会社に戻ろうか。それとも、このまま「直帰」としてしまおうか。午後四時少し過ぎ、判断に迷う時間だ。
今から戻れば、社に着くのは五時半過ぎだ。時間をかけて社に戻るより、直帰して家で残務を片付けたほうがいいような気がする。今日も一日、外に出ずっぱりで、事務仕事が山のように残っている。零時を回る前に片付けられればいいけれど。
チームの皆に、変わりはないだろうか。不在時に、トラブルは起こっていないだろうか。酷いいたずら電話やクレームに悩まされていないだろうか。社に電話を入れた。
「お疲れさまです、林です」
『課長、お疲れさまです』
二回目のコールで、入社二年目の倉谷が電話に出た。
「今日はこのまま直帰しようと思いますが、大丈夫ですか? 僕の不在時に、何か困ったことはありませんでした?」
倉谷は、一呼吸置くと、「大丈夫です」と答えた。
「……倉谷さんも切りのいいところで帰ってね。残業しないように」
「わかりました」
じゃあ、と挨拶をして電話を切る。
「大丈夫」と答えたが、倉谷の声に覇気がなかった。覇気がないと言うより、沈んでいた。
倉谷だけでない、会社全体が沈み、傷つき、周囲から向けられる冷たい目に、耐えきれなくなっていた。
やむを得ない。
勤めていた女性社員が殺され、殺害したのが、その女性社員の上司だったのだから。
事件が明るみになってから、会社は対応に追われ続けた。
警察からの取り調べ、マスコミの対応。他にも取引先、顧客、これまでほとんど交流のなかった、ただオフィスが隣り合っているだけの会社にまで状況を説明し、頭を下げて回った。
(……どうして気付けなかったんだろう)
未だに信じられない。いつも顔を合わせていた同僚が、人殺しをするなんて……。
――うっすらと、違和感は感じていた。
連絡の取れない女性社員に、外回りばかりして社に全然いつかない男性社員。しかもその男性社員は、休み続ける女性社員を贔屓していた上司だった。
もっと強引に割り込んで、二人の話を聞けば良かった……。
西から差し込む夕暮れ時の光に、俺は目を細めた。
暖色系の、滲んだような日の光。やる気を奮い立たせる朝日の光とは違い、しみじみと一日の疲労を感じさせるような、染み入るような光だった。
オレンジ色の光に目を細めていると、どっと疲れが肩にのしかかってきた。
(疲れた……)
慣れない外回りで、脚がぱんぱんだ。このところ、遠方の取引先とはオンラインで話してばかりいたので、完全に運動不足だった。そこに、この重大事件だ。方々から冷たい目を向けられ、腫物にでも触るような態度を取られた。何も聞かずに契約を破棄する会社もあった。業務内容に問題はないのに、関係のないことで切り捨てられるのは心底堪えた。
今は仕事そのものよりも、この社内の人間が起こした殺人事件の後始末に追われる日々で、身も心疲れ切っていた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」。
ご迷惑――。
誰が? 誰に? 迷惑って何だ? どんな迷惑をかけた?
謝罪の言葉を繰り返し過ぎて、すっかりゲシュタルト崩壊を起こしていた。
次の休みには、身体を動かそう。さぼりがちになっていたスポーツジムへ、必ず行こう。運動をして、食生活に気をつけ、健康的な生活を送る。十数年吸い続けてきた煙草も、もうやめよう。禁煙はハードだと聞くが、喫煙所でよく殺人を犯した笹倉と会っていたことを思い出すと、必ずやめなければと腹が決まった。
笹倉課長。笹倉さん。
口数の少ない、地味な人だと思っていた……それなのに、人の命を奪えるなんて。
いったい、何をどうしたら他人の命を奪おうなどと考えるのだろう。相手が自分の思い通りにならないから殺そうなんて、考えられない。
サイコパス? ソシオパス? 自己愛性パーソナリティー障害? …………そんな人間こそ、この世からいなくなれば平和になるのではないか。
……よくない。いつもは考えもしない方向へと、思考が引っ張られてゆく。疲れているのだ。疲れのせいでこんなことを考えてしまう。
他人の命を奪うなんて、自分勝手過ぎる。自分勝手の極みだ。そんな人間こそ……、そんな人間こそ――。