目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第13話 離婚届①

 熱く甘い夜が明けた。


「ご指南ありがとうございました」

「こちらこそ良くして頂きありがとうございました」


 朝の日差しの中、正座した由宇は首を横に振り何度も断ったが嵐山龍馬は断固として譲らず婚姻届をその手に押し付け床に頭を擦り付けた。


「ご検討下さい」

「もう結婚という年齢でもありませんし」

「ご検討下さい!」

「嵐山さんって頑固者なのね」

「ご検討下さい!!」


 縁を結んだ以上、見送るその後ろ姿にすがりたい感情がない訳でもない。時々振り返る笑顔に惹かれていないと言えば嘘になる。然し乍ら50歳間際で再婚など夢のまた夢だ。


「物珍しいだけよ」


 居酒屋の女将が大企業の嫡男と結婚なんて有り得ない。1番目の妻は大学院で知り合ったという才女、2番目の妻は慰謝料300万円現金一括で支払える何処かのご令嬢といったところだろう。


「私には無い無いづくしだわ」


 由宇はため息を吐いた。





「いらっしゃいませ、あら」

「こんばんは」


 そんな女心を知ってか知らずか嵐山龍馬は日1日と明けず居酒屋ゆうに通い日本酒をお猪口に2杯だけ口にして帰って行った。そして金曜の晩はもやしのひげ根を取って口付けを交わし由宇の部屋で熱い夜を過ごした。


「由宇さん、考えて下さいましたか」

「気持ちは変わりません。このままの関係で良いでは無いですか」

「頑固な人だ」

「嵐山さんも頑固だわ」


 また、薄茶枠のに名前を記入した2番目の妻の行方は一向に知れず嵐山龍馬の離婚成立は難しいと思われた。


 そんなある日、少しばかり驚く事があった。


(珍しいわね)


 金曜日の夜だというのに嵐山龍馬が簾暖簾を挙げる気配が無かった。


源文もとふみ、今夜は接待でもあるの?」

「誰がだよ」

「だっ、誰がって」


 普段は「絶対結婚しない」とつれなくしつつもその姿が無ければ寂しさが募る。由宇は我が身の勝手さを噛み締めつつ冷蔵庫を覗いた。


「あら、お醤油が」


 醤油が切れていた。


「困ったわ」


 同僚と飲みに来ていた源文に店番を頼み財布を握った。ふと携帯電話が目に付き何気なしにそれも手に取った。


「源文、ちょっと出て来るから店番お願いね」

「うぃーーーっす」

「もう、その言葉遣いなんとかしなさい」

「うぃーーーっす」


 いつまでも学生気分が抜けない我が子を情けなく思いながら煌びやかな繁華街へと向かった。醤油を買い物カゴに入れたところで青果市場に良い具合に熟れたゴールドキウイが並んでいた。


(嵐山さん、お好きだったわよね)


 そう考えるだけで浮き足立つ自分がいる事に驚いた。身体を重ねるうちに情にほだされたのか事ある毎にその笑顔を思い出す様になっていた。


「ーーーーあ」


 精算し大通りで顔を挙げると対向車線の歩道に嵐山龍馬の姿を見付けた。人波に紛れているが誰よりも頭ひとつ分上背があり見間違える事は無かった。


(あら、今からお店にいらっしゃるのかしら)


 携帯電話を取り出し嵐山龍馬の電話番号をタップした。ところがその隣には栗色の巻き毛の女性の姿があった。華やかで上品な雰囲気は高級クラブのママの風格があり2人は仲睦まじく腕を組んで歩いていた。


RRRRRR RRRRRR


 由宇からの着信に嵐山龍馬は携帯電話を取り出して見たが番号を確認したにも関わらずそのままポケットに仕舞い込んだ。


(ーーーやっぱり)


 嵐山龍馬の様な人物が裏通りに在る居酒屋の女将に本気になる訳など無いのだ。由宇は2人の姿から目を逸らして暗がりへと踵を返した。


 結局、営業中に嵐山龍馬が店に現れる事は無かった。ひとりで暖簾を下ろし、ひとりで準備中の札を掲げひとりで赤提灯の明かりを消す。ひとりで箸置きや箸を集め器を下げた。金曜日の晩は2人で店仕舞いをする事が当たり前になっていた。


(勘違いも甚だしいわ)


 もやしのひげ根を取りながら店先に人影が往来する度に顔を挙げたがそれは皆素通りした。ポタポタと白い割烹着に涙が滲みを作った。毎週金曜日に届けられていた桔梗の花も項垂うなだれ、それを眺めていると頬に滴が伝った。


(嵐山さん)


 いつの間にこれ程迄に嵐山龍馬の事が好きになっていたのか。


(ーーー私も結婚したいって素直に言えば良かった)


 由宇は今までの自分の発言を悔いた。そして嵐山龍馬は次の週もまたその次の週も店に顔を出さなかった。源文もとふみに尋ねれば出社し普段通りに勤務していると言った。


「なに、母ーちゃんなんかあったのか」

「ううん、なんでもない」

「なんかあったら俺に言えよ」

「うん」


 その言い種は会社で嵐山龍馬上司に殴り掛かりそうな勢いで流石に言い出せなかった。


(ーーーもう来ないのかもしれない)


 由宇は携帯電話を握ったが、街で見掛けた時と同じく自分からの着信を無視されるのではないかと思い発信ボタンを押す事が出来ずにいた。


(そう言えば)


 嵐山龍馬が「居酒屋ゆうに忘れた」と探していた高級腕時計を手渡す事をすっかり忘れていた。


(大事な物ですもの、お返ししないと)


 由宇は腕時計を返す事を言い訳に嵐山龍馬のマンションを訪ねる事にした。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?