすまなかった!」


心の声一同(源文の漢気に全米が泣いた)


 嵐山龍馬は街を流すタクシーに手を挙げると後部座席に乗り込んだ。


「市役所、市役所までお願いします!」


 源文はその大慌て振りを見送りため息を吐いた。


「ま、俺も変わんねぇしな、男ってしょうもな」


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