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第11話 金曜の夜①

 ごくりと唾を飲んだ。


心の声A(居酒屋に入るだけでこの気合いはなんだよ)

心の声B(そりゃそうよ)

心の声C(一念発起)

心の声D(一念勃起やろ)


「あぁ、兄ちゃん退いてくれ」


 店先でうろついていると狸の様な体格の男に押し退けられた。昨夜閉店間際まで居座っていた客だった。


「あら、権蔵さんまた来たの」

「彼女の店に通ってなにが悪いんじゃ」

「あらまぁ、それは失礼しました」


 和やかな雰囲気が伝わって来るが源文もとふみが言うにはこの権蔵は由宇に懸想している「ぶんぶん」煩い害虫らしい。これまでは源文が店に顔を出し追い払って来たのだが、


「これからはお父さんが追い払ってくれると僕、助かります遊べます


 と目を潤ませた。


(お、お父さん!源文、お父さんに任せなさい!)


心の声一同(源文に使われてるだけじゃん)


 嵐山龍馬はビジネスバッグを胸に抱え躊躇ためらいながら簾暖簾すだれのれんを挙げたが金曜日の夜という事もあり店内は大盛況でカウンター席は既に埋まっていた。


(くっ、くそっ!)


 定時退社で一目散に走って来たのだがこの有様、客の年齢層は50代後半から70代、80代、暇そうな高齢者が大半を占め開店と同時に入店したのだろう。その中には「ぶんぶん」煩い狸の権蔵と、狐の笹谷も居た。


心の声A(じじぃ共に勝てる気がしない)

心の声B(あっ!)

心の声C(手を、手を握っている!)

心の声D(てめぇ口から手ぇ入れて奥歯ガタガタさせるぞ!)

心の声B(それは思いすぎですよ)


 すると「あら、嵐山さん」由宇が微笑みながら手招きをした。


「あ、こんばんは」

「嵐山さんいらして下さったのね、お待ちしておりました」

「ーーーーー」


 由宇の若い男嵐山龍馬に発した声色と姿勢が自身に対するものと明らかに異なっていた事に気分を害した権蔵は嵐山龍馬の革靴を踏みつけた。


(ーーーー!)


 権蔵は嵐山龍馬をおどおどしている優男やさおとこだと思い込みその行動に出たのだがそれは見当違いだった。上目遣いで睨みを効かせた形相はまさに鬼、鬼気迫るものがあった。権蔵は震え上がった。


「ゆ、由宇ちゃんお勘定」

「あら、いらしたばかりなのに」

「急用を思い出してな、笹谷さんも、ほれ」

「あ、ああ」


 権蔵としては源文もとふみの暖簾に腕押しのらりくらりとした牽制も気味が悪かったが嵐山龍馬の睨みはそれを上回った。これで由宇の周りを害虫たちが「ぶんぶん」と飛び回る事も無いだろう。


「さぁここにお座りになって」

「お邪魔します」


 これで由宇の真正面に座る事が出来たのだが尻の下の生温さがあの狸のものだと思うと怖気がした。


「どうなさったの、お顔の色が」

「あ、いえ。狸が」


 熱いおしぼりが手渡された。


「狸?あぁ、権蔵さんの事ね。可愛い人なんだけど困った方なの」

「そうなんですか」

「そうなの、ね?」


 周囲の客も頷いた。成る程、源文が毛嫌いしていた意味がようやく分かった。そこでカウンターに瓢箪ひょうたんの箸置きと紫檀したんの箸が置かれた。


「嵐山さん、山菜はお好きですか?」

「はい」

「これ、食べてみてくださいな」


 九谷焼の器に盛られた高野豆腐こうやどうふわらびの煮物、この鉢物も美味かった。この店居酒屋ゆうは由宇の美貌で繁盛している訳では無く料理の質の高さがくちこみで広がり顧客を獲得していた。


「美味しいです」

「良かった、なめこと長芋の和物あえもの、これは如何かしら」


 小鉢には短冊に切った長芋となめこの酢の物、程よい味付けで好みだった。


「嵐山さん」

「はい、美味しいです」

「長芋はの効果があるんですよ」

「そ、そうなんですか」

「おかわりどうですか」

「お、お願いします」


心の声D(由宇、やる気満々だな)

心の声B(そんなはしたない!)

心の声A(ーーーーーー)


心の声一同(あの顔はやる気満々だ)


 嵐山龍馬は由宇の眩しい微笑みに腰が引けた。


 「ありゃ、雨や」


 ポツポツと雨が空から落ち始め傘を持たない客がひとりふたりと席を立った。勘定を済ませた由宇はいつもの様に暖簾を下げ準備中の札を出入口に掛けた。赤提灯が消えた2人だけの店内で嵐山龍馬は箸置きや箸をまとめ空になった小鉢を由宇に手渡した。


「ありがとうございます、手伝わせてしまって」

「手伝わせて下さい」


 嵐山龍馬はスーツを脱ぐとワイシャツの袖を捲りダスターでカウンターを拭き始めた。茶碗を洗う水音だけが響き無言の時間だけが過ぎていった。


「あの」

「あの」


 2人同時に顔を挙げて声を発した。


「あの」

「はい」


 気不味さが漂ったその時、嵐山龍馬は黒豆もやしがボウルに盛られている事に気が付いた。


「それ」

「あぁ、もやしですか」

「はい」

「ひげ根を取らなくちゃいけないんだけど困ってるの」

「私に取らせて下さい」

「ひげ根を?」

「はい、私の離婚の原因のひとつは(ひげ根を取る)神経質なところだそうです」

「あら、まぁ」



ぎしっ



 カウンターに並んでもやしのひげ根を取り始めると今度は壁掛けの時計の針の音が2人の時間を刻み始めた。


「静かですね」

「静かですね」


 視線が絡み合った。由宇がゆっくりと瞼を閉じ、指先はもやしを摘みながら何度も繰り返しキスを交わした。


「嵐山さん」


 紅の唇がゆっくりと動いた。


「今夜は泊まって下さる?」

「ーーーーはい」

「じゃあ頑張ってひげ根を取らないと帰れませんね」

「頑張ります」

「ーーーーはい」


 そして2人は微笑み合い、もやしのひげ根を根気よく取り続けた。

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