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いつかキルケに花束を

 あの日の出会いから、どれほどの時が経っただろう。


 そんなことを振り返りながら、夜の街をひた歩く。


 気づけば僕は彼女の虜になっていた。


 幾度となく足を運び、何気ない会話をし、そして後ろ髪を引かれる思いで一人帰路につく。そんな日々を繰り返すうち、彼女への想いは溢れんばかりに募っていった。


 彼女が淹れてくれた紅茶を飲みながら、二人で語り合ったときのことは、昨日のことのように思い出せる。「恋愛小説にはあまり興味がなくて、ここには置いていないんです」そんなことを笑いながら話してくれた。


 僕もとりわけ好きな訳ではなかったから、それで何か困ることもなかった。たった今、この時までは。


 この溢れる想いを彼女に伝えるには、いったいどうすればいいのだろう。恋愛小説の王子様のように、彼女の心を射止める方法。今はただ、それが知りたくて仕方がない。


 プレゼントを贈るなら何がいいだろうか? まるで今宵の月のように、おぼろげに優しく輝く真珠のネックレスなんて、彼女によく似合いそうだ。


 彼女にふさわしいものに出会えるよう願いながら、図書館からもほど近くの、この街唯一の宝石店へと足を踏み入れる。


 こんな夜中にも関わらず、一人だけ先客の姿が。うら若き貴婦人が、結婚指輪と思しき指輪を売りに出していた。


 一見とてもお金に困っているようには見えないが……。そうなると、終わった愛の清算が目的だろうか? 


 役目を失ったその指輪のことを哀れんでいると、去り際の貴婦人とたまたま目が合った。貴婦人は僕の手のネックレスに気づくと、なぜか哀れみの目線をこちらに向け、何を話すでもなくそのまま去ってしまった。


 この状況において哀れまれるのはむしろ貴女の方では? わずかな憤りを覚えるも、何かを見通しているかのようなその目線は、少しだけ心に引っかかった。


 そんなことを感じながら、ふと店の壁の時計を目をやる。時刻は既に23時も過ぎる頃だった。綺麗に包装されたネックレスを受け取り、僕は彼女の元へと急いで向かった。


 ***


 彼女と夜に逢うのは初めてだ。期待と高揚感を胸に、僕は扉へと手をかける。


 そんな僕を中で待っていたのは……鞭を片手に佇む彼女と、その足元に力なく転がる豚の姿だった。部屋には血の臭いが漂い、床には豚の流涎りゅうぜん。そして足元からは、どこかで聞いたような啼き声が響いてくる。


 僕のよく知る優しい彼女とはまるで別人。その豹変した姿に戦慄し、ただただ立ちすくむことしかできなくなる。


 そうしているうちに、彼女が僕の方へとふりむいた。


「ああ、来たんですね。地下室豚箱はもう一杯なんですけど」


 妖しく微笑む彼女。その瞳からは一切の光も感じられない。


 足元の豚が一瞬だけ僕を憐れむように目線を向けたが、すぐに諦めたように目を伏せた。


「もしかして、気付かれていないとでも思ってました? 本を読むふりをして、ずっと気色悪い視線を向けていたこと。まともな人間なら豚にされたくなかったら恋愛小説のくだりで察して欲しかったんですけど、品性の欠片もないその豚以下の低脳に求めるのは酷でしたね。おいしかったです効きましたか? 入りの紅茶。なんて、聞く必要もないですね」


 彼女から突き付けられる言葉の一つ一つが、僕の心を容赦なく抉っていく。もう何も考えられない。考えたくない。


「もう人の言葉を忘れてしまったんですか? まだ豚にはしてないんですけど。これならばいっそ豚に変えてあげた方が賢くなれそうでいいですね」


 彼女は心の底からの侮蔑の視線を僕へと向け、そのまま鞭を振り上げる。鞭に打たれた激しい痛みののち、全身が内側から灼けるような感覚に襲われる。立っている気力さえ失くしたは、ただ力なくその場に倒れ伏した。


 薄れゆく意識人間性の中、視界の隅に真珠のネックレスが落ちている。鞭に当たって包装が剥がれてしまったようだ。


ですね。この為だけにわざわざ用意したんですか? そんなに豚になりたかったんですね。うわ……きっしょ……」


 彼女は穢らわしいものに触れるかのように、指先だけでそれを摘み上げると、一切の躊躇もなく屑籠へと放り込んだ。


 もしかして宝石店の貴婦人は、この結末を見通していたのだろうか?


 今更過ちに気づいたとて、もうどうすることもできない。


 はただただ失意を抱き、豚共僕達の待つ奈落の底豚箱へと蹴り落とされた……。


 ***


 光の届かぬ地下室豚箱の底。僕は彼女への愛を叫び続けた豚が醜く啼き喚いていた


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