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第33話 呪物とアンデッド

「生まれる前に死んだ子に手を合わせてはいけない。名前をつけてもいけない。当然、思い出したり、胸の内で呼び掛けたりしてもいけない」


 ミズキが、静かな声で語り始めた。抑揚がなく、感情の読み取れない声だ。

「ここらの地域で言い伝えられていたことだ。女たちは、みんなかたくなにそれを守っていた。当然、男も。そうしないと、次の子が宿らないと。でも、母さんはそのいいつけを破った。こっそりと俺の埋められている墓に来ては、『私のかわいい子』と何度も何度も呼び掛けてくれた。俺も答えたつもりだけど、届いていたかな」


 生まれる前――。

 大家には、交通事故で亡くした一人息子の前に、もう一人子供がいた……?


「お前、母親の腹の中で死んだ子か……?」

 返事をせず、ミズキは続けた。

「生まれなかった子は、一度天に昇ってすぐにまた同じ女の腹に宿ると信じられている。ねんごろに弔ったりしたら、いつまでもこの世に留まって再び母親の腹に宿らない。だから、土に埋めたら忘れるのだと。そんな言い伝えがあった。母さんはそれができなかった。毎日毎日俺のところに来て、おまえの顔が見たかったとよく泣いてた。けど」

 ミズキの瞳が暗く陰る。

「腹に新しい子ができた途端、俺のところへは来なくなった。俺がついに生まれ変わったと信じたんだろうな。けど、違う。俺とあいつとは、違う命だ。生まれなかった子は、次に生まれてくるなんて、誰が決めたんだ。現に俺は、来なくなった母親をずっとずっと待ち続けた。再会することはなかった」


 生まれもせず、誰にも顧みられず、土に埋まる、命にも満たない魂――


 人は死んだら、浄土へ上がる。悪事を働いた者は地獄へ落ちる。三途の川を渡って彼岸に渡り、閻魔大王に生前の行いを裁かれる――と、かつては信じていた。

 幼い頃はそれが恐ろしかった。少し成長すると、それが暮らしの中での指針になった。死後、地獄に落ちないよう悪いことはしないでおこう。成人してからも、悪事はいつか報いがくると、頭の隅でうっすらと信じていた。


 では、生前が無かった者は? 生まれる前に死んでしまった者は?

 どこに行くというのだろう。悪事も良いことも、何もできなかった者は? 誰の記憶にも残らず……。

「母親が来なくなってどれくらいが過ぎた頃か。魂が物凄い力で引っ張られた。抵抗する間もなく流れに任せていると、知らない部屋にいた。しばらくするとお前が部屋に入ってきて、びっくりした顔をしてた」

 あの大家の部屋で出会った瞬間を思い出しているのか、ミズキが屈託なく笑った。

「変な顔してた。俺を見て『大家に何をした?』って」

 あはは、と声を上げて笑う。

「何もしてないよ! て、言うか、あいつが俺の親父だっていうのもわからなかった! 今なら、俺が知るわけないだろうって言えるんだけど、あの時は言葉ってものを知らなかった。頭の中で渦巻く思いを、どうやって外に出すのかわからなかったんだ。こっちこそ、お前は誰だ? ここはどこだ? っていろいろ訊きたかった。伝えたいことが多過ぎて。気持ちが悪くなったくらいだ」


 あの時のミズキの顔を思い出す。

 めいいっぱい開かれたガラス玉のような瞳。世界の何もかもに驚愕しているような、それでいて恐れているような、頼りない佇まい。


 生き返ったのではなかった。

 初めて生まれたのだ、この世に。


「ミズキ、……母親には再会できなかったのか……? お前の、弟には……?」

「弟?」

 ミズキが口を歪めて笑う。

「知らない。見たこともない。母さんにも、結局会えてない。死んでも、俺と母さんたちとは行き先が違うみたいだ。俺は、彼岸には行けていないから」


 反魂の術は、半分だけ成功していたのだ。大家と血のつながった者、大家の最初の子が、死後の世界から引き上げられた。――彼岸ひがん此岸しがんの間、この世とあの世の境に漂う「人にもなれなかった魂」のミズキに届いた。


「俺は父親なんてどうだっていい。家族にも、別に会いたいとも思わない」

「ミズキ……」

「ようやくこの世に生まれることができたんだ。もっともっと生きたい。……あそこに戻りたくない」

 ミズキの目に、はじめて敵意のようなものが浮かんでまっすぐこちらを射抜いた。

「俺を家族のところに戻そうとするな」

「戻そうとなんて……」

「してるだろ。知ってんだぞ、反魂の術の解き方を調べているの」

 いったいどれほどの間、孤独でいたのだろう。どれほど強く、行きたいと望んでいたのだろう。

「――わかった。お前がそう望むなら、俺はもう反魂の術を解こうとなんかしない」

「……」

「ただし、お前がいつまでこの世でこうしていられるのか、わからない。いつ術が切れるのか、……いや、永遠に死なないのかもしれない。そうなったら、俺が先に死ぬことになる。俺がいなくなってもお前が困らないように、お前の出生について、反魂の術について、これからも調べる。いいよな?」

 こくん、とミズキが頷く。

「この前も話したけど。俺もそう長生きする人間じゃない。男子は短命っていう、俺の家系の呪いがあるからな。男は決まって頭をやって死ぬ。俺の親父も、脳梗塞で五十になる前に死んだ」

 ミズキが無表情で聞いているので慌てて付け加えた。

「四十代っていうのは、かなり早死にの部類に入るんだ。零歳にもなれずに死んだお前にはわかりづらいと思うけど」

「……」

「とにかく、俺が生きているうちに、」

「お前は死なないよ」

 思わず笑ってしまうくらいはっきりと、ミズキが断言する。

「どうしてわかるんだよ」

 呆れて言い返すと、ミズキが繰り返した。

「お前は死なない。お前は俺とここで生きる」

 励ますような言い方ではない。確信しているような力強い言い方だ。そう言って己を励まさないと、一人になってしまうと不安に押しつぶされそうなのだろうか。……それとも、少しはこちらに愛着を感じてくれているのだろうか。

「そうしたいけど、」

「お前はそうすぐには死なないよ。わかるだろ?」

「わかるって、何を?」

 ミズキが、乱暴に服の下に隠してあったネックストラップを引っ張る。盃の入った巾着を鷲掴みにして目のまえに突き付けてくる。

「気づいてないのか? お前、この前呪物にやられそうになった時に使っていただろ? ちから

「力って……」

「こんなところで死にたくないって願っただろう? ちゃんと叶っただろう?」

「願ったって、――」

 この日の出荘で、ついに死ぬのかと思った。さんざん恐ろしい呪物を集めてきたのだ、ここで死んでもおかしくないと思った。けれどミズキの存在が脳裏を掠め、ここでは死ねない、死にたくないとは願った。

「……俺が、俺が願ったから?」

「ちゃんと獣に火が着いて、助かっただろう? この盃が、お前を死なせないよう頑張ったんだ」

 目の前で、獣の身体に火が着いた。はじめは躊躇する自分に痺れを切らしたミズキが火を放ったのだと思った。けれど着火剤となるライターは、橘の手の中にあった。

「俺が、やったのか……? あの獣に火を」

「正確には、お前の盃がやったようなもんだな」

 ミズキがにんまりと笑う。

「お前、もう半分くらい呪いの世界に取り込まれているんだよ。お前は呪われているんじゃない。呪いに気に入られているんだ。そりゃそうだよな。初めて自分を呪えって受け入れてくれたんだから。この呪いの盃は、お前のことが好きで好きで仕方ないんだ。そう簡単に、死なせたりなんかしない。ずっとこの世で一緒に生きたいと思っている。――その証拠に、ほら」

 盃を弄っていたミズキの指先が真っ黒く焦げている。

「お前と四六時中一緒にいる俺のことが嫌いなんだ。どっか行けって攻撃してくる」

「ミズキ、指が」

 ミズキの指は、人差し指と中指と、見事に焦げていた。

「お前もたいがい呑気だな。おかしいと思わなかったのかよ? 幽霊を生きている人間と間違えたり、普通に会話したり。昔からそんな特別な力があったのか?」

 問われて、これまでを振り返る。

 恵にもらった魔除けのタバコをふかしただけで、はっきりと見えたサラリーマンが背負った怨霊。まるで生きた人間のように走る直人、会話もした……。山形にいる時、そんな経験したことがなかった。自分に霊感があると、思ったこともなかった。

 こういうオカルト体験は、ミズキがそばにいるから起こるのだと思っていた。もしくは、周りにある呪物の影響だと思っていた。

「お前が、お前が火を着けたんだと」

 そんなわけないだろ! とミズキが快活に笑う。

「ライターを渡していたじゃないか! 祐仁おまえ、もう片足を突っ込んじゃっているんだよ、こちら側の世界に」

 こちら側――こちら側ってどっちだ。

「俺とお前と、この盃。三つ巴でずっと生きていく。楽しみだな」

 ミズキが、これまで見たことのないような満面の笑みを浮かべた。妖しくて、意地が悪そうで、嬉しそうで、今までで一番、少年らしい笑顔だった。


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