盃を初めて見たのは、父が脳梗塞で倒れた日の晩だった。
大事な話があると母に言われ、兄・
橘家の庭には、白漆喰の壁の
小学生の頃は、よく友人たちが橘家に集まり、広い庭で遊んだり、敷地全体を使ったかくれんぼをしたりした。その時も、土蔵に隠れて良くても、蔵には決して近づけてもらえなかった。
「蔵の中には大事な食器がしまってあるの。割ったらお父さんに叱られるから、入っちゃだめよ」
母に何度も釘を刺され、小学校高学年になる頃には、すっかり蔵に近付こうとは思わなくなっていた。
その禁忌の蔵に、幸一と二人、呼び出された。しかも、父親が病で倒れたその日に。
「なんで今さら蔵? 何があんの?」
蔵の扉に鍵を差し込む母の背中に向かって問いかけた。
橘は高校二年生になっていた。四つ上の幸一は、大学三年生になっており、「明日もテストなのに」と、橘以上に不服そうにしている。
「いいから」
母親だって、父の入院騒動で疲労困憊のはずなのに、物言わせぬ勢いで蔵に入ってゆく。不承不承、幸一と母の後に続いた。
内部はリフォームされていて電気が通っていた。戸口付近の古臭いスイッチを上げると、じー、と音をたてて蛍光灯が灯った。
文句を言っていたのも忘れ、照らし出された蔵の内部に見入る。
梁がむき出しの高い天井、二階建てだ。板張りの床の上には、たくさんの
入口の右手に、急な造りの梯子階段があった。
「こんなふうになってたんだ……」
不機嫌丸出しでいた幸一も、すっかり口を開けて感心している。
「こっちに来て」
母に呼ばれ、奥へと進む。母は、小さな
顔にかかる蜘蛛の巣に辟易しながら近づいてゆく。母は一番下の
「大丈夫だと思うけど、念のため二人は下がってて」
爆発物でも出すのかと身構える。一メートルほど離れて首を伸ばしていると、母がそっと抽斗の中から小さな包みを取り出した。
瞬間、じり、と電気が明滅してあたりが暗くなった。ひやりと、冷たい空気が首元にまとわりつく。まだ残暑の厳しい九月だというのに……。
三人しかいないはずの空間に、突然誰かが加わった気がした。背後に、何者かがいるような気配がしてならない。橘は何度も後ろを振り返った。扉は閉めたはずだ。母と兄と自分以外、誰も入ってきていないはずだ。
「なに、母さん、それ何?」
何事にも用心深い幸一が、身構えたまま母に訊く。橘も、ぞわぞわする空気を払拭できないまま母の手の上を見つめた。母の手の上にあったのは、小さな和紙の包みだった。
「何それ」
大きさは、母の手の甲くらいで、一、二センチほどの厚みがある。汚れた和紙に包まれ、中身が何かまったくわからない。小さなちっぽけな包みなのに、どうしてか
「――お父さんは、死にます」
母が顔を上げた。包みの説明もせず、突然、縁起でもないことを言い出す。
「……は? 何言ってんの」
「そうだよ。やめろよ、母さん」
幸一と二人でとりなしても、母は無表情で繰り返した。
「死にます。たぶんもう、家には帰ってこられない」
「なんで、そんな……」
なぜ、そんなに父の死を確信しているのだろう。実は両親は不仲で、母は密かに父の死を望んでいたのだろうか? 小言を言いながらも、夜になると向かい合って晩酌をする二人は、そんな風には見えなかったが……。それに母の表情は硬く、望み通りになった状況を喜んでいるようには見えない。そんな淀んだ感情を、息子二人に語って聞かせる必要もない。
「うちの葬儀屋が江戸時代から続いているのは知っているわよね?」
順に視線を合わせられ、幸一と二人、黙って頷く。
「江戸時代、この地域のお寺の火葬を手伝っていたのが始まり。そこから民間で火葬を始めて、少しずつ今の会社の基礎を築いていったの。今やグループ会社も含めて、地元では誰も知らない人がいないほどの会社よ。あなたたちも、小さな頃から『橘のところの息子さん』って呼ばれていたのはわかっていたわよね?」
「わかってる」
わかっている。小さい頃から「橘のとこの坊ちゃん」と呼ばれ、さりげない優遇を受けてきた。駄菓子屋で小銭が足りなくなっても、お遣いで手持ちのお金がオーバーしてしまっても、「橘です」と言えばツケがきいた。後で家族が足りない分を払いに行けば、逆に手土産をもらって帰ってきたりした。夏にはお中元が、冬にはお歳暮が山のように届いた。
クラスメイトには「金持ち」と羨ましがられたが、橘は時々、息が詰まって仕方がなかった。優遇を受けるかわりに、いつも地域の大人たちに見張られているような気がする。両親からは常に、「橘家の人間だという自覚を持て」と、礼儀やマナーについて厳しく躾けられた。
高校を卒業したら家を出ようと、ひっそりと決意していた。
一方幸一は、大学を卒業したら、跡取りとして橘葬儀社に就職することが決まっている。