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第23話 橘家の盃

「私たちがこうして不自由なく暮らせるのはご先祖様のおかげ。ご先祖様には頭が上がらない。――でもね、一つだけやってはいけないことをしてしまっていたの」

「……なに」


 母がおもむろに包みを開く。

 和紙の中から、小さな盃が出てきた。深さはなく、底から口縁こうえんにかけてじわりと茶色のシミが広がっている。高台こうだいは一部欠けていて、とても高級な食器には見えなかった。

「なに、その汚い小皿は」

 潔癖症の幸一が眉を顰めて訊く。皿じゃなくて盃だろうと思いながら、母の返答を待つ。


 母は顔を上げると、瞬きもせずに一気に言った。

「これは死んだ人の脳漿のうしょうを受け止めた盃」


 ノウショウ、と響きだけを聞いても、すぐには何かわからなかった。

 人のノウショウ……、死んだ人のノウショウ……。脳のまわりを満たしている液体の「脳漿」だと気づいた時は、総毛立った。


 幸一も脳漿の意味に気付き、声を震わせた。

「なんでそんなものが……。うちは医者の家系じゃないだろう」

 幸一の言い分はもっともだ。頭が潰れたご遺体が運ばれてくることがあっても、わざわざ脳漿を取り出すなんて真似はしない。それに、ご遺体を傷つけるなど、あってはならないことだ。

「そうよ。うちは葬儀屋。ご遺体を傷つけるなんてあり得ないの。――だけど長い歴史の中で、明日にも会社が潰れそうな時があったのよ。稼ぎがほとんどなく、従業員のお給金が払えなくて……。そんな時、焼く前のご遺体の頭を割って、脳漿を取り出し、それを万病に効く薬として売ったの」


 ……なんだそれは。まるで山田浅右衛門一族ではないか。

「そんなもの、病気に効くわけないだろう!」

 思わず、顔を顰めて吐き捨てる。死人の頭を割って取り出した行為にも嫌気が差すし、それを誰かが飲用薬として口にしていたと思うと吐き気が込み上げる。

「中国の漢方薬が流行っている時代でね、人体から摂れる薬は妙薬だって有難がられたの。脳漿はよく売れて、首の皮一枚でなんとか続いていた家業がようやく軌道に乗り始めた」


 頭の中に、カナダのメイプルシロップの採取風景が思い浮かぶ。楓の幹にドリルで穴を開け、そこから漏れ出す樹液を器で受ける――。

 同じようなことが人間の頭で……。どんな物で穴を開けていたのか、脳漿はどんな色をしていたのか。いけないと思っていても、想像が止まらない。橘は暴走するイメージを振り払うようにかぶりを振った。

「なんでそんな物とってあるんだよ! お焚き上げして捨てようよ!」

 謎のシミを残したまま、何を後生大事にとっているのか。訴えても、母は首を横に振る。

「ご先祖様も、何度か処分しようと思ったみたい。でも、お寺さんにお願いしても、神社に託しても、割れるどころか元の姿のまま、この家のどこかに戻ってくるの。この盃は、橘家に代々残る負の遺産なのよ」


 そこで初めて母親の口角がぐっと下がり、さめざめと泣き始めた。

「橘家の男子は、この盃のせいで長生きができないんだって。お母さんも、お嫁に来てからこの話を聞かされたの。もしもお父さんの身に何かあったら、この盃の話を息子たちにしてやってほしいって言われていて……」

 普段、行儀や立ち振る舞いに口煩い母が、激しく洟をすすりながら訴える。何度も捨てようとしたけれどだめだった。何度も、ただの迷信だと思おうとしたが無理だった、と。


「結婚してまもなく、お義父とうさんが死んだ。車に撥ねられて、対向車線に弾き飛ばされたところに大型トラックが来て……。トラックの下敷きになって頭が潰れて本人確認が難しいくらいだったの。お父さんのおじいちゃん、ひいおじいちゃんは戦争で頭を打たれて死んだ。――頭をやって死ぬのよ、みんな」

 父も今日、脳梗塞で倒れた。

 頭を割られた亡霊の怨念が、今もまだ橘家を呪っているというのか――。


 じり、と再び照明が明滅する。それまで無言で聞いていた幸一が声を引きつらせる。

「じゃあ、じゃあ……、俺たちも頭をやって早死にするって言うの? それを言うためにここに呼んだのかよ?」

 母は、そうだとも違うとも言わずに、幸一の手を取った。

「気をつけなさい、気をつけて生きなさい。幸一も、祐仁も」

 気をつけろと言われても……。幸一はわなわなと震えている。橘は突拍子もない話に、まだ理解が追いつけずにいた。


「気をつけろって言われても……。じいさんの死も、ひいじいさんの死も、たまたまだよ。父さんだって、軽い脳梗塞だって言われたじゃないか。対処が早かったから大丈夫だって、医師せんせいも言っていただろう? すぐに退院してくるよ」

 橘の言葉に、母は余計に瞳を潤ませた。ごめんね、と声を震わせる。

「あんたたちを男に産んでごめんね。女だったら、女の子だったら呪いを継がずに済んだかもしれないのに」

 わっ、と母親が両手で顔を覆う。慰めてやりたいという気持ちと、死ぬと決めつけるなという気持ちとが、綯交ないまぜになって腹の中に渦巻く。


 ちら、と隣を見る。臆病な幸一は、案の定顔を青くしている。古い蛍光灯の光のせいで、余計に青ざめて見えた。

「こんな与太話、信じるなよ」という気持ちを込め、幸一の肩を強めに叩く。しゃがんだまま泣き続ける母親を立ち上がらせ、外へ出ようと促す。

「埃っぽいから出よう」


 母の手にある盃を抽斗に戻す。触れた瞬間は、やはり少し怖かった。この小さな盃が橘家の男たちを死に追いやったのかと思うと、触れただけで寿命が縮まる心地がした。茶色いシミが、指から身体へと伝ってきそうで悍ましい。

 母は、ぐすぐすと泣き続け、幸一は一言も言葉を発しなかった。

 動き出せば、さっきからまとわりついて離れない、何者かの気配も霧散すると思った。けれど蔵を出ても、家に入っても、気配は消えなかった。見えない重しを、背後から背負わされたような気分だ。首が、肩が、頭がずっと重い。


 三日後、容体が急変して父が死んだ。


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