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第31話 呪物とアンデッド

 その晩はなかなか寝付けず、浅い眠りの落ちたのは明け方頃だった。


 夢を見始めた、と思った瞬間、意識が引き戻された。

 薄く目を開くと、部屋が真っ暗だ。一筋の光もさしていない。まだ夜明け前か。


 ……無防備に目を開いたことを後悔した。夜明け前なのではない。真っ黒い影が、顔に覆いかぶさる勢いで迫っていた。


 眼前の影から、またあの虫の羽音のような雑音がする。今日は間近から響いて、激しい耳鳴りのようだ。獣の唸りのような、女の悲鳴のような、男の苦し気な呻き声のような、不気味な音が混じり合った耳鳴りだ。地獄の音を表現するとしたら、こんな音ではないだろうか。


(足元から、一気にお近づきだな)

 今にも鼻先が黒い影に接触しそうだ。目から、口から、影の粒子が侵入してきそうで恐ろしい。身体を起こして振り払いたいが、例のごとく金縛りで動けない。


 脛の骨が、キリキリと痛む。脚だけでなく、上半身も、顔の骨も痛んだ。額にまで痛みが上ってきた時、まさか、と思い至る。

 まさかこの子供の怨霊に、頭をやられてここで死ぬのか――


 橘家の男はみな、頭をやられて死ぬ。曾祖父は戦争で頭を打ち抜かれ、祖父は交通事故で頭を潰されて死んだ。父は、橘が十代の時に脳梗塞で死んでいる。

 過去、橘家の先祖が死人の頭を割って冒涜したからだ。頭を割られた亡霊たちが、今も橘家を呪っている。

 自分も呪いにやられるとしたら、脳梗塞だろうかと考えていた。事故で頭を強打するとか、頭上に何か重い物でも降ってくる可能性も考えた。

 馬鹿みたいな話だが、毎年、律儀に脳ドックを受けている。建設現場や工事現場のそばは通らないようにしているし、高校一年生から毎日乗っていたバイクも、呪いの話を聞いてからは乗るのをやめた。


 けれど、誰かに頭を傷つけられて死ぬなんて、考えたこともなかった。

 そうか。ここで……。


 耳鳴りがなお一層激しく響く。もう、耳から内部に入り込まれているのかもしれない。


 呪物に取り憑かれて死ぬなんて、まさに呪物蒐集家らしい死に方だ――――


(そう簡単に死んでたまるか)


 階下で眠っているだろうミズキの顔が脳裏を掠め、気持ちを振るい立たせた。あの厄介なアンデッドを一人残し、そう簡単には死ねない。

 身体を起こそうとすると、さらに頭をきつく絞めつけられた。頭蓋骨が割れそうに痛い。目がえぐられるほど痛いと聞く群発性頭痛とは、こんな感じだろうか。

 身体を起こせなくても、手を動かせないか。脚でもいい。せめて影を蹴散らしたい。

 両腕に力を籠めると、胸の辺りが熱くなり出した。胸骨のあたりが、火傷しそうに熱い。寝ている時も首に提げている盃の巾着が、お灸のように熱を発している。


 子供の怨霊に刺激され、橘家の呪いの盃も活性化しだしたか。頭の激痛に、心臓に、霊障が嵐のように巻き起こる。もう、何がなんだかわからなかった。これで死んだら、自分自身も怨霊になってしまいそうだ……


 がちゃり、と乱暴にドアが開かれ、弱い光が部屋に差し込んだ。廊下の光を背に、ミズキが立っている。

 一気に耳鳴りがやみ、目の前の影が霧散した。だがすぐに、枕元で虫の大群のように形を成そうとしている。


「何が子供の霊だ。低級霊や畜生霊がうじゃうじゃ集まって塊になっているだけじゃないか」

「低級霊……」

 ミズキが、手にしていた黒いパッケージからタバコを一本取り出した。いつも橘が持ち歩いているタバコだ。一本一本に反魂香はんごうこうが巻き込まれており、煙を吹きかけると霊の姿が浮かび上がる。


 ミズキは口には咥えずに煙草に火を点けると、黒い影に向かって放った。小さな火種は、影に触れてばちっと火花を上げる。

 うをぉぉ、と地鳴りのような獣の咆哮が上がる。

 火花の奥に、見たこともない獣の姿が見えた。頭が狐で身体が蟲、腹から尾にかけて、いくつもの脚が生えたムカデのような、悍ましい姿だ。全体にぬらぬらと濡れた毛におおわれているが、ところどころ毟られたように禿げている。見ているだけで吐き気が込み上げてくる。獣全体から、まだ地獄の呻きのような鳴き声が響いている。


「どこが可哀想な子供なんだよ。気持ち悪いな」

 だが――。何本もある獣の脚の中に、人間のものも見えた。肌色で指が五本あり、薄く平たい爪がついている。奇怪な動きで関節を激しく動かしているが、確実に人間の足だ。


「焼け」

 ミズキが冷酷にライターを放って寄越す。ライターをキャッチしてもなお、橘の中の迷いが完全には消えなかった。


「早く焼け!」

 この獣の中に、虐待死した子供も取り込まれてしまったのかもしれない――いまさら救う手立てはないとわかっていても、火を放つなんてとても……


 今や、自分の身が焼けてしまうのではないかと思うほど、胸元の巾着が熱い。蟀谷こめかみに汗が伝う。顎に伝った汗が畳に滴る瞬間、獣の身体にぼっ、と火が着いた。


「まてっ、ミズキ!」

 瞬く間に獣が火に包まれる。狂人の叫びのような、耳障りな悲鳴が耳をつんざく。


 轟轟と火が上がる向こうに、微動だにせず戸口に立つミズキのシルエットが見える。表情までは見えなかった。


 獣の絶叫の最後に、子供のすすり泣きのようなか細い声が混じり、長く尾を引いた。


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