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第22話 橘家の盃

 盃を初めて見たのは、父が脳梗塞で倒れた日の晩だった。


 大事な話があると母に言われ、兄・幸一こういちと共に夜のくらの前に呼び出された。

 橘家の庭には、白漆喰の壁のくらと、木造の土蔵どぞうがあり、蔵のほうは常に施錠されていた。鍵自体も、これまで目にしたことがなく、普段から誰も出入りしていないようだった。


 小学生の頃は、よく友人たちが橘家に集まり、広い庭で遊んだり、敷地全体を使ったかくれんぼをしたりした。その時も、土蔵に隠れて良くても、蔵には決して近づけてもらえなかった。

「蔵の中には大事な食器がしまってあるの。割ったらお父さんに叱られるから、入っちゃだめよ」

 母に何度も釘を刺され、小学校高学年になる頃には、すっかり蔵に近付こうとは思わなくなっていた。


 その禁忌の蔵に、幸一と二人、呼び出された。しかも、父親が病で倒れたその日に。

「なんで今さら蔵? 何があんの?」

 蔵の扉に鍵を差し込む母の背中に向かって問いかけた。

 橘は高校二年生になっていた。四つ上の幸一は、大学三年生になっており、「明日もテストなのに」と、橘以上に不服そうにしている。

「いいから」

 母親だって、父の入院騒動で疲労困憊のはずなのに、物言わせぬ勢いで蔵に入ってゆく。不承不承、幸一と母の後に続いた。


 内部はリフォームされていて電気が通っていた。戸口付近の古臭いスイッチを上げると、じー、と音をたてて蛍光灯が灯った。

 文句を言っていたのも忘れ、照らし出された蔵の内部に見入る。

 梁がむき出しの高い天井、二階建てだ。板張りの床の上には、たくさんの葛籠つづらかごが置かれている。奥のほうには様々な箪笥たんすが並んでいるが、中に何が入っているのか見当もつかなかった。橘葬儀社たちばなそうぎしゃの仕事道具は、すべて家から離れた所にある倉庫に仕舞われている。

 入口の右手に、急な造りの梯子階段があった。

「こんなふうになってたんだ……」

 不機嫌丸出しでいた幸一も、すっかり口を開けて感心している。


「こっちに来て」

 母に呼ばれ、奥へと進む。母は、小さな小袖箪笥こそでたんすの前でしゃがみこんでいた。

 顔にかかる蜘蛛の巣に辟易しながら近づいてゆく。母は一番下の抽斗ひきだしを引くと、そろりと中に手を入れた。


「大丈夫だと思うけど、念のため二人は下がってて」

 爆発物でも出すのかと身構える。一メートルほど離れて首を伸ばしていると、母がそっと抽斗の中から小さな包みを取り出した。


 瞬間、じり、と電気が明滅してあたりが暗くなった。ひやりと、冷たい空気が首元にまとわりつく。まだ残暑の厳しい九月だというのに……。

 三人しかいないはずの空間に、突然誰かが加わった気がした。背後に、何者かがいるような気配がしてならない。橘は何度も後ろを振り返った。扉は閉めたはずだ。母と兄と自分以外、誰も入ってきていないはずだ。


「なに、母さん、それ何?」

 何事にも用心深い幸一が、身構えたまま母に訊く。橘も、ぞわぞわする空気を払拭できないまま母の手の上を見つめた。母の手の上にあったのは、小さな和紙の包みだった。

「何それ」

 大きさは、母の手の甲くらいで、一、二センチほどの厚みがある。汚れた和紙に包まれ、中身が何かまったくわからない。小さなちっぽけな包みなのに、どうしてかおぞましい感じがして目が離せない。


「――お父さんは、死にます」

 母が顔を上げた。包みの説明もせず、突然、縁起でもないことを言い出す。

「……は? 何言ってんの」

「そうだよ。やめろよ、母さん」

 幸一と二人でとりなしても、母は無表情で繰り返した。

「死にます。たぶんもう、家には帰ってこられない」

「なんで、そんな……」

 なぜ、そんなに父の死を確信しているのだろう。実は両親は不仲で、母は密かに父の死を望んでいたのだろうか? 小言を言いながらも、夜になると向かい合って晩酌をする二人は、そんな風には見えなかったが……。それに母の表情は硬く、望み通りになった状況を喜んでいるようには見えない。そんな淀んだ感情を、息子二人に語って聞かせる必要もない。


「うちの葬儀屋が江戸時代から続いているのは知っているわよね?」

 順に視線を合わせられ、幸一と二人、黙って頷く。

 文久ぶんきゅう三年創業、葬儀のご用命は橘葬儀社へ――。国道沿いの看板でも、地元紙に折り込まれる広告でも、このフレーズを嫌というほど目にしてきた。

「江戸時代、この地域のお寺の火葬を手伝っていたのが始まり。そこから民間で火葬を始めて、少しずつ今の会社の基礎を築いていったの。今やグループ会社も含めて、地元では誰も知らない人がいないほどの会社よ。あなたたちも、小さな頃から『橘のところの息子さん』って呼ばれていたのはわかっていたわよね?」

「わかってる」

 わかっている。小さい頃から「橘のとこの坊ちゃん」と呼ばれ、さりげない優遇を受けてきた。駄菓子屋で小銭が足りなくなっても、お遣いで手持ちのお金がオーバーしてしまっても、「橘です」と言えばツケがきいた。後で家族が足りない分を払いに行けば、逆に手土産をもらって帰ってきたりした。夏にはお中元が、冬にはお歳暮が山のように届いた。

 クラスメイトには「金持ち」と羨ましがられたが、橘は時々、息が詰まって仕方がなかった。優遇を受けるかわりに、いつも地域の大人たちに見張られているような気がする。両親からは常に、「橘家の人間だという自覚を持て」と、礼儀やマナーについて厳しく躾けられた。


 高校を卒業したら家を出ようと、ひっそりと決意していた。

 一方幸一は、大学を卒業したら、跡取りとして橘葬儀社に就職することが決まっている。



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