いつもの通学路になんだか大きくて黒いものがいた。
段ボールに入っているけど、これは、ゴリラだ。ゴリラがいる。
なんでこんなところにゴリラが?あ、拾ってくださいって書いてある。ということは、こいつ捨てゴリラってことか?
やばい、目が合った。ゴリラと目が合った。くそっ、そんな目で見るなよ。
よく見たら、段ボールの中にはバナナの皮が散乱していた。ウホ、ウホ、バナナの皮をゴリラが指さして、お腹をさすっている。お腹がすいているということだろうか。
「ごめんな、うちもう犬飼ってるし、さすがにゴリラを連れて帰ったら、お母さん怒るだろうなあ」
なんでゴリラに話しかけてるんだろう。ゴリラは寂しそうな目でこちらを見ている。その時だった、どこからかサイレンの音が聞こえてくる。パトカーが通りの向こうからやって来た。
「ほら、あそこです!ゴリラが、ゴリラがいます!」
近所のおばちゃんが必死にこちらを指さしている。警官がぞろぞろ集まって来た。
「おいおい、本当にゴリラじゃないか」
「応援!至急、応援呼んで!機動隊も呼んじゃって!」
なにやら騒々しくなってきた。ゴリラは気にもせずバナナの皮をいじって遊んでいる。警官のひとりが、突っ立っている僕に気付いた。
「君!危ないから離れて!」
警官が僕に触れようとしたとき、突然ゴリラが立ち上がり、警官に向かって突進した!目の前を黒い塊が通り過ぎたかと思った瞬間、僕に声をかけてきた警官は道路の端まで吹き飛ばされていた。
頭を手でさすっている。意識はあるようだ。
ゴリラは少しだけ息を荒げながら、ドラミングをして雄たけびを上げていた。そして、僕の方を見ると、ウインクをした。いや、そう見えただけかもしれない。ゴリラにウインクができるのかは定かではない。
「こ、公務執行妨害!公務執行妨害だ!」
周りにいた警官が我に返り、僕とゴリラを取り囲んだ。遠くからパトカーの音が聞こえる。さらに応援が来たようだ。近所の人たちが、窓を開けて僕とゴリラを見ている。違うんです、このゴリラとはさっき会ったばかりで、友達でもなんでもなくて…
「そのゴリラは、君のペットか何かかね!」
白髪交じりの警官が僕に向かって叫んだ。
違います、そう答えようとしたときに、ゴリラとまた目が合った。
また、ウインクをしてきた。今度は、はっきりとウインクだとわかった。段ボールに散乱していたバナナの皮たちが、フラッシュバックしてきた。
「そうです!僕のペットです!」
気付いたら、そう叫んでいた。自分でもびっくりするくらい大きな声で、そう叫んでいた。
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ゴリラが我が家にやってきた。警官たちは、僕が小学生ということもあってか、注意だけしてあっさり帰っていった。
お母さんは最初は怒ったけど、ゴリラがお母さんの買い物袋を持ってやると、すぐに飼うことを許してくれた。
お父さんは興味なさそうだった。ゴリラを拾ったと言っても「そうか」とだけ言って、新聞を読み始めた。
ゴリラは、庭で飼うことにした。飼い犬のベスの小屋の隣に、ゴリラが寝るための草を敷いてやった。
友達が、ゴリラを見に僕の家にやってくるようになった。よくわからないけど、偉い学者がたくさんの人を連れてやってくることもあった。
ゴリラは友達が来ると嬉しそうにして、僕や友達を背中に乗せて町を歩いてくれたりした。
学者が来たときは、ちょっと嫌そうだった。あちこち検査されている間、僕の方を助けを求める目で見ていた。お父さんに、学者さんに協力しなさいと言われていたので、その通りにした。
ごめん、ゴリラ、あとでバナナあげるから。バナナのジェスチャーをゴリラに向かってやると、ゴリラは静かにうなずいて、検査が終わるのを大人しく待っていた。
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ある日、お父さんにリビングに呼ばれた。ソファにはお父さんと学者が座っている。お母さんは、キッチンの方で少しだけ悲しそうな顔をして立っていた。
「こっちに来て座りなさい」
お父さんが言った。
あれ、なんか僕悪いことでもしちゃったかな。お父さんが大事にしていたゴルフのドライバー、ゴリラと遊んでいるときに曲げちゃったのがバレたのかな。裏山に捨てたから大丈夫だと思っていたけど。
「ごめん、ドライバーのこと…」
そう言いかけたとき、学者が口を開いた。
「いいかい、坊や。落ち着いて聞いてほしいのだけど」
僕の目を見て、学者が続けた。
「あのゴリラを私に預けてくれないか」
何を言っているのか、一瞬よくわからなかった。ゴリラを預ける?なんで?どこか病気なの?病気ゴリラなの?
「君も薄々気づいていたかもしれんが、あのゴリラはかなり特殊でね。まず、あそこまで人間と意思疎通ができるゴリラというのは自然界には存在しない。それに、君はゴリラに毎日バナナを一房しか与えていなかったようだが、ゴリラというのは普通もっとたくさん、いろんなものを食べる。普通のゴリラなら、今ごろ餓えて暴れているところだ。」
そうなんだ、毎日八百屋さんで買ったバナナをあげてたけど、それじゃあ全然足りなかったんだ。お腹すいてたのかな、ゴリラ。腹減りゴリラだったのかな。
「でも、ゴリラだし、だってゴリラだし、ええと」
自分でも何を言っているのかわからなくなる。なんだろう、胸がざわざわする。
「まあいい、とにかく、調査のためにしばらく研究所の方で預からせてもらうことになった。君には申し訳ないけど、もう既にお父さんのご了承はいただいている」
ハッとして机を見ると、何やら細かい字がびっしり書かれた紙が置いてあった。下の方にお父さんの名前がサインしてあった。お父さんの顔を見ようとしたけど、目を合わせてくれない。
僕が黙っていると、お父さんが口を開いた。
「まあ、そういうことだ。ゴリラのことはもう忘れなさい」
忘れる?忘れるってなんだ?なんで忘れないといけないの?預かるって言ってたから、いつか帰ってくるんじゃないの?頭がグルグル回って、今までの思い出が次々と頭の中に映りこんできた。
ちょっと臭いけど、温かい、ゴワゴワしたゴリラの背中。
河川敷で一緒に食べたバナナと夕日。
僕が体操服を忘れたときに、学校まで届けてくれたゴリラ。あのときは学校中が騒ぎになって大変だった。体操服は、ゴリラの握力が強すぎてくちゃくちゃだった。
僕の目には涙が溜まっていた。次から次にあふれてきて止まらない。僕はリビングを飛びだして、庭に向かって走り出した。
「待ちなさい!」
お父さんが後ろで叫んだ。大きな声に反応して、思わず立ち止まってしまった。
「さっきドライバーがどうとか言ってたけど、お前なにか知ってるのか?」
馬鹿野郎。後ろを振り向くことはなかった。
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庭に出ると、ゴリラが眠っていた。たくさんの人がゴリラを抱えて、檻の中に入れようとしている。
「やめて!やめてよ!ゴリラ、ねえゴリラ、起きてよ!」
ゴリラはいびきをかいて眠っている。薬か何かを飲まされたのかもしれない。
誰かに後ろから、ぐいと引き寄せられた。上を見上げると、お母さんだった。お母さんも泣いていた。
「あきらめなさい」
ぽつりと言われて、なんだか身体の力が抜けてしまった。ああ、もうどうしようもないんだ。子供ながらにそう悟った。僕は膝から崩れ落ちて、わんわん泣いた。生まれたときの百倍くらい泣いた。
ゴリラを入れた檻は、トラックに積み込まれた。
トラックに学者が乗り込んだ。車の窓から僕をちらりと見ると、運転手に合図して、すぐにトラックのエンジンがかかった。
ゴリラの背中が、どんどん小さくなっていく。町は、もう日が暮れそうだった。ゴリラの背中がオレンジ色に染まって、見えなくなった。
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「お父さん!見て見て!あのゴリラ、僕にウインクしてきたよ!」
そう子供に言われて、すぐにガラスの中を見た。
ひときわ年を取っているゴリラ、もうよぼよぼなゴリラと目が合った。
ゴリラが僕にウインクをした気がした。