「本当に進学しなくていいのか」
母に、本音を探ってこいとでも言われたのだろう。珍しく、幸一が深夜に部屋を訪ねてきた。戸口に寄りかかったまま、ベッドに寝転がる橘を見下ろしている。廊下の灯りが逆光になって、顔がよく見えない。
父の突然の死から一年が過ぎていた。橘は高校三年になり、進学か就職か、最終決断を下すタイミングを迎えていた。
「いいんだよ。ずいぶん前から決めていたんだ」
「……」
「話はそれだけ?」
幸一は、部屋に入ろうとせず戸口に立っている。幸一も身長が百八十以上あるので、ドアの上枠に頭が届きそうだ。両親は二人とも小柄だっただから、橘たちの背の高さは、車に轢かれて頭を潰された祖父の隔世遺伝を受けたのかもしれない。
入れば? と声を掛けても、立ちくしたまま動こうとしない。
個室を与えられてからも、中学の頃まではよくお互いの部屋を行き来していた。夜中までゲームをやったり、漫画を読んだりして楽しんでいたのだが、高校生になるぐらいから、それぞれ自室に篭るようになった。
正確には、盃の話を聞いてから、だ。
父の死からいくら日が過ぎても、橘たち兄弟の心が元のように回復することはなかった。あれから、不安がオリのように溜まり、常に死の恐怖が付き纏った。そうすぐ死にはしない、父の年齢くらいまでは生きられる。いくら自分自身に言い聞かせてみても、心が軽くなりはしなかった。
部屋に入ろうともしない、けれど立ち去りもしない、木偶のように立ち尽くす幸一にかける言葉を探す。
「やりたいことがあるんだ。だから大学には行かない」
「……やりたいことって何」
「旅行、とか」
自分で口にしておきながら、軽々しい夢だなと思った。
昔から、将来の展望がはっきりしなかった。橘家の呪いの話を聞く前から、もともと自分は何をしたいのか、どんな仕事に就きたいのか、よくわからなかった。器用貧乏な気質があり、何をやっても合格点を叩きだせた。そうなると、かえって適性がわからない。求められれば、幸一の片腕となって家業を手伝うのもいい、などと厚かましいことも考えていた。
呪いの話を聞いてからは、ますますやりたいことがわからなくなった。
何かを目指す途中で命が潰えたら馬鹿らしい。
夢に手が届きそうな時に死んだら、未練が残る。
そう先が長くないのなら、何もしていても常に無力感が付き纏った。
「どうせなら、広い世界を見てから死、……」
「死ぬ」というフレーズが、幸一の前ではすっかり禁句になっていた。橘はすで諦めの境地に差し掛かっていたが、神経質な幸一は「死」に関するすべてに敏感になっていた。元々、
「俺、結婚するんだ」
突然、幸一が語り出した。なんの前触れもなく本題に入るところが、母にそっくりだ。
「真由ちゃんと?」
尋ねると、幸一は黙って頷いた。
「おお、おめでとう。式は挙げるのか? なんだよ、それを言いにきたの?」
「……」
幸一には、高校生の頃から付き合っている恋人がいた。七年にも及ぶ付き合いで、この家にも何度も遊びに来ている。橘も顔見知りだった。
「式は、わからない……挙げるかどうかも。真由、妊娠しているんだ」
浮かない様子なのは、妊娠が先になってしまったからか、と推し量る。けれど二人は両家ともに公認の仲だったし、真由は母とも親しくしている。年齢も二十代中盤だし、そう不安そうな顔をしなくてもいいのでは、と思った。
……けれど暗い顔をしている本当の理由は、なんとなく察しがつく。
「ダブルでめでたいな」
「……」
人生のイベントが進めば進むほど、幸一は死に近づいていくようで怖いのだ。
呪いの話を聞いてから、幸一が、どうにか盃を処分しようと奮闘しているのを知っている。全国各地の由緒ある寺を訪れたり、大金を積んで神社に頼み込んだりしていた。月に一度は休みを利用して全国各地を飛び回っている。よくない傾向だと思った。呪いは、信じれば信じるほど現実味を帯び、恐れれば恐れるほど効力が濃くなる。
盃の処分は、すべて骨折り損に終わったようだ。この前蔵に入って確認してみたが、盃はあの小袖箪笥にしっかりと仕舞われていた。包みを開くと、傷が増えた様子もなかった。
深夜の庭で、盃に金槌を振り下ろす幸一の姿を見ていたから、傷一つついていないのを見た時にはさすがにぞっとした。
「そんな顔をしていたら、真由ちゃんが悲しむだろ。私と結婚するのが嬉しくないのかって」
「……そうだよな」
今にも泣き崩れそうな表情で幸一が頷く。きっと幸一だって心から喜びたいはずだ。なんの不安もなく、長年の恋人と結ばれたいはずだ。
真綿で首を絞められるとはこのことだ。呼吸が止まるほどではない、中途半端な苦しみが、長くしつこく続く。物事深く考え、慎重に行動する幸一にとっては、橘の何倍もの不安と苦しみだろう。
「――あの盃は、俺が持って出ていく。もう二度とこの家には戻らないよう、ずっと持っておくよ。途中で手放したりしない」
「持っていくって、祐仁……」
「俺、もともとあの話信じてないんだ。陶器一つで何人ものひとが死ぬって変だ」
「でも、じいさんも父さんも」
「脳梗塞は日本人の死因の第四位だぞ? なんでも呪いにつなげるなよ」
「……」
「やめようぜ、馬鹿馬鹿しい。みんなで呪いだ呪いだって騒ぐから、呪いも期待に応えなきゃってがんばっちゃうんだ。俺が持っていく。どうせ信じてないから、あれはただの盃だ」
幸一が一度口を開きかけ、再び閉じた。目じりの縁が赤く染まっている。何度か口を開閉し、絞り出すような声で問いかけてきた。
「あれがなければ、大学に行ってたか? 進学の話は別としても、この家にいたかったんじゃないのか? 地元に、」
「俺はもともとここを出たかったんだよ。橘の家が息苦し過ぎる。近所のじいちゃんばあちゃんに会うたびに、『もうすぐお宅にお世話になるからね』って言われるのも、もう嫌なんだよ」
幸一が小さく噴き出して、ようやく空気が緩んだ。
「俺はもともと
再び幸一が泣きそうな顔になった。
特別に仲の良い兄弟だったわけじゃない。
小さい頃はよくケンカもしたし、思春期ともなれば、しょっちゅう相手を疎ましくも思った。未だに考え方が違い過ぎて苛々する時もある。幸一もきっとそう感じているだろう。
家族のこともそうだ。激しく反抗していたわけではないが、ありがたく思う時もあれば、煩わしくて一人になりたい時もあった。
『貴方の笑った顔が見たい』――。CMやドラマなんかで耳にすると、ぶるっと身震いするほどだ。こんなセリフ、口にしたこともないし、心に浮かんだこともない。
けれど家族の、幸一の苦しむ顔は、何よりも堪える。自分が辛い思いをするよりずっときつい。そんな顔を見るくらいなら、自分が苦しんだほうがマシだと思う。
「真由ちゃんによろしく」
結婚式には、おそらく出られない。
幸一が涙ぐむ。安堵の涙か、弟を憐れむ涙かわからない。
どちらでもいい。安堵でいい。
死の恐怖に苛まれる幸一の顔を見続けるくらいなら、自分が盃に呪い殺されたほうが気が楽だ。