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第3話 戸籍住民課

 雨の金曜日、新緑が眩しい季節広坂大通りひろさかおおどおりに赤や青の傘が咲く。葉桜の並木を歩いて来る和装の女性は金沢市役所の自動ドアを踏んだ。ただ、戸籍関係の手続きはどの窓口ですれば良かったかそれは20年も前の事で忘れてしまった。


「どうなさいましたか」


 市役所職員に声を掛けられ「離婚届を提出するには何処に行けば良いのか」と尋ねると一瞬、気の毒そうな顔をされた。


(そうよね、50歳間際の離婚なんて最悪よね)


 由宇はそれでもあんな男と縁が切れるならば良しとしようと気を取り直し職員に微笑んで見せた。


(浮気と賭け事、借金癖は治らないっていうもの!)


 25年連れ添ったは居酒屋経営(水商売)という事で浮き草の様な男性だった。浮気は度々、競馬も少々、それでも憎めない気質で長年連れ添って来た。それがまさか52歳にもなって離婚を言い出すとは由宇にとって青天の霹靂だった。


「あぁ、離婚届の提出でしたら戸籍住民課ですね。あちらで番号が書かれた紙をお取り下さい」

「ありがとうございます」


 由宇が手に取った番号は88番。


「あら、縁起が良いわ」


 88番、漢字で表すところの八、由宇は縁起を担ぐ方では無いがこれは末広がりで第2の人生に期待が持てた。


(あら)


 そして待合のベンチに腰掛け隣を見遣った。


(まぁ、素敵な方だこと)


 それは白髪混じりの髪を後ろに撫で付け濃灰のスーツに深紅のネクタイを締めた如何にもロマンスグレーを体現した様な男性だった。


(銀縁眼鏡がお似合いね、でもちょっと神経質そう)


 手元には薄茶の枠の、男性の推定年齢は50代前半。その歳で結婚するのかと考えたところで「あぁ、1人ーーーいるわ」26歳のピンクちゃんと再婚したの腑抜けた顔を思い出し気分が悪くなった。


 そこで由宇の番号が電光掲示板に表示された。


「あら、意外と早いのね」


 着物の裾を押さえながら立ち上がると隣の男性も立ち上がった。由宇が不思議に思っているとその男性は一目散に戸籍住民課に向かい窓口の椅子に座った。


(え、私の順番じゃないんかーーーい、ごるあ)


 確認の為に電光掲示板を二度見したが次の番号が表示されていた。


「あ、あの」


 由宇が男性の座る窓口に声を掛けると女性職員は満面の笑みで対応した。


「ご結婚おめでとうございます!」

「はぁ?」「は?」


 由宇とその男性は素っ頓狂な声を発し互いに顔を見合わせた。


「どなたですか?」

「いやいや、あなたこそどちら様でしょうか?」


 そんな2人などお構いなしに女性職員は男性に「身分を証明出来る物はございますか」と問い掛け男性も生真面目な顔で長財布を取り出している。


「マイナンバーカードですね、お預かりします」


 女性職員は席を立ち背後の席で婚姻届と住所氏名を照らし合わせコピーを取っていた。由宇はその間、自身の番号が88番である事と男性の番号が38番である事を確認した。


(落ち着いて見えるのに、意外とおっちょこちょいさんなのね)


 すると女性職員は困った顔でこちらにやって来た。


「嵐山さん、提出にはおふたりの戸籍謄本が必要なのであちらで発行してからまた窓口にいらして下さい」


(嵐山、これまた立派なお名前。南町の嵐山ホールディングスと同じね)


「おふたりとは誰と誰の事でしょうか」

「ええーと、嵐山さんと奥様の戸籍謄本です」


 それは明らかに由宇の事を指していた。


「いやいやいやいや、私は無関係です!」

「こっ、この女性とは赤の他人です!」


「ーーーですから、赤の他人がご結婚されてご夫婦になるのでは?」


 嵐山という男性は「届出用紙を見せてくれ!」と鳩が豆鉄砲を食らった面差しで慌ててそれを受け取ると「なんだこれは!」と騒ぎ出した。


「これは婚姻届じゃないか!」

「はい」

「婚姻届がなんでこんなに幸薄そうな茶色なんだ!」

「それが決まりですから」

「間違えた!」


 嵐山という男性は髪を掻きむしると「失敬!」と今度は自動ドアに一目散、鼻先をガラス扉にぶつけていた。


「ーーーなんでしょうかあれは」

「なんでしょう?」

「それでお客様はどのようなお手続きをご希望ですか?」

「これです!」


 由宇がマイナンバーカードと緑枠の離婚届を窓口に置くと女性職員は実に気の毒そうな顔をした。

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