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第35話 夕暮時の煙草屋

 ふと、視線の先に赤いものが掠めた。


 二十メートルほど先の軒先に、何か赤いものがぶら下がっている。目を凝らしてみると、平仮名で「たばこ」と書かれた、錆びた看板だった。田舎の古めかしい小売店でよく見かける、赤いあれだ。赤い塗料がだいぶ薄れ、さらに全体に錆びがびっしりと浮いていた。


(禁煙しようと思っていた矢先に……)

 これはどういうサインだろう。

 やめなくてもいいというサインか。

 目の前に誘惑をぶら下げられても、決意を変えないかという試練か。

 つい足を止めて逡巡していると、突然、耳元で声がした。

「迷ってしまったんですか?」

「ぅわっ」

 ぞくりとするような低い声に、勢いよく振り向く。男がすぐ横に立っていた。

 黒ずくめの、見上げるほど背が高い男。

 俺も身長はかなり高いほうだ。百八十には届かないが、社内で見下ろされることなどほとんどない。思わず驚いて、口を開けたまま男を凝視してしまった。


 髪も瞳も真っ黒だ。肌は白く、全体的に色味がない。異様な登場に遅れて気付いたが、よく見ればひどく男前だ。

「いえ、」

 まっすぐ見つめられているのに、自分を通り越して、背後を見られているような不思議な感覚がした。

「迷っているわけでは……」

 全身黒男は、気遣うように少し目元を和らげた。

「この辺りは何もないところですから。あなたのようなかっちりとしたスーツ姿のかたが、彷徨うように歩いているのが少し心配でして」

「あ、俺、彷徨っているように歩いていました?」

 それはやばいですね、と笑って誤魔化す。それから周囲を見回し、そう言えば、ここはどこだろう? と我に返る。


 笹倉が担当していた取引先を後にし、電車を待っていた。次の電車が来るまでの二十分が待ち切れず、一駅くらい歩いてみようかと線路沿いを進んでみた。

 気づけば、線路など、どこにもない。

 住宅街なのにひと気がなく、いやに静かだ。人の声がしない。日が暮れて、すっかり薄暗くなっている。住民の少ない寂れた住宅街なのだろうか、街灯が途切れている。


 ふいに不安になり、初対面の男にもかかわらず、現状をぽろぽろと吐き出す。

「家に帰ろうとしていたんです。仕事でⅠ市に立ち寄っていまして……なかなか電車が来ないから、歩いてみようと思ったんです」

「花取駅ですと、常盤線の駅ですね。ここらは常盤線からだいぶ外れた地域です」

「そうでしたか……。ちょっと考え事をしながら歩いていたら道を外れてしまっていたんですね」


 地図を確かめようと、胸ポケットからスマホを取り出す。

 画面をタップするが、起動しない。いつの間にか充電が切れたようだ。さっき社に電話をしたときは、充分に充電が残っていたはずなのに。

「あれ……。すみません、今、何時ですか? 常盤線までは、ここからどのくらいかかりますか?」

 街灯もない、スマホも起動しない。となると、手元が真っ暗だ。日暮れとは、こんなに暗いものだったろうか。

 暗くなっていくのをこんなに心細く感じるのは、いつぶりだろう。ただの日暮れが、なぜか不安で不安でたまらない。


「常盤線は、あちらです。ここから、この竹林沿いをまっすぐ歩いて、二十分くらいです」

「ありがとうございます」

 男の長い腕が指し示す方向を見ようとするが、暗くて何も確かめられない。鬱蒼とした竹林が、歪で奇妙なシルエットと作り出している。その脇を歩くのが躊躇われる。足を踏み出すのに気合がいった。


 つい、弱くても明かりが灯っている煙草屋に方向転換をしたくなる。

「祐仁」

 背後から、男とも女ともしれない声が聞こえてきた。

「そいつ、誰? 何してんの?」

 掠れているのに、やけに通る。大人か、大人になりきる前の少年少女か、男声か女声か、こんな声の持ち主はどんな人間だ。

 確かめないではいられなくなり、肩越しに振り返る。


 煙草屋の窓口から、色白の人物が身を乗り出していた。

 人形を思わせる、白く透き通るような肌。完璧な卵型の輪郭は、一見すると男にも女にも見えた。だが、よく見ると男だ。のどぼとけがあり、肩幅がそれなりに広い。

 中地半端に伸びた髪が、首の付け根でゆらゆらと風になびている。

「タバコ、いる?」

 ぽかんと口を開けたまま固まる俺に向かって、美しい青年が、誘うように目を細める。

 サービス業に従事している人間の態度とは思えないふてぶてしい態度だ。でもどうしてか腹は立たない。ただただ、彼の手からタバコを受け取りたくてたまらなくなってくる。

「あ、じゃあ」

 ポケットの中の財布を確かめながら、吸い寄せられるように煙草屋に近付く。

「買います。マルボロのメンソール、ありますか……」

 彼からタバコを買いたい。

 彼と言葉を交わしたい。もっと近くで彼の顔を見たいし、もっと近くで彼の声を聞きたい。

 ふらりと歩を進めると、後ろからばしん、と肩を叩かれた。

「いっ、」

 驚いて振り向くと、全身黒男が口元に笑みを浮かべていた。ただし目元は笑っていない。

「常盤線へ行くんでしょう?」

全身黒男に問われ、はっと目が覚める。そうだ、さっきまで家に帰りたくてしようがなかったではないか。

「そっちじゃありません。向こう、ほら、遠くに見える鉄塔が目印です」

「あ、え……、ええ。ありがとうございます。向こうですね?」

 全身黒男が大きく頷く。

 身体が揺れるほど強く叩かれたせいか、目が覚めるような感覚があった。さっきまで怖くて仕方のなかった竹林は、今はただの荒れ地に見える。明かりが乏しいから不安なものの、恐怖はすっかりと消えていた。


「ありがとうございます。それじゃあ」

 脚が軽々と一歩を踏み出す。

 やはりこれは試練だったのだ。禁煙すると決めたなら、目の前に煙草屋があっても揺らぐな、という意味の。


 最後に、綺麗な青年にも挨拶をしようと振り返る。彼の、美しい顔をもう一度見たいという気持ちもあった。

「いらないの?」

 美青年が青い煙草の箱を摘まんで、見せびらかすように振っていた。

 メビウスだ。8ミリの、…………笹倉さんが愛飲していた――。


 はっとして青年の顔を見る。さっきまで、いつまでも見ていたいと思っていた美しい顔は、白蛇のように冷たく無機質に見えた。微笑んではいるが、感情が読めない。大きな瞳は深淵のようで、じっと見ていたら、奈落に吸い込まれるような感覚がした。


 地面が沼地にでもなったように足が掬われる感覚がする。ふらつきそうになり、両脚で地面を踏ん張った。

「さあ。もう行って」

 また、全身黒男に強めに肩を叩かれる。再び我に返り、煙草屋に背を向ける。


 すみませんね、あのこ、いたずら好きで。男は、耳元でそう言って、俺の肩を軽く押し出すようにした。

 はじめに威圧感すら感じた男は、意外にも親切で最後には暖かさすら感じた。煙草屋と彼と、どういった関係かは知らないが、煙草屋には近づかないよう警告してくれているような気がする。とにかく振り返ってはいけないのだ。


 見とれるほど美しい煙草屋の青年も、もう二度と顔を見ようとは思わない。――なぜか恐ろしい。美し過ぎて、深入りすると、後戻りができないような気分になるのだ。

 力強く足を踏み出す。一歩一歩踏み出すたびに、足取りが軽くなってゆく。


 何を恐れていたのだろう。いつもの、何の変哲もない夜の始まりではないか。ただの、舗装されていない、田舎道じゃないか。

 進むたび、周囲の音も聞こえ始めてくる。

 夕暮れ時の、カラスの鳴き声、遠くに響く、大型車両の走行音。


 どれくらい歩いた頃か、踏切の音が聞こえてきて、遠くに線路が見えた。

 だいぶ歩いたようにも思えるし、ほんの数分歩いただけのようにも感じる。

 スマホの充電が切れているのでたしかめようがない。諦め悪く胸ポケットからスマホを出すと、すぐに起動し、充電の残量は67パーセントと表示されていた。

(あれ?)

 なぜさっきは起動しなかったのだろう。充電が切れてしまったと焦ったのに。


 モニターに表示されている時刻を見て、再び狐につままれたような気分になる。

 四時十五分。

 発信履歴を確認する。社に電話をしたのが四時十分。おそらく通話時間は二、三分だろう。


 あれから、ほんの数分しか経過していない……?

 そんなはずはない。

 古びた煙草屋を発見して、黒い服を着た大男と会話をした。美しい青年に煙草を買わないかと声を掛けられ、買おうかどうかと、迷った。

 それから駅までの道を教えてもらい、大男に何度か肩を叩かれた。思わず声が出るほど痛くて――。


(あれ……)

 二人の顔を思い出そうとするのに、うまく思い描けない。二人とも、相当な美形だったのに。

 特に店にいたほうは、今まで見たこともないくらい美しかった。

 なのに、どう美しかったのか、顔のパーツがどうだったのか、今はまったく思い出せない。


 ふと、目線を上げる。鉄塔越しの空が、橙から藍への、美しいグラデーションを描いている。間もなく日が暮れそうだ。早く帰ろう。


 思い切り叩かれた肩をさする。あんなに疲れ果てていたのに、今は逆に軽く感じる。

 肩を叩いてきたのは、黒い服装の男だったか、店の中にいた男だったか……。店の中とは……、店……、店? そういえば、何の店だったろう……?


(本当に、狐にでも、つままれた気分だ)

 千葉の山奥には、狐もいるかもしれない。

 それとも、疲労し過ぎて、白昼夢でも見たか。

 両手を広げて胸を開く。空に向かって深呼吸をすると、やはり都内とは違って空気が美味しかった。


 なんとなく、今来た道を振り返る。

(……何を見ようとしたのだろう)


 なぜ振り返ったのかわからなくなり、軽く首を回して帰途に着いた。


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