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第6話 出会い②

 悶々とした週末、それに加えて月曜日の朝は霧雨だった。


(最悪だ)


 気分が優れない嵐山龍馬の眉間には皺が寄り、始業の朝礼では緊張が走った。


「部長どうしたの?」

「顔がいつもより怖いんですけど」


 社員たちはその面立ちに慄いたが、そこへ場の空気が読めない男がのんびりと出社した。


「え、なになにどしたーん?」


 営業部の自称イケメン第1位、結城源文もとふみは足取りも軽やかに嵐山龍馬のデスクの周りでステップを踏み始めた。


「ちょ、結城くんなにしてるの!」

「いやちょっと」

「やめなって」


 嵐山龍馬は部下の異様な行動を見て見ぬ振りでデスクに視線を落とし書類に確認印を捺している


「ブチョウ」


 源文は上司の顔を覗き込みながら囁いた。


「ブチョウアレカラドウナリマシタカ」


 嵐山龍馬は椅子から転げ落ちる勢いで背後に飛び退き顔を赤らめた。


「な、なんの事だね」

「いえ、随分酔っておられましたから如何なさいましたかと思いまして」

「結城くん、その使い慣れない丁寧で尊敬な謙譲語もどきは止めなさい!」

「そうっすか」


 嵐山龍馬は咳払いをひとつして源文の顔を凝視した。


「家に帰った」

「そうっすか」

「ちなみに御母堂の名前はなんと仰るのかな」

「あれ、聞いていなかったんすか」

「覚えていない」


 思わず視線が左右に泳いだ。


「聞かなかったんすか」

「酔っていたから早々に失礼した」

「そうっすか」

「で、なんと仰るのかな」

「由宇、結城由宇」


一瞬の間。


「ゆう、ゆうさん」


 源文はと察知した。源文は嵐山龍馬の隣にしゃがみ込むとデスクに隠れ小声で母親の現状を伝えた。


「旦那、うちの母ちゃん離婚ほやほやでっせ」

「り、りこ、ん」

「今がお買い得でっせ」

「離婚、離婚されたのか」

「よろしゅーお頼み申し上げまつる候」

「結城くん、その奇妙な言葉遣いは止めなさい」

「了解っす」


 嵐山龍馬の確認印は朱肉に減り込み目は一点を見つめていた。


(こ、これは一刻も早く離婚せねば!)


 そして時計の行方も探さなければならない。


(時計は結城の母親の店か、あの女性の部屋か)


 退社後、嵐山龍馬は百貨店の地下食品売り場に駆け込んだ。


(女性ならばGODIVAのチョコレートだろう)


 源文の母親とあの女性が別人の可能性も有るので念の為に二箱購入した。


「リボンはお付けしますか」

「あぁ、宜しくお願いします」

「かしこまりました」


 10,000円札で幾らかの釣り銭が来た。嵐山龍馬のチョコレート大作戦が幕を開けた。


 嵐山龍馬は紺色の傘を差し居酒屋ゆうの前に佇んでいた。


(ーーーそうだった)


 そこに暖簾は見当たらず出入口には定休日の札が下げられていた。片町の飲み屋の定休日は月曜日である事が多かった。居酒屋ゆうも例に漏れず今夜明かりが灯る事は無い。


(かくなる上は、あのマンションの女性)


 嵐山龍馬の喉仏が上下した。この店の女将である結城の母親があの女性である確率は限りなく高い。白か黒かといえばグレーゾーンだが白でない事は確かだ。


(私は妻帯者でありながら部下の母親とのか)


 今の嵐山龍馬にとってノーチラスの時計どころでは無かった。


(どんな顔で会えば良いのだ)


 不倫でしかも15分間とは情けなさの極み。あの女性も「ぷぷーーーっ短っ」と心の中で嘲笑っていたのではないかと考えるとタクシーの後部座席の窓を叩く事すら躊躇われた。


(気が重い)


 月曜のタクシープールは客待ちの空車がずらりと並んでいる。どれにしようか悩んだが景気の良さそうな黄色のタクシーを選んだ。


「すみません、名前は分からないのですが寺町の下菊橋あたりに5階建てのマンションはありますか」

「あーーー2、3軒は有るかな」

「細い路地の突き当たりなんです」

「あーーーじゃああそこかな、行ってみますか?」

「お願いします」


 タクシー乗務員の勘は大当たりでバス停近くの路地の突き当たりにそれらしきマンションが立っていた。曲がり角に古い写真館があったので間違いなかった。


「支払いはチケットで」

「毎度ありがとうございます」


 後部座席の扉が閉まる音で心臓が跳ね上がった。52歳にもなってなにを慄いているのかと建物を見上げエントランスで傘の雫を払う様に羞恥心を払った。


「郵便ポスト」


 郵便ポストは殆どが無記名で5階の一番端と思われる501号室には蒼井とあった。


(蒼井という名前の女性なのか?)


 上昇するエレベーターの様に嵐山龍馬の血圧も上昇した。


「鼻血が出そうだ」


ぽーーーん


 5階のエレベーターホールで左右を窺い見ると501号室の前には観葉植物が並べられベビーカーが置かれていた。


(当たり前だが赤ん坊は居なかった)


 そうなると5階の一番端、510号室があの女性の部屋だ。嵐山龍馬は廊下を一歩踏み出した。


 嵐山龍馬は子どもの頃に読んだ昔話を思い出した。鶴の恩返し、怪我をして助けられた鶴も恩返しでお爺さんやお婆さんの家の扉を叩いた時はこのような心持ちだったのだろうか。


(なにを恐れる事がある!今の私は酒に呑まれてなどいない!)


 正常な機能ならば問題は無いだろう。


(取り敢えず平伏して謝罪しなければならない!)


 震える指でインターフォンを鳴らしたが1回、2回と反応が無かった。これはまた間が悪く不在なのだろうと踵を返したそこで応答があった。


「はい、どちら様ですか」

「あの」

「あっ!嵐山さんですね」

「はい」

「ちょっと待っていて下さいね!」


 如何やらモニター付きのインターフォンだった様だ。緊張し上擦った声で名乗る必要が無く安堵した。施錠が解かれる迄に息を深く吸って吸って吸いすぎて咽せた。


(私よ、落ち着け。大丈夫だ、なにも問題は無い!)

「お待たせしました」

「こんばんは、先日はとんだご迷惑をーーー!」


 由宇は風呂上がりだったらしく濡れた髪、上気した頬、Tシャツとショートパンツから伸びた手足はうっすらと桜色をしていた。鶴は恩返しをする前に回れ右をして脱兎の如くこの場を去りたい衝動に駆られた。


(神よ、私を試されているのですか!?)


「こちらこそ先日はなんのお構いもせずにごめんなさいね」

「いえ、十分ありがとうございました」


 由宇は嵐山龍馬がなにを言わんとするのか首を傾げたが立ち話もなんですからどうぞと部屋に招き入れた。


「申し訳ございませんでした!」


 リビングに通された嵐山龍馬は突然床に額を付けて謝罪の言葉を述べ始めた。珈琲の準備していた由宇はその姿に仰天した。

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